説教題:あらゆる存在の根源 聖書箇所:マルコによる福音書6章45-56節(新共同訳新約73-74頁)
◆湖の上を歩く 6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。 6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。 6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。 ◆ゲネサレトで病人をいやす 6:53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 6:54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 6:55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
ハレルヤ!12月の第一主日を迎えました。今日からアドベントに入りますが、引き続きマルコによる福音書を講解で学びます。今日はその20回目です。12月22日のクリスマス礼拝はルカによる福音書2章からお話をします。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。6章30-44節から「命のパンである主イエス」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①御心の時に、御心の方法で起こる ②終末論的晩餐の雛型 ②イエスは生命のパン でした。今日は続く6章45-56節を通して「あらゆる存在の根源」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①一人静まり神との交わりの時を持つ
45,46節から順番に見てまいりましょう。6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。「それからすぐ、」とあります。一万人以上の人にパンと魚を与えられたイエスは、静まり祈るために「群衆を解散させ、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」たのです。イエスは、群衆と弟子たちから離れて父なる神と静かに交わる事を望まれました。イエスの生活には動なる活動と静という祈りのいうリズムがあったのです。祈りは神との交わりであり、新たに力を与えて頂くためのものなのです。この福音書の1章35節にも記されていました。確認をしてみましょう。 1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。イエスはしばしば群衆から離れ、静かな場所で祈るために出かけました。イエスが神との親密な時間を大切にしていたことを示しており、忙しい中でも祈りの時間を取る大切さを教えています。このことは私たち信仰者の基本とも言えます。今日、先ず覚えて頂きたいことは一人静まり神との交わりの時を持つということです。
②イエスはあらゆる存在の根源
47,48節を見てみましょう。6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。イエスが山に祈りに行かれる間、弟子たちは船をこぎ出しました。時は「夕方」になっていたので、だんだん暗くなっていきつつありました。「逆風のため」とあります。以前にも学びましたが、ガリラヤ湖は周囲が丘で囲まれた盆地にあり、その上、水面は海面よりも低いのです。このような地形的な理由により逆風や突風が起こりやすく、突然、湖が荒れることも多いのです。この日もそうでした。主は「夜が明けるころ、」弟子たちが漕いでいる船が逆風により「漕ぎ悩んでいる」のをご覧になりました。4章で学びましたが、弟子たちは以前にも舟で嵐にあったことがありました。その時は眠っているとは言え、主イエスは舟の中にいたのです。しかし、今回は「イエスだけは陸地におられた。」のです。試練には、その都度新しい局面があります。そして、イエスの助けもその都度違うものなのです。48節の後半に「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」とあります。主が助けに来られるのが遅いと感じるかもしれませんが、遅すぎるということはありません。最適なタイミングで来られるのです。忍耐という訓練を受けることも試練の一つです。イエスは「そばを通り過ぎようとされた。」とありますが、イエスに弟子たちを助ける意思がなかったわけではありません。弟子たちを試しておられるのです。49,50節を見てみましょう。6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。「弟子たちは」このイエスを見て、「幽霊」だと思ってしまったのです。夜明け前で薄暗かったこともあり、イエスとは分からなったのです。水の上を歩くことの出来る人などいないと常識的に考えていたので、大声を上げて叫び怯えてしまったのです。主イエスだとわかっていたら、このような事態にはならなかったでしょう。イエスは、そんな弟子たちに対して「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたのです。「わたしだ」とありますが、単に「ここにいるのはわたしだ」以上の大きな意味があります。「わたしだ」の部分は原語のギリシャ語では「エゴ・エイミ」です。その昔、神はイスラエルの民をエジプトから脱出させるため、モーセを指導者として召し出すのですが、モーセはしり込みをして、様々な言い訳をしました。その時に主なる神は次のようにモーセに語りました。出エジプト記3章12-14節を見てみましょう。 3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」14節に「わたしはある。わたしはあるという者だ」とありますが、この箇所は七十人訳聖書では「エゴ・エイミ・ホ・オーン」です。これを訳せば「私はあらゆる存在の根源である」です。ですから、主イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた部分は「安心しない、私はあらゆる存在の根源ですので、怒れることはありません」となります。あらゆる存在の根源であるお方、こんな力強いお方が、今、ここにおられるのですから、何ら恐れることなく安心していられるはずなのです。4~5世紀に活躍したカトリック教会の司教であり、神学者のアウグスティヌス(354年11月13日 – 430年8月28日)はこの「湖の上を歩く」出来事について次のように解説をしています。「イエスは波を踏みつけて来られた。そのようにイエスは人生にわき上がって来る全ての混乱を足の下に踏みつけられた。クリスチャンよどうして恐れるのか」と。私たちは、イエスの御言葉に従って地上の生活を歩むのなら、それは、すなわち神と共に歩んでいることなのです。私たちが人生行路において、逆風に出会い、漕ぎ悩んでいる時も、イエスは「安心しない、私はあらゆる存在の根源です。怒れることはありません」と語られて、私たちの舟に乗り込んでくださるのです。キリストがそこにおられるときに、人生の嵐は止み、混乱は平安に変えられ、不可能なことが可能となり、堪えがたきことを耐え得るようになるのです。このことを確信しようではありませんか。信仰という杖は、私たちが山を歩く時も、川を渡る時も、私たちを支えてくれるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはイエスはあらゆる存在の根源ということです。
③重荷はイエスにお任せする
51,52節を見てみましょう。6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。 6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。そんな「イエスが舟に乗りこまれると」風は静まったのですが、弟子たちは安心するどころか、「心の中で非常に驚い」てしまったのです。その理由が「パンの出来事を理解」出来ていなかったからです。前回の講解説教で、一万人以上の人たちに食べ物を与えた出来事の一つの意味は「イエスは生命のパン」ということを私たちは学びましたが、当時、弟子たちにそのことが理解できていなかったのです。イエスは天から降ってきた命のパンであり、この肉を食べ、血を飲まなければ永遠の命はないと言われました。そして、このことは、やがて聖餐式という形でキリスト教会の聖礼典として受け継がれていくのです。続いて「心が鈍くなっていた」とあります。パンの出来語が理解できなかった原因は心が鈍くなっていたからです。私たちはどうでしょうか。様々な思いわずらいにより心が鈍くなってしまってはいないでしょうか。御前に静まり心の鈍さを取り除いて頂きましょう。53-55節を見てみましょう。6:53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 6:54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 6:55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。53節から話題がかわります。新共同訳聖書の小見出しは「◆ゲネサレトで病人をいやす」です。主イエスと弟子たちを乗せた舟はゲネサレトの地に着きましたが、目指していたのはゲネサレトではなくベトサイドであったことが、45節前半に記されています。確認をしてみましょう。6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、恐らく、逆風のため少し西の方向にそれてゲネサレトにいったものと思われます。イエスと弟子が上陸されると、多くの人々が「病人を床に乗せて運び始めた」のです。イエスがなされた数々の御業、どんな病でも癒されるという評判はこの地にも伝わっていたのです。イエスが行かれる所にはみな群衆が待ち構えていたのです。床とはこの福音書の2章4節に記されていたものと同じ簡単な担架のようなものだと思われます。病は重症であれがあるほど、本人にとっても家族など周りの人にとっても重荷となるものです。主イエスは重荷について次のように教えています。マタイによる福音書11章28節を見てみましょう。11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。従って、ゲネサレトの人々が病人を主イエスのもとに連れてきたのは御心にかなった正しいことだったのです。病などで重荷を負っている方は今すぐに、主エスの御許に行こうではありませんか。今日、最後に覚えて頂きたいことは重荷はイエスにお任せするということです。聖書箇所に戻り「病人を広場に置き」とあります。人々が連れてきた病人があまりにも多く、家の中では対応が出来なかったのでしょう。広場と訳されている言語には市場の意味もありますので、売買の場所でもあり、民衆の集まる会合の場所でもありました。「触れた者は皆いやされた。」とありますが、5章で学んだ「十二年間も出血が止まらない女」の話を聞いていたのでしょう。新共同訳では「服のすそ」と訳されていますが、口語訳では「上着のふさ」と訳されています。「上着のふさ」はユダヤの上着の四隅に付けられていたものです。それは、神戒めを思い出し、それを行うようにと付けられたものです。開きませんが、民数記15章38,39節に記されています。このゲネサレトで病人をいやされた場面にもイエスの神的力とそれに対する病人の信仰の力が描かれていますが、信仰によって病は必ず癒されるのでしょうか。そうではありません。治る場合もありますし、治らない場合もあります。逆に、医学によって治らない場合でも、信仰によって治った例も少なくはありません。昔所属していた教団で、末期癌と診断をされた方が、信仰によって癒され癌がすっかり消えたという証を聞いたことがあります。このように医学的に治療が困難でも、信仰によってその病が癒されることはあります。以前にもお話をしましたが、私たちが所属する日本ホーリネス教団も四重の福音の一つとして神癒を掲げています。同時に、ルカによる福音書の記者であるルカは医者でした。開きませんが、コロサイの信徒への手紙4章14節に記されています。このように聖書は医学、医療を認めています。このことを決して忘れてはならないのです。ある教会での電話のやり取りです。一人の信徒さんが「今日は具合が悪く病院に行きますので、祈祷会は休みます」と電話で伝えました。すると電話を受けた方は「順番が逆だろう、早く祈りに来い!」と声を荒げて、その信徒に伝えたそうです。私はこの話を聞いて大いに違和感を覚えました。祈祷会に出席しなくても病の癒しは祈ることができます。自分なり家族なりが病になったときは、その病が癒される事を信じ、神に祈ることが第一ですが、病院に行き、医者の指示にしたがうことも大事なのです。神は病院や医者を通しても病をいやされることがあるからです。また、病になることや怪我をすることにも意味がある場合があります。そのことを通してでなければ学ぶことができないことがあるのです。私自身がそうでした。20年前に転落事故に遭ったことで、生まれて初めてキリスト教会の門をたたき、イエスキリストと出会い人生が変わりました。事故で大変痛い目にあいましたし、両親にも心配をかけましたが、今では事故にあったことを感謝しています。私を初穂として両親も救われ、今、両親は天国にいます。
Today’s Takeaways
①一人静まり神との交わりの時を持つ
②イエスはあらゆる存在の根源
③重荷はイエスにお任せする