• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023.2.5主日礼拝

説教題:憐れみは裁きに打ち勝つ 聖書箇所:ヤコブの手紙2章1-13節(新共同訳新約422-423p )

◆人を分け隔てしてはならない 2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。2:6 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。2:7 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

ハレルヤ! 2月の一主日を迎えています。先週は溝口先生に御言葉を取り次いで頂きました。有難うございました。私たちの教会では、ヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日は四回目となります。先ず、ヤコブ書を理解する上でのキーワードを確認しましょう。キリスト者の成熟です。著者は手紙の受取人がキリスト者として成熟をすることを願い祈りこの手紙を記したのです。前回は1章19-27節を通し、「御言葉を心に留め実行しよう!」題し三つ事を中心にお話をしました。①御言葉を心に植え付ける、②御言葉を実行する人は祝福を受ける、③キリスト者には社会的責任があるでした。今日は続く2章1-節から「憐れみは裁きに打ち勝つ」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

①差別は罪

今日の箇所の小見出は「人を分け隔てしてはならない」ですが、前半1-7節では当時のユダヤ人教会の中に貧富による差別の問題があったことが記されています。後半の8-13節では「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の教えを「最も尊い律法」(8節)、自由をもたらす律法(12節)と呼び、決して人を分け隔てしてはならないことを強調しています。では、1節から順番に見てまいりしょう。PPT2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。「わたしの兄弟たち」とありますが、著者は次の主題に入るときこの表現を好んで使っています。続いて、「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」とありますが、改革者カルバンは「キリストの栄光が輝き出るときに、この世の栄光はみなたやすく消え去ってしまう」という名言を残しています。すべての人は神の前で自分の罪を認めひれ伏すものです。ですから、キリストに対する信仰と貴賎貧富によってよって「人を分け隔て」することの両立は出来ないのです。新共同訳では「分け隔て」と訳され、「依怙贔屓」と訳されている聖書もありますが、原語ギリシャ語の元々の意味は「顔を受け取る」です。「肉体的特徴から判断をする」の意味で、そこから社会的立場や人種について区別、差別する場合に使われるようになったのですが、キリスト者、イエス・キリストへの信仰告白には人間的名誉、立場、地位、身分など一切のものは関係がありません。そこには何ら分け隔てないのです。2-4節には集会で人を分け隔てする具体的な例が記されています。2節を見てみましょう。2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。あなたがたの集まりに」とあります。教会は社会の縮図と言われますが、初代教会時代から様々な人が出入りしていました。また、会堂がない場所では家で集会が開かれていました。その集会にはキリスト者に交じって未信者も異邦人も自由に出入りができたのです。そこには文化や習慣が異なる様々な人がいたのです。「金の指輪をはめた立派な身なりの人」もいましたし、「汚らしい服装の貧しい人」もいましたが、問題は、そういった人たちの身なりではなく、そういった身なりをした人たちへの対応についてです。 3,4節です。2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。この手紙の受取人の中には人を身なりで判断し、貧富の差よって態度を変えて接していたものがいたのです。これはキリストの心をふみにじる行為であり、信仰の堕落とも言えます。ガラテヤの信徒への手紙3:26-28を見てみましょう。 3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。さて、私たちはどうでしょうか。恵みによって救われキリストの体なる教会の一員とされていますが、身なりなどで「人を分け隔て」たりしていないでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。5節を見てみましょう。2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。」とあります。著者は再び口調をあらため前節からの続きの内容を強調しています。当時、ユダヤの教会では貧富の差がありました。そこから差別と偏見が生じ信仰ゆがめられる人たちがいたのです。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」とあります。前節では信仰者が神の前に等しいことを語りましたが、5節では、神の選びを強調しています。神は貧しい者に愛を注ぎ、彼らをあえて選ばれるのです。彼らを富ませるとは、信仰によって霊的に富ませるものとすることです。霊の賜物を与え、神の国の世継ぎとしてその栄光にあずからせしめることを意味します。注意しなくてはならないことは、貧しい者が例外なく救われることでも、裕福なものが全く救われないということではありません。富や地位、身分は救いの条件ではありません。裕福であるがゆえに上座に座ることを当然と思っている者へ、神の選びはむしろ貧しい者の上にあるのだと警告を与え、彼らが悔い改めを願いつつ、一切の貧富による差はあってはならないと語るのです。6節を見てみましょう。2:6 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。「貧しい人を辱めた」とあります。この手紙の受取人の中には貧しい者を軽蔑し辱めたという悲しい事実があったのです。金持ちはただ富んでいるという理由だけで、周りの人に対して当然のように高慢な態度で振舞っていたのです。「裁判所へ引っ張って行くではありませんか」とあります。訴訟事件のような法律上の争いが起きた場合、両者がキリスト者であっても金持ちは裁判所に訴え、貧しい者を精神的に痛め、辱め、約束の期限が来ても払えない金銭を無慈悲に取り立てるという態度だったのです。愛について、マザー・テレサの名言は数多くありますが、一つをご紹介したいと思います。PPT「貧しい人たちは神からの贈り物です。貧しい人たちは私たちの愛なのですから。キリストは、私たちがいかほどのことを為(な)したか、お訊きにならないでしょう。私たちの行為の中に、いかほどの愛の心を入れたかをお訊きになるはずです。(『マザー・テレサ、愛を語る』51頁)7節を見てみましょう。2:7 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。「彼らこそ」とありますが、お金持ちの人たちの事です。「尊い名」とはキリストの名です。キリスト者とは信仰によってキリストのものとされた者です。コリントの信徒への手紙一3:23を見てみましょう。 3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。勿論、キリスト者にも固有名詞がありますが、キリスト者と呼ばれるのは「キリストのもの」だからです。「与えられた」と訳されている言葉は原語のギリシャ語では「呼ばれる」という意味で、結婚によって夫の名前を使うようになった妻や、子どもがその父親の名を受け継ぐときに使われる言葉です。このことからもキリスト者はキリストの名前を受け継いでいるこがわかります。以前、私が働いていた職場で私のことを姓名でなく「耶蘇の人」と呼ぶ方がいましたが、その通りです。お金持ちの人たちは貧しいキリスト者を軽んじて辱めたばかりではなく、「尊い名」、キリストの名を「冒涜」するという重罪を犯してしまっていたのです。8節を見てみましょう。2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記19章18節からの引用です。同段落PPT 19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。開きませんが、この御言葉は主イエスもマタイによる福音書22章39節で引用をしています。金持ちは神と貧しい人に横暴な振る舞いをしていましたが、著者はレビ記の言葉を引用し、隣人愛の教えこそ「最も尊い律法」と位置づけます。ルカによる福音書10章には主イエスが語った「よきサマリア人の例え」が記されています。要約をしますと、ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。そこに三人の人が通りかかる。最初は祭司です。その人を見ると道の向こう側を通り過ぎて行った。次はレビ人です。彼も道の向こう側を通り過ぎて行った。三番目に通りかかったあるサマリア人は、そばに来ると、この半死半生の人を助けた。傷口の治療をして、ろばに乗せて宿屋まで運び介抱した。そして翌日になると宿屋の主人に怪我人の世話を頼んでその費用まで払ったのです。このたとえ話の後、律法学者に対してイエスは、このたとえ話で誰が怪我人の隣人となったかを問い、律法学者が「助けた人(サマリア人)です」と答えると、「行って、あなたも同じようにしなさい」とイエスは言った。隣人愛とはすべての人を自分のように愛することです。それは御旨にかなったことであり、これに勝る喜びはないのです。9節を見てみましょう。2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。9節は8節の反面を教えるものです。もし金持ちたちが、隣人愛という尊い律法を無視して、あくまで貧富により「人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」と戒めています。今日、先ず覚えて頂きたいことは差別は罪ということです。愛に偽りがあってはならないのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙で次のように述べています。12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、

②一点でも罪は罪

10,11節を見てみましょう。2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。「一つの点でおちどが」とあります。律法とは、どの律法を犯しても、その人は律法の違反者となることです。律法全体が神の意志なので、その中で「一つの点でおちどが」あったとしても、それは神の意志に反することになるのです。他の面でどんなによかったとしても、兄弟を偏り見て振舞うという一つの点の落ち度があれば、律法を犯した罪びととなのです。「姦淫するな」、「殺すな」とありますが、これらの二つの戒めは十戒にある第六と第七の戒めを引用しています。十戒は対神、対人、対自にわけられることもありますが、集約をすればすべてが神に対するものなのです。18世紀に活躍したドイツの聖書学者のベンゲルは「すべての律法を与えられた方は唯一者である。従ってその一点においても彼の意志に背くものは、全部に背くものである」と言いました。今日二番目に覚えて頂きたいことは一点でも罪は罪ということです。

③隣人を自分のように愛す

12節を見てみましょう。2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。「自由をもたらす律法」とは10,11節に記された律法ではなく、福音そのものです。これは、人々に自由、すなわち解放を与えるものに他なりません。この「自由をもたらす律法」、福音により「語り、またふるまいなさい。」と勧告をします。「いずれは裁かれる者」とあります。キリスト者も例外なく肉体の死後に裁きの座に付きますが、無罪を宣告され天国に行けます。キリスト者は誰でも天国に行きますが、そこでの成熟したキリスト者とそうでないキリスト者の報いは異なります。コリントの信徒への手紙二5:10に記されている通りです。 5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。13節を見てみましょう。2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。この世の行いに応じで天国での報いは異なります。ですから、著者は「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。」と語るのです。逆に「憐れみは裁きに打ち勝つ」のです。今日の説教題はこの御言葉です。そして、この「憐れみは裁きに打ち勝つ」ことの根底にあることは隣人愛、「隣人を自分のように愛しなさい」なのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは隣人を自分のように愛すということです。

Today’s Take-away

①差別は罪、②一点でも罪は罪、③隣人を自分のように愛す 

Thinking Time 軽視している罪はありませんか。