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2024年10月27日主日礼拝

説教題:信仰の力、主イエスの力 聖書箇所:マルコによる福音書5章21-43節

ハレルヤ!10月の第四主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその16回目です。前回のおさらいから始めましょう。5章1-20節から「主から与えられた使命」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①神と人間の価値観は異なる ②悪霊は常にターゲットを探している ③使命は各自でことなる でした。今日は続く5章21-43節を通して「信仰の力、主イエスの力」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

◆ヤイロの娘とイエスの服に触れる女  5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

今日の聖書箇所には主イエスがなされた二つの奇跡、癒しの御業が記されています。一つ目は「十二年間も出血の止まらない女」イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」ところ、その病気が治ったという御業です。二つ目は主イエスが「十二年間も出血の止まらない女」を癒している間に、ヤイロの娘が死んでしまったのです。しかし、イエスがこの娘に「タリタ、クム」と言われ』ると「少女はすぐに起き上がって、歩きだした」という御業です。主イエスのなされた奇跡の中に、神の力と救いの目的を見ることができます。また、奇跡の出来事を通して、イエスを信じる者の信仰の在り方が教えられるのです。「ヤイロ」の娘の話は21-24節と35-43節の二つの部分から構成され、その間に「十二年間も出血の止まらない女」の話が記されています。この構成は並行箇所のPPTマタイによる福音書9章18-26節、ルカによる福音書8章40-56節でも同じです。これは意図的に福音書の記者が挿入したのではなく、実際にそのように起こったのです。信仰という要素が、二つの話を密接に結び付けているのです。

①信仰とはイエスにすがること

21節から順番に見てまいりましょう。5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。「再び向こう岸に渡られると」とありますが、再びカペナウム地方に戻られたものと思われます。そこでは、主イエスの名は一層、広く行き渡り、多くの群衆が主を待ち構えており、「そばに集まって来た」のです。22-24節を見てみましょう。5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。「会堂」はバビロンの捕囚から帰ってきたユダヤ人たちが、失われた神殿に代わって、会堂をあちこちに作り礼拝をしたり、律法を学んだりしていました。後に、神殿が再建築されても会堂、シナゴーグは存在し続けたのです。町や村には必ず会堂があり、安息日に礼拝が捧げられるだけではなく、学校、法廷、宿泊所、今日で言う公民館のような役割もありました。「会堂長」とあります。口語訳聖書では会堂司と訳されていますが、会堂の管理人といった意味で解釈をするとよいです。新改訳聖書では「会堂管理人」と訳されています。押し寄せた群衆の中でも特にイエスの到来を待っていたのが、「会堂長の一人でヤイロという名の人」でした。このヤイロには重病の娘がいました。医者からも見放され、ただただイエスがなされる癒しの御業にすがるしかなかったのです。ヤイロはイエスのなされた数々の奇跡や癒しの御業をよくしっていたのです。ですから、主イエスに「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と懇願したのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは信仰とはイエスにすがることということです。主はそれに応えられ、「ヤイロと一緒に出かけて行かれた」のです。そして、「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」のです。先に、ヤイロの娘の話の続きである35節以降を見てみましょう。

②悲しみと絶望は喜びと希望に変えられる

5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスがヤイロの家に向かう途上で「十二年間も出血の止まらない女」を癒されている間に「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」との連絡が「会堂長の家から人々」からありました。最愛の娘が死んでしまったのです。ヤイロは悲しみに暮れ、暗黒に突き落とされてしまったのです。ヤイロの思いとしては、途上での「十二年間も出血の止まらない女」の癒しに時間がかかり、主イエスの到来が遅れてしまったことが悔やまれたことでしょう。しかし、イエスにとって死は最後ではありません。人間には絶望であっても、イエスには希望が残されているのです。36節を口語訳聖書と英語の聖書(NIV)と一緒に見てみましょう。5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。5:36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。【口語訳】Overhearing what they said, Jesus told him, “Don’t be afraid; just believe.”New International Version)「そばで聞いて」とありますが、じっくり話を聞いていたわけではありません。多くの英語の聖書では「ふと耳にする、ふと聞く」という意味のoverhearが使われていますし、口語訳では「聞き流して」と訳されています。ヤイロにとって大きな問題でもイエスから見れば、聞き流すことができるほどの出来事なのです。ですから、続いて『「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。』のです。ヤイロは主イエスがおいでになれば娘の病気は治ると確信をしていました。イエスは死を打ち破られたお方です。そのお方が「ただ信じなさい」と言われたことには大きな意味があります。それは熱意だけの問題ではなく、何をどのように信じるのかという問題です。このことに付いて、使徒パウロは次のように警告をしています。ローマの信徒への手紙10章2節を開いてみましょう。 10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。「熱心さは、正しい認識に基づくもの」でなければならないのです。37,38節を見てみましょう。5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ」という三人の弟子の名前があります。この三人は12弟子の中でも特にイエスの近くにいました。イエスは重大な出来事にはこの三人しか同行させなかったのです。イエスの変容の時やゲッセマネの祈りの時がそうです。開きませんが、それぞれこの福音書の9章2節と14章33節に記されています。イエスは、娘が死んだと聞き、普通の病の癒しとは異なること重大な出来事だったので、「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ」だけを連れていったのです。旧約聖書のヨブ記には先に子どもを失った時、ヨブは1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言いました。ヨブの信仰は、この人生最大の悲しみに打ち勝って神を見上げています。神のなしたももことは、信じて受け入れれば、全てのことが感謝になるのです。しかし、それまでに至るためには何回も何回も信仰が試されるのです。主イエスたちがヤイロの家に着いてみると、「人々が大声で泣きわめいて騒い」たのです。愛する娘、愛する家族を失った人たちの嘆き悲しんでいる情景が浮かびます。仏教では子どもが先に死ぬことを逆縁と言いますが、家族にとって逆縁は最大の悲劇です。39,40節を見てみましょう。5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。大声で泣き叫んでいた人々に対して、主は「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と語りましたが、これは、子どもの仮死状態を意味する言葉ではありません。子どもは確かに死んでいたのです。主イエスには死人さえも生き返らせることができるのです。しかし、人々はそんなことがあるはずはないと「イエスをあざ笑った」のです。イエスはそんな彼らにかまわず、「子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。」のです。両親にとっては、馬鹿げたことであっても、主イエスの言葉にかけたのです。どんな不合理なことでも娘が生き返りさえすればよいという思いだったのです。繰り返しますが、信仰とはイエスにすがることなのです。41-43節を見てみましょう。5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。イエスは『子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。』イエスの時代はアラム語が日用語でこの意味は「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」です。記者のマルコは、イエスが実際に言われた言葉の伝承を聞き、ここに書き留めているのです。マルコがアラム語に訳をつけていることは、異邦人の読者予想していたことがわかります。また、マルコは多くのアラム語を記しています。開きませんが、3:17、7:11,34、11:9等です。こうして、イエスの言葉と行動により、「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。」のです。奇跡、生き返りの御業が起こったのです。もはや誰も嘲笑う者はなく、悲しみと絶望は喜びと希望に変えられ、人々の冷笑は「驚き」に変えられたのです。「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ」とあります。イエスはご自身を救い主と認めない人に単に奇跡をおこなう者に過ぎないとの誤解を与えたくなかったのです。続いて、「食べ物を少女に与えるようにと言われた。」とありますが、主のご配慮のお言葉です。主は御業によって少女を生き返らせましたが、回復した肉体に維持には通常の食べ物が必要であるとの真理を含んでいます。今日、二番目に覚えて頂きたいことは悲しみと絶望は喜びと希望に変えられるということです。

③イエスの力は比類ない

25,26節に戻りましょう。5:25 さて、ここに十二年間もの出血止まらない女がいた。 5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。25節から話題が代わります。ここには「十二年間も出血の止まらない女がいた」のです。この十二年という数字は実際の年月とも解釈が出来ますし、象徴的に長い期間とも解釈しても良いと思います。長い間、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけ」だったのです。27,28節を見てみましょう。5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。「イエスのことを聞いて」とあります。絶望した女にとって、イエスの到来は正に福音でした。「溺れる者は藁をもつかむ」と言いますが、主イエスがなされた数々の癒しの御業はこの女の耳にも入り、彼女は一日千秋の思いでイエスを待っていたことでしょう。この彼女の切なる願いとイエスに対する信頼から、「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」のですが、これには理由があります。旧約聖書の律法によると、血が流出する女は不浄のものとされていましたので、この女にふれる者は穢れると定められていたのです。同段落Read開きませんがレビ記15章25-27節を読まれてください。ですから、「十二年間もの出血止まらない女」は公にイエスに接することが出来なかったのです。しかし、この女にとって、律法を守らなかったとしても、この機会を逃すことは出来ないので、勇気を振り縛り「後ろからイエスの服に触れた。」のです。29-31節を見てみましょう。5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」女がイエスの服に触れると「すぐ出血が全く止まって病気がいやされた」のです。長年の病が一瞬にして癒されたのです。イエスによる御業が行われたのですが、これは、イエスの積極的行動ではなく、女の積極的な行動があったのです。ここにこの女のイエスに対する信仰をみることができます。そして、イエスの力はご自身の体全体の溢れていたのです。そのことが、『自分の内から力が出て行ったことに気づいて』とある通りです。「力」と訳されていますが、原語ギリシャ語ではδύναμιν (dynamin)と言い、英語のダイナマイトの語源となっています。このダイナマイトのような爆発的力は地上のどんなものにもありません。ただ救い主イエス下けが持っている神的力です。イエスの御業にはこの神的力が働いているのです。続いて、イエスは『群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われ』ましたが、イエスの弟子たちは、押し迫っている群衆の中か、どうして探し出すことができようか。また、多数の者が触ったかもしれないと思っていたのです。32-34節を見てみましょう。5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」弟子たちはイエスに触れた人を見付けることは出来ませんでしたが、「イエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」のです。このようなイエスの目から、女は逃れることが出来ませんでした。信仰をもってイエスに触れ病は癒されたのですが、「恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」のです。それに対するイエスのお言葉は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」とあるように女の信仰を褒めたたえたのです。女は信仰ゆえに癒され、「安心」して立ち去ることができたのです。「安心」は病が癒された結果ですが、もっと根源的に言うと神の祝福の平安なのです。肉体の癒しは、永遠の救い、神の祝福と結びついているのです。「イエスの服に触れる女の話」の主題は、信仰と癒しです。信仰とはイエスにすがることです。女の信仰が癒しに導いたことを通じて、信仰の力とイエスの癒しの力が強調されています。今日、三番目に覚えて頂きたいことはイエスの力は比類ないということです。

④聖書は医学を認めている

最後に癒しについて注意して頂きたいことがあります。以前、私が大変お世話になったNさんという姉がいます。N姉はおとなしい性格の敬虔なキリスト者でした。野外礼拝の時に誰かが勝手にお昼を食べようとしたときに、「神様への感謝が先ですよ」と、大声で注意したことが忘れられません。そんなN姉ですが、具合が悪くなっても信仰によって治ると祈り続け、病院に行ことをせず、気が付いた時は末期癌で、六十かそこらで天国に行きました。女性の87歳という平均寿命を考慮すれば、あまりにも早い旅立ちです。私たちの所属いる日本ホーリネス教団は四重の福音を掲げています。新生、聖化、神癒、再臨です。教会員手帳(実物)には神癒について「神癒を強調するあまり、医薬を用いることを罪悪視したら、裁いたりしたら行きすぎとなります」と明記されています。また、コロサイの信徒への手紙4章14節には次のように記されています。 4:14 愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。「愛する医者ルカ」とあるように聖書は医者という職業を認めているのです。医学を認めているのです。このことを忘れてはならないのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは聖書は医学を認めているということです。

Today’s Takeaways

①信仰とはイエスにすがること ②悲しみと絶望は喜びと希望に変えられる ③イエスの力は比類ない

④聖書は医学を認めている