説教題:十字架を見上げよう! 聖書箇所:マルコによる福音書6章14-29節
ハレルヤ!11月の第ニ主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその18回目です。前回のおさらいから始めましょう。6章1-13節から「伝道の秘訣」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①不信仰が御業を妨げる ②伝道には柔軟性が必要 ③伝道は信仰にたって行う でした。今日は続く6章14-29節を通して「十字架を見上げよう!」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
◆洗礼者ヨハネ、殺される 6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
以前にもお話をしましたが、福音書の特徴として必ずしも時系列で記されていないこと、また、突然、話題が代わるように思えることをお話ししました。今日の箇所が正にそうです。今日の箇所には主イエスもイエスの弟子たちも登場しません。この箇所の直前には十二使徒を伝道のために遣わしたことが記されていましたが、その続きでもありません。しかし、主イエスと今日の箇所の出来事は無関係ではありません。この福音書の1章14,15節には次のように記されていました。マルコ1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。主イエスの働きとバプテスマのヨハネとの働きには密接な関連があります。バプテスマのヨハネは主イエスの先駆者として、イエスの働きの道備えをしました。そのヨハネが捕らえられて殺されたてしまったのです。そこで、イエスは本格的に父なる神から与えられた働きを開始するのです。そのことを覚えつつ、お話を聞いてください。
①名声は危険をもたらすこともある
14-16節から順番に見てまいりましょう。6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。「イエスの名が知れ渡った」とあります。イエス・キリストは、数々の奇跡を行い、多くの人々を癒しました。その結果、必ずしもメシア、救い主と受け入れられたわけではありませんが、イエスの名声はどんどん広がり、人々は彼を「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返った」とか「エリヤ」とか「昔の預言者のような預言者だ」と考えました。そして、イエスの名声は、民衆ばかりか「ヘロデ王の耳にも入った」のです。社会の中で何かを成し遂げたり、注目を集めたりすると、名声を得る場合があります。名声は、私たちに自信を与え、喜びをもたらす一方で、嫉妬や中傷、そして時には危険をもたらすこともあります。安倍元首相は二年前の7月に演説中には背後から銃で撃たれお亡くなりになりました。今年の7月にはランプ前大統領大事に至りませんでしたが、狙撃されました。このように名声は危険をもたらすということを覚えようではありませんか。今日、先ず覚えて頂きたいことは名声は危険をもたらすこともあるということです。ヘロデ王は、イエスのことを「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言い恐れたのです。この「ヘロデ王」はイエスの誕生の際に嬰児虐殺を命じたヘロデ大王の次男のヘロデ・アンティパスです。彼は紀元前4世紀から紀元39年までガリラヤ地方とペレや地方を治めていましたが、引くに引かれない状況になり、ヨハネを殺してしまいました。そのことが、17節以降に挿入のように描かれています。
②発言には責任が伴う
17,18節を見てみましょう。6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやって。6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており」とありますが、史実では「フィリポ」は母親が違う兄弟です。聖書には何名かの「悪女」が描かれていますが、旧約を代表すればイゼベルがそうです。列王記上 21章を読まれてください。新約を代表する悪女はこの「ヘロディア」です。「ヘロデ・アンティパス」はアラビヤの王の娘と結婚をしていたのですが、腹違いの兄弟の妻の「ヘロディア」に横恋慕し、アラビヤの王の娘とは離婚して「ヘロディア」と結婚をしたのです。そのことをヨハネは「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と「ヘロデ・アンティパス」を非難したのです。根拠となる律法のレビ記18章16節と20章21節を開いて見ましょう。レビ 18:18 あなたは妻の存命中に、その姉妹をめとってこれを犯し、妻を苦しめてはならない。レビ20:21 兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない。「ヘロデ・アンティパス」と「ヘロディア」は両名とも完全に律法に違反していたのですが、そのことをヨハネから非難されると「ヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた」のです。ヨハネはこの二人の誤った関係を責めました。社会の秩序が乱れる原因の根本的なものの一つとして婚姻の秩序が正しく保たれていないことが挙げられます。親子の関係と夫婦の関係は社会を正しく保つための根幹です。1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と叫んで民衆に教えていたヨハネにとって糾弾せずにはいられない出来事だったのです。糾弾をされたことに加え、「ヨハネ」は民衆に人気があり、強い影響力を持っていたことも「ヨハネ」をとらえた理由の一つです。19,20節を見てみましょう。6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ヘロデは不品行を行いながらも、まったく良心を失っていたわけではありません。「ヘロデが、ヨヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し」とある通りです。そして獄中のヨハネから「教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」のです。ヨハネの事が気に入らない反面、尊敬をしていたことがわかります。新約聖書学者のウイリアム・バークレー先生はこのヘロデの性格を混合物と説明をしています。ヨハネを恐れながらも同時に尊敬をしていた。ヨハネの口を非常に恐れながら、同時にヨハネの話を聞くことに喜びを感じていたのです。一方、不品行を悔い改めることもせず残忍な悪女「ヘロディアはヨハネを恨み」ヨハネを亡き者とする機会を虎視眈々と狙っていたのです。21,22節を見てみましょう。6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、そんななか、「良い機会が訪れた」のです。ヘロデの誕生日に宴会が行えることになり、「高官や将校、ガリラヤの有力者など」が招待され、「ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。」のです。「ヘロディアの娘」とありますが、血縁的には兄弟フィリポの娘ですので、ヘロデの姪にあたります。ヘロデは姪である、ヘロディアの娘の舞に大変満足をして褒美として「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と伝えたのです。23-25節を見てみましょう。6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。ヘロデは「この国の半分でもやろう」と大変、気前の良いことを言いますが、当時、ユダヤはローマ帝国の属州でしたので、実際にはローマ帝国の赦しがなければ国の半分を誰かに譲ることなどできません。自分の誕生日の宴席ですから、ヘロデはお酒を飲んでいたと思います。お酒の勢いもあったことでしょうが、思慮に欠いた権力者の驕り高ぶりがわかります。「この国の半分でもやろう」との問いかけに対して、少女、ヘロディアの娘は自分では判断が出来ないので、母親のヘロディアに「何を願いましょうか」と相談をしたのです。すると、母親はヨハネを殺害する絶好のチャンスが来たと思いすかさず、「洗礼者ヨハネの首を」と娘に告げたのです。そして、「少女は大急ぎで王のところに行き、『今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。』のです。」ヘロディアの娘は17~20才位と考えられていますので、母親の言いつけ通りにしたもので、ヨハネに対する特別な感情はなかったでしょう。むしろ、ヘロディアが自分の虎視眈々と狙っていたヨハネの殺害に娘を利用したものと考えられます。26-29節を見てみましょう。6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。ヘロデはヘロディアの娘の予期せぬ言葉に、「非常に心を痛めた」のです。まさかこんなことになるとは思っていなかったでしょう。しかし、宴会に列席している人々の前で誓ってしまった手前があり、それを実行したのです。引っ込みがつかなくなってしまったのです。ここにヘロデの残忍さとは対照的な人間的弱さがあります。周りの人間を見てしまったのです。この箇所から一つの適用がわかります。ヘロデはお酒を飲んでいたと思いますが、誓うということ慎重にしなければなりません。イエスは誓いについて語っています。マタイによる福音書5章33-37節を開いてみましょう。5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」古くからの教えでは、誓いを守ることが重要とされていましたが、イエスはさらに進んで、そもそも誓いを立てること自体を避けるよう教えています。『然り、然り』『否、否』は古い表現ですので、わかりやすく言えば「イエス」は「イエス」、「ノー」は「ノー」です。主は、「イエス」は「イエス」、「ノー」は「ノー」とだけ言えば十分と語られました。それは、守れもしないことを誓うな。自分の言ったことを守る人になりなさいと教えられたのです。人間の発言には責任が伴います。誓ってその責任を果たすと言いながら、人間の弱さ、不誠実さによりそれが破られてしますと「裁きを受け」てしまうのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは発言には責任が伴うということです。
③十字架を見上げる
私はこのヘロデのやむにやまれずヨハネを処刑した箇所を読むとローマ総督ポンティオ・ピラトのことを思い起さずにはいられません。ルカによる福音書23章20-25節を開いてみましょう。23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 23:21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。 23:22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。ローマ総督のピラトはイエスを釈放することは考えていました。しかし、周りの声に押し切られてイエスを十字架刑に処してしまったのです。人間の狡さ弱さの結果です。さて、私たちはどうでしょうか。周りの目ばかりに気を囚われ過ぎていないでしょうか。主イエスの十字架をまっすぐに見上げようではありませんか。今日、最後に覚えて頂きたいことは十字架を見上げるということです。ポンティオ・ピラトとヘロデ・アンティパスには接点があります。ピラトが主イエスを裁こうとしている時、ヘロデがエルサレムに来ていることを知り、厄介払いのつもりで、ピラトはヘロデのもとに主イエスを送り届けます。開きませんがルカによる福音書23章8節を読まれてください。ヨハネは殉教をしましたが、主イエスによって最大の賛辞を受けています。マタイによる福音書11章11節前半を見てみましょう。 11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、イエスの言葉には続きがあります。後半を見てみましょう。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。私たちが主から与えられた任務を果たし、天に召されたときにはヨハネより偉大だと主は言われるのです。なんという励ましでしょうか。ヨハネの死は殉教ですが、イエスの死は殉教ではありません。イエスの十字架による死は私たちの贖いために死です。この十字架の前に私たちは立たされています。それは私たちの罪の赦しのためであることを信じ、日々、十字架を見上げつつ、歩んでまいりましょう。
Today’s Takeaways
①名声は危険をもたらすこともある ②発言には責任が伴う ③十字架を見上げる