• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年11月3日主日礼拝

説教題: 伝道の秘訣 聖書箇所:マルコによる福音書6章1-13節(新共同訳新約71頁)

ハレルヤ!11月の第一主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその17回目です。前回のおさらいから始めましょう。5章21-43節から「信仰の力、主イエスの力」と題し、三つのことを中心にお話をしました。信仰とはイエスにすがること 悲しみと絶望は喜びと希望に変えられる イエスの力は比類ない でした。今日は続く6章1-13節を通して「伝道の秘訣」と題しお話をします。今日の聖書箇所は二つのエピソードから成り立っています。それぞれの新共同訳聖書の小見出しはナザレで受け入れられない」と十二人を派遣する」です。ご一緒に学んで参りましょう。

◆ナザレで受け入れられない  6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。 ◆十二人を派遣する 6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

不信仰が御業を妨げる

1-3節から順番に見てまいりましょう。6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスはヤイロの娘を生き返らせた後に、「故郷」のナザレに弟子たちと行かれました。開きませんが、マタイによる福音書2章23節には、イエスが幼少期にナザレで過ごしたことが記されています。また、このマルコによる福音書の1章9節から、バプテスマのヨハネから洗礼を受けるまで、ナザレにいたことがわかります。イエスの公生涯は33年と言われていますので、30年近くナザレに住んでいたのです。ですから、「故郷」のナザレ人々はイエスのことを良くしっており、イエスの日常生活を見ていたのです。しかし、今回、イエスが「故郷」に来られたのは、人間イエスとして個人的に友人、知人に会うための帰郷ではなく、救い主として、父なる神からの使命を受けて御業を行うことと宣教のために帰郷したのです。 救い主としてのイエスは、今まで行ってきたように、古郷でも「安息日になったので」、「会堂で教え始められた。」のです。この教えの内容は1章で学びましたが、「神の国」と悪霊追い出しなどイエスの権威に関する教えです。この教えは何処においても人々に驚きをもたらしましたが、イエスの成長期をしっている古郷の人々にとっては、一層大きな驚きだったのです。『「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」とある通りです。彼らはイエスが、「大工で。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟」であることを知っていましたし、イエスの「姉妹たち」も一緒に住んでいたことも知っていました。人々は人間イエスを良く知っていましたので、それゆえ、イエスの御業、神的な面を受け入れることができなかったのです。「イエスにつまずいた。」とある通りです。逆に、人間イエスを知らない初代教会の人は、救い主イエスを受け入れることが容易だったのです。ところで、「大工ではないか」とありますが、これは人を侮蔑した言葉、見下げた言葉ではありません。ユダヤ人は皆、手に職を持っていました。パウロが天幕作りをしていたことは使徒言行録18章3節に記されています。従って、この「大工ではないか」という言葉は「イエスは我々と同じ人間ではないか」という意味です。続いて、「マリアの息子」とあります。「ヨセフの息子」ではありません。このことから、既にヨセフが他界していたことがわかります。それゆえ、長男である人間イエスは大工として働きながら、母マリアや兄弟姉妹を養っていたと思います。しかし、神が定めた時が満ちて救い主としての働きを開始されたのです。4-6a節を見てみましょう。6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。イエスは、ご自分の権威を認めようとしない「故郷」のナザレ人々に「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。この部分は当時のことわざと考えられています。「預言者」は一般的に言うと、神の人であり、人の罪を厳しく咎める神のメッセージを語ります。それゆえ、人々に歓迎されず理解もされないものです。イエスの場合もそうでした。このことに加え、郷里の人々はイエスの人間的な面にとらわれていたので、イエスの語る神的なことに耳を貸そうとしなかったのです。しかし、イエスは自分を認めてくれないことを嘆かれたのではありません。その結果、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」とあるように、せっかくの恵みの機会を自ら逸している郷里の人のために嘆かれたのです。問題は「人々の不信仰」なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは不信仰が御業を妨げるということです。

伝道には柔軟性が必要

6b-7節を見てみましょう。6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、主イエスは、ご自身の故郷ナザレを離れ、弟子たちを二人ずつ組にして、伝道に遣わされました。弟子たちは、二人ずつ組になって遣わされたのは、一人ではなく、互いに支え合い、励まし合いながら信仰生活を送ることを意味しています。コヘレトの言葉4章9-10を開いて見ましょう。 4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。 4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。 4:11 更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。 4:12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。この世の荒波に、一方が倒れても、他方が神を仰ぎつつ慰め励するとき、二人の喜びは溢れ満ちるものです。信仰の友人と共にこの世にあるのもまた幸いです。夫婦であれ、信仰の兄弟姉妹であれ、キリスト者はこの世にある限り、信仰によって二人ずづであることが望ましいものです。三人以上であればなおさら良いものです。これがキリストの体なる真の教会です。教会の仲間や信仰の友と共に行動し、共に成長していくことが大切です。教会は有機体です。個人伝道も大事ですが、教会としての伝道も大事なのです。各人に与えられている賜物を生かしつつ、教会として未信者に接するのです。先々週は、礼拝後に5年ぶりにオープンチャーチマーケットを行い、先週はその反省会を行いました。それを踏まえて来年度は、教会として、何ができるかを考えてみようではありませんか。イエスは、弟子たちに汚れた霊に対する権能」を与えられました。「汚れた」とありますが、人間を肉体的にも道徳的にも汚すことを意味しています。ですから、この権能とは単に病気を治すことだけではなく、人間の心の奥底にある罪や苦しみから解放するものなのです。神の国を現す力とも言えます。伝道とは年齢、性別、国籍にかかわらず誰に対しても行うものですが、平和運動、社会の改革、病の癒しが中心ではありません。人間を混乱のどん底に落とし入れる、汚れた霊に打ち勝つにはどうしたらよいかを伝えることです。すなわち、神の愛を紹介することなのです。私たちにも、この権能が委ねられ、周囲の人々の心に光を灯し、癒しをもたらす使命を担っていることを忘れてならないのです。汚れた霊に対する権能」を与えられた弟子に対して、次にいくつかの伝道の秘訣を伝えています。8-9節を見てみましょう。6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。弟子たちは、旅の支度として、最小限のものしか持たないように指示されました。これは、物質的なものに頼らず、神への信頼によって生きることを意味しています。日常生活にあくせくしていたら福音を伝えることはできません。マタイによる福音書6章33節を現代訳聖書で見てみましょう。ですから、神様の事を、いつも第一にしなさい。そうすれば衣食住は、天にいらっしゃるお父様がかならず面倒をみてくださいます。物質的な豊かさよりも、神との関係を第一に考え、神が与えてくださるものだけで満足できるものなのです。この信仰に固く建とうではありませんか。ところで、「お金がないから伝道ができない」という方がいますが、本当にそうでしょうか。神学博士の佐藤陽二先生は著書の中で次のように述べています。そのまま引用します。「金がないから伝道ができないという声があるならば、これは大きな誤りである。金がなくて行きづまるのはこの世の事業である。一文なしでもできる伝道、これが今日の日本宣教の問題である。宣教百年にあたってイエスの言われた言葉(6章8,9節)は、日本において真に生かされなければならない。」この箇所の「問題」は「課題」ではなく「世間が関心をよせているもの」という意味です。10-11節を見てみましょう。6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」「その家にとどまりなさい。」とあります。当時、ユダヤでは旅人を泊めもてなすことが律法により促されていました。ヘブライ人への手紙13章2節に次のように記されています。13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。この箇所は、アブラハムが旅人をもてなしたエピソード(創世記18章)を念頭に置いており、旅人をもてなすことが信仰の実践として重要であることを述べています。その背景を受けて、主は弟子たちに、一つの場所に留まり、人々と深く関わることを求められました。これは、単に物理的な場所にとどまるだけでなく、人々の心に深く入り込み、彼らの生活の中に神の国を築いていくことを意味しています。伝道とは腰を落ち着けてなすべきことなのです。「あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら」とあります。伝道が歓迎されないこともありますし、また、迫害されることもあると思います。必ずしも良い反応ばかり得られるわけではありません。しかし、そのような状況でも、信仰をしっかりと持ち、神のメッセージを伝えることを大切にしようではありませんか。周囲から理解されなくても、信仰を貫き、神の愛を伝える勇気を持ち続ける必要があります。「足の裏の埃を払い落としなさい。」とあります。「足の裏の埃を払い落す」ということは縁を切ったことを示す動作です。つまり、福音を歓迎しない、受け入れない方に「もうこれ以上、キリストのことを伝えませんよ。しつこくしませんよ。だから安心してください」という事を伝えているのです。一種の一時的な配慮ですが、それと同時に彼らが悔い改めることを祈りつつのことです。今日の箇所は家族伝道の難しさを表しているとも思います。特に4節と10節です。私も経験していますが、家族伝道は簡単ではありません。何回か八街にも来てくださいましたが、北郷麿理子さん神学校も卒業している熱心なキリスト者です。彼女は実家で未信者の家族が集まると福音を語る好機ととらえ、食前の感謝お祈りをしたり、御言葉を伝えたりしていたのですが、姉妹から反撥を受けてしまいました。お母さんからは家に来るときにはキリストの話はしないでくれと頼まれたのです。そこで、北郷さんは口で福音を伝えることを少なくし、家族の救いのために祈ることを多くしたのです。配慮です。その結果、四年前にお母さんが救われ、二年前に洗礼を受けて天に戻られました。家族の救いは決して諦めてはならないのです。「押してもだめなら引いてみな」という諺があります。あることをやり続けても上手くいかないときには、一旦立ち止まって別の方法を試してみようという意味、柔軟な考え方が大切だという教えです。伝道もまさにそうです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは伝道には柔軟性が必要ということです。

伝道は信仰にたって行う

12-13節を見てみましょう。6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。このようにして弟子たちは出ていき、悔い改めの福音を宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大勢の病人を癒したのです。これは、神の働きの賜物ですが、弟子たちの信仰の結果でもあったのです。信仰による決断と実行こそが豊かに実を結ぶ秘訣なのです。1980年10月、ビリー・グラハム国際大会が沖縄、大阪、東海、広島、福岡、東京の全国で開催されました。聴衆約33万5,000人、決心者2万6,038人と言われていますが、開催に至るまで大きな問題があったのです。開催のために中心となって働いていた3名の牧師が病で倒れてしまったのです。急遽、委員会が開かれました。中止も止む無しとの意見も多くありましたが、信仰に立って行うこととなりました。当時、委員会メンバーの一人であった泉田昭先生は「あの時主なる神に信頼して本当に良かったと思ったのは私だけではなかったはずである」と述懐しています。今日、最後に覚えて頂きたいことは伝道は信仰にたって行うということです。

最後に、「油を塗って」とありますが、この時代、油は食料、化粧品、医薬品など多目的に使われていました。開きませんが、イザヤ書1章6節と読まれてください。

Today’s Takeaways

①不信仰が御業を妨げる ②伝道には柔軟性が必要 ③伝道は信仰にたって行う