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2024年10月13日主日礼拝

説教題: 向こう岸に渡る~キリストの両性~ 聖書箇所:マルコによる福音書4章35-41節

◆突風を静める 4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

ハレルヤ!10月の第二主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその14回目です。前回のおさらいから始めましょう。4章26-34節から「神の国~良い種を蒔こう~」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①良い種を蒔く ②十字架が神の国の前身の基 ③主イエスに心を開く でした。今日は続く4章35-41節を通して「向こう岸に渡る~キリストの両性~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

聖書には主イエスがなされた数多くの軌跡が記されていますが、その中には自然の奇跡と呼ばれているものがあります。今日の聖書箇所もそうで、新共同訳聖書の小見出しは「◆突風を静める」となっています。また、この先に学びますが6章45-52節には「主イエスが湖の上を歩いたこと」が記されています。これらの出来事は、信仰のない方には、あり得ない馬鹿げた話と写ると思いますが、キリスト者は信仰を持って、これらの出来事の目撃者の証言を受けるのです。キリスト者は主イエスにはできないことは何一つないという信仰を持って聖書を読むべきなのです。イエスの弟子たちは、そのことの証人でした。彼らは、イエスが突風を鎮めたという事実を目の当たり見た者として、そのことを語らざるを得なかったのです。

①心から喜んで福音を伝える

35節から見て参りましょう。4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。「向こう岸に渡ろう」とありますが、主イエスは弟子たちと一緒に静まり休息の時を持とうとしたわけではありません。「向こう岸」とはガリラヤ湖の東岸のことです。この福音書の5章1節からわかります。開いてみましょう。5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。「ゲラサ人の地方」とあるように向こう岸にはゲラサ人が住んでいました。ゲラサ人とは異邦人です。そのことは律法で穢れた動物とされた豚を飼っていたことからわかります。ですから、主イエスがそこに行こうと言われたとき、弟子たちは湖の向こう岸に渡る不安もあったと思いますが、同時に異邦人への伝道に喜び心が燃えていたことでしょう。宣教師婦人でエロウィズ・アン・コーウィンさんという方がいます。1952年から56年にかけて、群馬・埼玉・栃木で布教活動に奉仕した宣教師婦人です。そのコーウィンさん書かれた「日本への架け橋」という本には異邦の国である日本に福音を伝えようとする心意気がわかります。冒頭をそのまま引用します。『私たちの宣教は受け入れられるのでしょうか。日本は敗戦国です。降伏し、米軍が占領をしかためるとすぐ、ダグラス・マッカーサー元帥は宣教師を集め、この国に派遣しました。壊滅的な敗戦ののち、日本を襲った虚脱感は人々の間に精神的な空白をもたらしました。マッカーサーはキリスト教によって、その空白を埋めることが出来ると確信をしていました。私たちはそうした招集に応じた二千名の中の一員でした。チャック(ご主人への愛称 正式にはチャールズ)はすでに1945年、占領軍とともに短期間日本に渡っていましたから、手紙で日本が霊的に枯渇していることをしばしば伝えてきました。そして、7年後の今、私は勇躍彼と一緒に日本行きの船に乗り込んだのです。』(伊藤肇訳 福音伝道教団伊勢崎教会)「しかためる」、「勇躍」とありますが、あまり今日では使わない表現です。「しかためる」とは「固く心を定めて決心し、覚悟すること」で、「勇躍」とは「勇んでおどりあがること」の意味です。今日、先ず覚えて頂きたいことは心から喜んで福音を伝えるということです。

②イエスは100%人間で100%神

聖書箇所に戻り36-37節を見てみましょう。4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。主イエスが乗っておられた舟に何名かの弟子たちが乗り、他の弟子は別の船に乗り込んで船出をしたのです。時刻は夕方ですので、湖を渡っている間に、日は暮れ、夜のとばりがすっかりくだっていたことでしょう。ガリラヤ湖は周囲が小高い丘に囲まれていて、すり鉢状でしたので突然、「激しい突風」起こることがありました。この時も「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸し」になってしまったのです。ガリラヤ湖の漁師として育ったペトロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネも慌てふためいていたと思いますが、主イエスはそうではありませんでした。38,39節を見てみましょう。4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

なんと、イエスは「眠っておられた」のです。慌てふためいる弟子たちとは対照的にイエスは寝ておられたのです。イエスは人間でもありますから、連日のように神の国の福音、神の国の支配を語り続けて疲れていたのでしょう。いずれにせよ、ここに主エスと弟子たちとの違いを見ることが出来ます。弟子たちは周囲の出来事に左右されてしまった、支配されてしまったのですが、主イエスはそうではありませんでした。そして、嵐の中、悠々と寝ているイエスに対して『弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。』のです。この弟子たちの言葉には自分たちの保身、利己的な考えが読み取れます。「先生、死にそうです。なんとか助けてください」という主イエスへの懇願ではありません。あたかも「先生、こんなたいへんなときに、よく寝ていられますね。あなたは何をしているのですか」といった非難、叱責ともいえる言葉です。この弟子からの非難、叱責ともいえる言葉に対して、イエスは『「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。』のです。この「黙れ」という言葉は原語ではΦιμώθητι (フィモーティティ)と言い、この福音書の1章25節で悪霊を追い出すときにも使われていました。確認のため開いてみましょう。 1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。コロサイの信徒への手紙1章15,16節を開いてみましょう。1:15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。1:16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。イエスは神でもあります。自然界を含め全ての造られたものは、主イエスの権威の下にあるということです。普通、「黙れ」という言葉は人間や犬などの動物に使う言葉ですが、イエスは主権者として湖に対しても権威をもって命じることが出来たのです。私たちにはこの権威はありませんから、「風よ、とまれ、雨よ、やめ」といったところで、そうなるはずがありません。しかし、主イエスが、「黙れ。静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になった。』のです。ここに主イエスの権威、イエス神性をみることができるのです。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸し」が起こった時、人間イエス、イエスの人性は眠っていましたが、神の子であり、神そのものであるイエスの神性は眠ることがありません。造り主でおられる方は眠ることがないのです。詩編121編3-4節を見てみましょう。121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 121:4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。40,41節を見てみましょう。4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。主イエスは弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と詰問をしています。弟子たちの不信仰を叱責しているのです。この時、弟子たちには主イエスが神であることを信じてはいませんでした。もしも彼らが主イエスを神であると信じていたら、そのお方がすぐそばにおられるのですから、いくら突風が吹いて来て、舟の中に水が浸入して来ても、彼らはなんら恐れることなく威風堂々としていたことでしょう。しかし、じっさいは慌てふためいているだけで、寝ているイエスを非難、叱責するのが精いっぱいでした。この時、イエスが起きていたら、違ったことも想像できますが、弟子たちにとって寝ているイエスではだめなのです。彼らには起きているイエスでなければだめなのです。しかし、眠っていようが起きていようが、イエスの神性にかわりはありません。そこに主イエス・キリストがおられるということが大事なのです。人間的な目で見て奇跡を起こすことができるのは、人間イエスではなく神であるイエスなのです。この出来事を体験した弟子たちは『「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。』のです。この部分が今日の聖書箇所の中心成句です。いったい主イエスとはどのような存在なのかという問いかけです。弟子たちは今までに主イエスがなされた多くの奇跡を見てきました。多くの病人が癒され、悪霊につかれた人から悪霊が追い出されていきました。しかし、自然界がイエスの権威に従うのを見たのは初めてだったのです。ここに至ってようやく、弟子たちは主イエスがただの人間でないことを理解し始めたのです。主イエスが自然界をも支配されていることがわかったのです。主イエスは神の子であり、神そのものでもあるのです。この「◆突風を静める」出来事を理解する上で大事なことはイエス・キリストの両性です。神学用語で両性論、両性説といいます。人性と神性です。つまりキリストは100%人間であり、同時に100%神でもあるのです。50%が人間であり、50%が神ではありません。30%が人間であり、70%が神でもありません。100%人間であり、同時に100%神でもあるのです。 100%人間ですので、十字架に掛けられるイエスには想像を絶する苦痛があったでしょう。2004年に上映された映画「パッション」を見た時のあまりの残酷さに目を覆ってしまいました。ごく簡単に要約しますと。イエスは鞭打ちや石打ちの拷問を受けながら、十字架を背負わされて市中を歩き回らされる。ゴルゴダの丘で手掌部と足根部に楔を打ち付けられ磔にされる。その後、槍で突かれるなどするがイエスは長時間苦しみに耐え、天父に自分を裏切った者や拷問した兵士らに対する赦しを求めたのです。あまりの残酷さ故に、この映画を最後まで見れなかった方がかなり多くいたそうです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはイエスは100%人間で100%神ということです。

③向こう岸に渡る

35節で、イエスが向こう岸に渡ろう」と言われた時、弟子たちは異邦人への伝道に喜び心が燃えていると同時に、湖を渡る不安もあったとお話をしました。私たちの信仰生活も同じです。私たちの人生はいつも順風満々というわけではありません。日本には四季があるように、人生にも四季のようなことが起こります。春のようにのどかな時もあれば、夏の猛暑ように苦しい時もあります。秋のようにさわやかな時もあれば、冬の厳冬のように耐え忍ばなければならない時もあります。また、いつ何時、何が起ころかもわかりません。ですから、何が起こっても良いように心の準備をしておくことが大事なのです。アメリカの南カリフォルニア州のリドンド・ビーチにあるバプテスト教会には嵐の中を疾走する船の絵が飾られていました。その船の舵をとっているのがイエス・キリストだったという話を聞いたことがあります。今日の聖書箇所の舟とは教会と言えます。主イエスを中心とする共同体があるところは全て教会なのです。ですから、このガリラヤ湖で突風に遭い、水浸しになってしまった舟も教会なのです。教会の長、舟長は主イエスです。人間が船長を務める船は大型船でも沈没をしてしますことがあります。1912年4月14日起こったにタイタニック号沈没事故がそうです。当時世界最大の客船であったタイタニック号が氷山に衝突し沈没をし、1,514人が亡くなり、710人が生還した。これは1912年当時、海難事故の最大死者数であった。映画にもなっていますので、ご覧になった方もおられると思います。しかし、主イエスが船長をしている船は絶対に沈没をすることがありません。何故なら、主イエスは全てを支配されているお方だからです。「主イエスが船長をしている船は絶対に沈没しないという」信仰を持とうではありませんか。最後にちいろば牧師こと榎本保郎先生が著書「新約聖書一日一章」のなかで今日の箇所について次のように解説をされています。一部をそのまま引用致します。「35節以降のところは、イエスが『向こう岸に渡ろう』言われたところである。私は昨年(昭和54年)の三月十三日にこのところを読んで、私自身、少し大げさかもしれないが、この言葉に命をかけて立ち上がった。弟子たちに対して言われた言葉が、私に対してイエスが言われたように受けとれた。それ以降私の生活は、病床生活から立ち上がり、神にできる限り仕えていく生活に変えられた。無理ではないかと私の心を心配してくださる人もある。自分でも無理をしているのではないかと思うことがある。しかし、向こう岸に渡ろうと言われたイエスの言葉を思い出すたびに、これでよいのだと思う。向こう岸に渡ろうという言葉は私にとって、終生忘れることのできない言葉となった。そういうふうに、一つの御言葉に自分の命をかけていくとき、大きな力、恵が与えられていくのではないかと思う」私たちも勇気をもっつて向こう岸に渡ろうではありませんか。向こう岸が何であれ信仰を持って一歩踏み出そうではありませんか。今日、最後に覚えて頂きたいことは向こう岸に渡るということです。

Today’s Takeaways

①心から喜んで福音を伝える ②イエスは100%人間で100%神 ③向こう岸に渡る