説教題: 命のパンである主イエス 聖書箇所:マルコによる福音書6章30-44節
◆五千人に食べ物を与える 6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。 6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」 6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。 6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。 6:42 すべての人が食べて満腹した。 6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。
ハレルヤ!11月の第三主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその19回目です。前回のおさらいから始めましょう。6章14-29節から「十字架を見上げよう!」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①名声は危険をもたらすこともある ②発言には責任が伴う ③十字架を見上げる でした。今日は続く6章6章30-44節を通して「命のパンである主イエス」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①御心の時に、御心の方法で起こる
30節から順番に見てまいりましょう。6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。「使徒」とあります。「使徒」という言葉の原語は「つかわす」と同系語です。ですから、派遣されることなくして使徒は成り立たないのです。使徒とはキリストから使命を託され派遣された者です。先々週に学びましたが、6章7-13節には十二弟子の派遣の事が記されていました。弟子たちは宣教と力ある御業を行うために出かけていきましたがが、その使命が終わり主イエスのもとに帰ってきたのです。かれらがどこで、どのくらいの期間で、どのような働きをしたかは不明ですが、主イエスに「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」のです。31節を見てみましょう。6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。この使徒たちからの報告を聞いたイエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた」のです。「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」とあるように主からの任務を果たして疲れ切ってしまった弟子たちに対するイエスのやさしい心使いが読み取れます。人間を造られた神は労働後に安息をお与えになります。安息日は、人間に対する神の恩恵ですが、主イエスが弟子たちを休息させられたのは、単なる肉体的な休息だけではありません。そこには静かに神と交わり、新しい力が与えられることもその目的です。使徒の生活はイエスの側にいることと群衆のただ中との二つを往復していました。交わりと働き、静と動、これはイエスの生活そのものであり、また、今日のキリスト者にも求められることなのです。32-34節を見てみましょう。6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。弟子たちは主イエスに言われたようにイエスと共に「舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。」のです。ガリラヤ湖の東側の地で、人が来ない所であり、休息には適した場所でしたが、予想に反して、「多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」のです。それゆえ、イエスも弟子たちも休むことが許されなかったのです。そして、イエスはこの群衆が「飼い主のいない羊のような有様」であるのを見て「深く憐れ」まれたのです。これらの群衆は神を信じ、律法は守っていたと思われますが、真の救いに導く指導者がいなかったために、精神的に惨めな状態だったのです。イエスは、ここで良き羊飼いとして、「いろいろと教え始められた。」のです。旧約聖書にも牧者、指導者がいないために混乱と苦しみに陥ってしまっている箇所がいくつか記されています。民数記27章16,17節を開いてみましょう。27:16 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、 27:17 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」他にも開きませんが、歴代誌下18章16節とエゼキエル書34章5,6節を後ほど読まれてください。この「五千人に食べ物を与える」出来事は、福音書に記されている奇跡の中で最も有名であり、また最も重要なものです。共観福音書のみならずヨハネによる福音書にも記されていて、さらにその意味も説明がされています。開きませんが、ヨハネによる福音書6章1-14節、26節を読まれてください。四福音に全て記載されている出来事は、この「五千人の給食」とイエスの洗礼、十字架の死と復活だけですので、そのことからも重要性がわかると思います。35,36節を見てみましょう。6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」話は前節に引き続いて、ガリラヤ湖の東岸で、イエスと群衆の間に注がれています。イエスの宣教は熱心で、聴衆も熱心にイエスの話を聞いていたため「時もだいぶたっ」ってしまい食事に時間になっていたのです。そこで、弟子たちはイエスに「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」と伝えたのです。弟子たちの言葉は一見常識的で分別があるようですが、信仰と思いやりが欠けています。時間が遅いこと、辺鄙な場所、大勢の群衆が空腹であることに心が奪われ、イエスへの信頼と群衆への配慮が欠けていました。私たちも問題に直面した場合、その状況に心を奪われてしまうことはないでしょうか。どんなときでも主イエスが共にいてくださることイエスに信頼することを忘れてならないのです。イエスと弟子との会話は続きます。37,38節を見てみましょう。6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。 6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」イエスと現実のみを見ている弟子たちの会話はちぐはぐです。嚙み合いません。イエスが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と伝えると弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と答えます。当時、一デナリオンは一日の労賃で、ニデナリオンは宿泊と治療の費用でした。それぞれ、開きませんがマタイによる福音書20章2節とルカによる福音書10章35節に記されています。ですから、「二百デナリオン」とは半年分以上の給金の相当する莫大な金額です。勿論、弟子たちは「二百デナリオン」もの大金がないことを前提としてこう語っているのです。しかし、イエスにとっては「二百デナリオン」の買い物をしに行く必要はありません。ですから、イエスは弟子たちの現実的な問いかけに対して、「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と命じたのです。弟子か確認をし、「五つあります。それに魚が二匹です。」と答えました。39,40節を見てみましょう。6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。この弟子たちの「五つあります。それに魚が二匹です。」との回答をあたかも無視するかのように「弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるよう」命じられ、「人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。」のです。多くの群衆に食事を与えるためには、秩序正しく座らせる必要があったのです。41-44節を見てみましょう。6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。 6:42 すべての人が食べて満腹した。6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。主イエスによる奇跡、御業が行われました。先ず、主は「五つのパンと二匹の魚を取り」なさいました。続いて、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。」のです。弟子たちの手にあったたった「五つのパンと二匹の魚」が「すべての人が食べて満腹した。」ほどの量に変えられたのです。「パンを食べた人は男が五千人であった。」とあります。今日の聖書箇所の出来事は一般的に「五千人の給食」と言われていて、新共同訳聖書の小見出しは「五千人に食べ物を与える」となっていますが、人数的には正しい表現ではありません。その理由は、そこには女性や子どももいたと思いますので、少なくとも一万人以上の人が満腹になったのです。奇跡が起こったのです。41節に「イエスは賛美の祈りを唱え」とありますが、これはとても素晴らしいことです。私が教会に通い始めた時に「聖書にその記述はありませんが、祈りの順番として、賛美、罪の告白、執り成しの祈り、自分の祈り」の順番ですると良いと習い、習慣にしています。しかし、賛美の祈りを捧げれば、いつでも自動的に奇跡が起こるわけではありません。神の御心でなければ、奇跡は起こらないのです。奇跡は何か特別な賜物のある人が自由にできることではありません。神の御心でなければ奇跡は起こらないのです。奇跡は手品、奇術ではありません。人間の知恵、技巧、種や仕掛けあってなされるものではありません。奇跡は神が御心の時に、御心の方法で行われるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは御心の時に、御心の方法で起こるということです。
②終末論的晩餐の雛型
この出来事には二つの大切な意味ありあります。先ず、イエスが預言された真の救い主であるということです。イザヤ書25章6-節を開いてみましょう。P25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。 25:7 主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。イエスはこの「五千人に食べ物を与える」という出来事を通して、イザヤ書の預言の成就者であることを示されたのです。罪なき神の独り子のイエスがこの世に遣わされたによって、地上に神の国が完成することになるのです。すなわち、「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。」ときが必ず来るのです。イエスはその道を開きつつあるのです。従って、今、どんな困難試練の最中にあっても、既にイエスがこのパンの奇跡で示されたように、神の国の完成を目指して歩むことが出来るのです。このことを確信することにより、労苦は喜びとなり、各自の進むべき道が開かれていくのです。このことを使徒パウロは次のように述べています。ローマの信徒への手紙5章3,4節です。 5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。ドイツの医師で神学者でもあったアルベルト・シュヴァイツァー(1875年 – 1965年)はこの「五千人に食べ物を与える」という出来事を「終末論的晩餐の雛型」と説明をしています。今日二番目に覚えて頂きたいことはこの出来事は終末論的晩餐の雛型ということです。
③イエスは生命のパン
この出来事の二つ目の意味は「イエスは生命のパン」ということです。ヨハネによる福音書にはこの奇跡の出来事の翌日に、主ご自身がご自身のことを天から降ってきた命のパンであり、それを食べ、主イエスの血を飲まなければ、永遠の命がないと説教をされています。6章48-54節に記されていますが、48節を見てみましょう。6:48 わたしは命のパンである。主イエスがこの出来事で一万人以上の人々の飢えをしのぐ奇跡をなさったのは、主イエスこそ命のパンであり、主イエスを信じる人は、誰にでも霊肉共に満たされるということを教えるためだったのです。私たちはどうしてこの出来事が起こったかは説明ができません。この世の誰一人としてこの出来事の説明をすることは出来ないでしょう。キリスト者も説明はできませんし、キリスト者は説明をする必要もありません。ただ、この出来事が実際にあったことと受け止め、その意味を理解すればよいのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはイエスは生命のパンということです。
Today’s Takeaways
①御心の時に、御心の方法で起こる ②終末論的晩餐の雛型 ②イエスは生命のパン