• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年10月20日主日礼拝

説教題:主から与えられた使命 聖書箇所:マルコによる福音書5章1-20

◆悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす 5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。 5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。 5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

ハレルヤ!10月の第三主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその15回目です。前回のおさらいから始めましょう。4章35-41節から「向こう岸に渡る~キリストの両性~」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①心から喜んで福音を伝える ②イエスは100%人間で100%神 ③向こう岸に渡る でした。今日は続く5章1-20節を通して「主から与えられた使命」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

19世紀に活躍したロシアの文豪のドストエフスキーがキリスト教徒だったかどうかは断定が出来ませんが、彼の作品にはキリスト教からの影響が少なからずあります。特に五大長編小説の一つである「悪霊(悪霊)」の本の扉には、今日の聖書箇所の並行箇所であるルカによる福音書の8章32-37節が記されています。この節は、悪霊に取り憑かれた男が「我々の名はレギオン、大勢だから」と答える場面です。この引用は、小説全体のテーマである「悪霊に取り憑かれる」という概念を象徴しています。読書の秋ですので、この長編小説にチャレンジするのも良いのではないでしょうか。今日の聖書個所は異常で異様とも言える光景が描かれていますが、主イエスによる一人の悪霊に取りつかれた者への癒しが行われました。その結果、その男は正気を取り戻し主に使える者と変えられたのです。

①神と人間の価値観は異なる

1節から見て参りましょう。5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。この福音書の4章35,36節には次のように記されていました。4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。主イエスが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われた場所が「ゲラサ人の地方」でした。ゲラサ人とは異邦人です。そのことは律法で穢れた動物とされた豚を飼っていたことからわかります。そこは、神から遠く離れた悪霊がさかんに働いている場所でした。4章36節には「子たちは群衆を後に残し」とありますが、今日の箇所にはまたもやイエスがなされた御業を聞いて群衆が集まってきたのです。2-5節を見てみましょう。5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。「汚れた霊に取りつかれた人」について記されています。悪霊のことです。悪霊は悪魔、サタンの手下です。この人は墓場を住みかとしていたのです。当時、山の中腹に横穴が掘られて墓場とされていました。主イエスが葬られたお墓もそうでした。「汚れた霊に取りつかれた人」はこの場所を住みかとしていたのです。一般的に墓場というのは人々の居住地から離れたところにあります。ですから、この人は町の人々との交わりはなく、共同体の外に置かれていたのです。人々はこの人を「度々足枷や鎖で縛」りあげました。これは、この人が暴れて危害を加えることを抑えるため、また、自分たちの領域に来て欲しくなかったからでしょう。虚無と死が支配する場に留めようとしたのです。しかし、この人は「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい」とあるように自由になりたかったのです。悪霊に取りつかれていましたが、自由を渇望していた一人の人間だったのです。しかし、それでも墓場を徘徊することしかできず、「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」のです。ここに自由はありません。そして、神なき人間の悲惨な姿が描かれています。墓場は生ではなく死が支配している領域の象徴です。生と死の境界の印なのです。この人は虚無と死が支配する場、生命の向こう側にいたのです。6-8節を見てみましょう。5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。「汚れた霊に取りつかれた人」は遠くからイエスを見付けて、走り寄って来ました。それは、主イエスが神の御子であることを認めてはいましたが、イエスを信じようとはしていませんでした。イエスの神性は認めつつも、信じようとはせずにこう言い放ったのです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」悪霊がいいたいことは、自分の所に来て干渉をしないでくれということです。むこうに行ってくれと言っているのです。神に御子の権威の下では、何もできず手も足も出ないことを知っていたのです。ですから、「後生だから、苦しめないでほしい。」と懇願したのです。悪霊は人間に取り付いて、神の形に似て造られた人間を人間以下のものにしていまえる力があります。まさに今日の箇所の男がそうです。動物のような生活で、人間としての尊厳は少しもありません。動物でも自分の体を傷つけることはしないものです。動物以下の生活だったのです。悪霊は主イエスの権威をよく知っていましたので、主イエスが「汚れた霊、この人から出て行け」と言われた時に、自分の居場所を失ってしまうことを非常に恐れていたのです。悪霊は神の形に似て造られた人間に取り付いて、人間を破滅させるのが主な任務ですから、その任務が果たせなくなってしまうことに脅威を感じたのです。9-10節を見てみましょう。5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。 5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。主イエスは悪霊に取り付かれた人に「名は何というのか」と聞かれました。それに対して彼は「名はレギオン。大勢だから」と答えたのです。「レギオン」とはローマの軍隊では一師団を意味し、6千人から構成されていました。夥(おびただ)しい悪霊がこの男の中に入っていたのです。その強力さがわかります。主イエスの前には如何なるものも無力なのです。ですから、「自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。」のです。11-13節を見てみましょう。5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。悪霊は特定の場所に住むことを好むものです。開きませんが、ルカによる福音書11章24節を読まれてください。ですから、追い出されてしまうと困るのです。そこで、止む無く主イエスに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と頼み込んだのです。それを聞き入れた主イエスは悪霊を豚の中に入れたのです。その結果として、「二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。」のです。「二千匹ほどの豚」を滅ぼすことは正当化できるのかという疑問を持たれる方もいると思います。今日であれば動物愛護団体からクレームがつけられるかもしれません。倫理的な観点からは、動物の命を犠牲にすることについての議論もありますが、主イエスは二千匹の豚を犠牲にしても一人の男性を救われたということです。ここに神の価値観と優先順位を見ることができます。一人の男性の救済と悪霊の追放を優先したのです。これは、悪霊どもがレギオンと名乗った男に戻ることのない保証を与えることでもあるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは神と人間の価値観は異なるということです。ところで、レギオンにはローマ軍隊の一師団の意味に加えて、別の隠れた意味があるとも解釈ができます。当時、ユダヤを支配していたローマの軍隊が穢れた霊、悪霊という解釈です。悪霊どもは豚に乗り移り溺れ死んでしまったように、強権に思えるローマの軍隊、ローマ帝国もイエスの支配の前には崩壊せざるを得ないという預言的な解釈です。

②悪霊は常にターゲットを探している

14,15節を見てみましょう。5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。話は転換して町の人々に移っていきます。「豚飼いたちは逃げ出し」て人々に事件の顛末の報告をしたのです。ユダヤでは豚は穢れたものとされ、これを飼う者も穢れていましたが、ここは「ゲラサ人の地方」、異邦人が住んでいる場所です。異常で異様とも言える出来事を聞いた人々がイエスの所に来てみると、悪霊に取り付かれていた「人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。」ほど、あまりの不思議さと異常、異様な光景だったのです。さて、悪霊に取り付かれるというと自分には関係がない他人事と思われるかもしれませんが、身近なところでも起こっているのです。ギャンブル中毒、ギャンブル依存症がそうではないでしょうか。私が良く存じ上げている方でAさんというとても温和なキリスト者の男性がいます。知り合ったのは15年位前のことです。当時、Aさんは60代の前半でした。元々は高校で歴史の先生をしていたのですが、退職して当時は皿洗いのバイトをしていました。私自身も皿洗いのバイトをした経験があるので、Aさんに「何でそんなきついバイトをしているのですか。」と聞きました。するとAさんは「キリスト者になって、元々お酒は付き合い程度でしたし、煙草は直ぐに止められたんだけど、パチンコがなかなかやめられなくてね、家族に金銭的な迷惑をかけてしまったんだよ。高利の金融機関からお金を借りて、家庭崩壊の一歩手前だったんだよ。その穴埋めだよ」と語りました。パチンコで負けると、翌日に行き、その負けた分も絶対に取り戻してやるという悪循環の考え方です。家族、所属教会の牧師、教会員の祈りに応えられてなんとかパチンコ地獄から抜け出せたのです。ある統計によると、日本では洗礼を受けてから80%もの人が二年以内に教会から離れてしまうそうです。悪魔は信仰を持ったばかりの人を狙います。信仰が固まる前にキリストと教会から離そうとするのです。勿論、悪魔は巧妙ですから、信仰歴の長い方も「自分は大丈夫」などと思いあがってはいけません。必要以上にサンタや悪霊を恐れる必要はありませんが、悪霊は常にターゲットを探しているおいうことを決して忘れてはならないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは悪霊は常にターゲットを探しているということです。16,17節を見てみましょう。5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。そして、この一部始終を見ていた人は「悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のこと」を他の人々に伝え話はどんどん広まって行ったのです。それで、人々は主イエスにこの「地方から出て行ってもらいたい」と要請をしたのです。二千匹もの豚を失ったことから、主イエスがこの地に留まり続けると更なる損害が起こることを恐れたのでしょう。律法で豚のように穢れたと定められている他の動物も豚のように滅ばされてしまうと考えたのでしょう。

③使命は各自で異なる

18-20節を見てみましょう。5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。異邦人の要請に応えたというよりも住イエスには次の使命、すべきことがあり、舟に乗られこの地を発つことにしました。すると悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」のです。イエスの弟子となり寝食を共にしたいと願い出たのです。それに対し主はそれを許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と伝えたのです。ペトロとアンドレの兄弟とヤコブとヨハネの兄弟は家族を離れ直ちに主に従いました。また、主は重い皮膚病の人が癒されたときには誰にも言わないように言われました。マルコによる福音書1章16-20節と1章44節aを見てみましょう。1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。 1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。しかし、主は、この悪霊から解放されて正気になった男には別の使命をお与えになりました。それが、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」です。この男を家族伝道に遣わしたのです。この部分の原語を直訳すれば、「家に行ってあなたの身内の者にも知らせななさい」です。この男は家族からも相手にあれず、非人間的な生活をしていましたが、正気となってみれば、家族のもとへ帰ることが彼にとって最も幸いなことでもありました。町の人々は彼が正気になったことを喜ぶよりも、豚の損害とさらなる損害を恐れていましたが、彼の家族は何よりも喜んだことでしょう。そして、この男は主が期待された通りに「デカポリス地方に」戻り、主イエスが行われた素晴らしい御業を宣べ伝えたのです。正に生きた証人となられたのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは使命は各自で異なるということです。

Today’s Takeaways

①神と人間の価値観は異なる ②悪霊は常にターゲットを探している ③使命は各自で異なる