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2024年12月15日 主日礼拝 伏見美恵子師

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章1-15節 説教題:5000人の給食

 ◆五千人に食べ物を与える 6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

おはようございます。前回はヨハネによる福音書5章31-44節から「キリストを証するもの」と題して四つのことを中心に話しました。①バプテスマのヨハネの証 ②父なる神の証―しるしと奇跡 ③父なる神の証―聖書のみ言葉 ④キリストの愛に感動した私たち でした。今朝は6章に入り、5000人に食べ物を与えるところです。ご一緒に見ていきましょう。

主は弟子を試される

6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 「その後」とは迫害するユダヤ人たちに、自分は神から遣わされたものであることを証した、その後のことです。イエス様も弟子たちもくたくたに疲れておられたことでしょう。人々から離れて静まる時が必要です。一行はガリラヤ湖(テベリウス湖)の向こう岸に渡りました。ところが大勢の群衆が後を追ってきたのです。それはイエス様が病人たちになさったしるしを見たからです。いつの時代もそうですが、病に苦しむ人々が大勢いるのです。みんな何とかして癒されたいと、イエス様を追いかけてきたのです。

6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。一行は山に登り座り込んで、ホッと一息ついたところです。時は過ぎ越し祭が近づいていたので、4月頃でしょう。目を上げると大勢の群衆が来るのが見えました。そこでこのガリラヤ地方出身のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。イエス様は何をすべきかわかっていましたが、フィリポを試すためにあえてこのように尋ねました。

 6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。1デナリオンは大体一日分の給料と言われるので約1万円と考えて200万円です。もしかしたらその位のお金を持っていたのかもしれません。それでパンを買っても足りないでしょうと否定的に答えています。それほどたくさんの人々だったのです。またそこにペテロの兄弟のアンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」子どものお弁当をイエス様のところにもってきました。イエス様ならこれで何とかしてくれるかもしれないと期待をもってきたのでしょうが、けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」残念ながら彼も同じでした。現実的に見て無理でしょうと否定的なことを語っています。イエス様はフィリポを試みるために言われたとありますが、何を試そうとされたのでしょうか。「試みるため」つまり試験ですね。私たちも学生の時にはたくさんの試験がありました。試験の本来の意味は、その結果を見てできなかったところ、自分の弱さを知り、そこを強くしていくためです。イエス様の試験も同じです。フィリポがどのように答えるか、それによって自分の信仰のなさに気付かせるためではないでしょうか。現実だけを見て人間的に判断してしまいやすい者であること、イエス様に信頼する信仰の弱いことを悟らせ、信仰を成長させるためではないでしょうか。私たちはどうでしょう。イエス様は私たちも試されることがあります。その時に現実だけを見て駄目だと否定的な判断をしますか。それとも、現実は非常に厳しいけれど、イエス様なら何とかしてくださると信仰を働かせて、主がなさることを信頼し、忍耐しますか。イエス様が私たちを試されるのは、私たちが成長し、ますます主の祝福に預かってほしいと思われるからです。私たちを成長させてくださるのは主です。 神様はそのために私たちに聖書を与えてくださいました。テモテ二 3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。ですから聖書を読みましょう。これからは 「こんなに大勢の人々にはどう見ても,わたしには無理でしょう。でも、イエス様に不可能はない。主に信頼します」と信仰の言葉を宣言できるようになりたいです。今日、先ず覚えて頂きたいことは主は弟子を試されるということです。                                                

②主に不可能はない

6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。弟子たちの不信仰な発言など気に留めず、イエス様はご自分がなさるべきことを進めていかれます。4月頃ですから草が生えていたので、人々を座らせました。その数は男だけで5千人ですから女や子供を含めたら1万人以上と言われます。よく「5000人の給食」と言います。今朝の説教題もそうしましたが、本当は「1万人以上の給食」でしょうね。

6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。イエス様はさっそくパンを取って、感謝の祈りをささげ、座っている人々にわけ与えられました。魚も同じようにしました。子どものお弁当、5つのパンと2匹の魚がイエス様の手に委ねられたとき、1万人以上が満腹するまで十分に食べて、さらに12の籠がいっぱいになるほど残ったのです。素晴らしい奇跡が起こりました。イエス様は超自然的な力を持っておられるです。フィリポもアンデレも不信仰な言葉を言ってしまったことを恥じたでしょうね。復活された主は今も生きて働いてくださっています。主を見上げ信頼しましょう。せっかくいただいたのですから信仰を働かせるのです。またもう一つこの個所から学べることがあります。5つのパンと2匹の魚、子ども一人分のお弁当、大人には足りない量です。そんなわずかな小さなものでもイエス様の手にかかるならば、1万人以上が満腹して更に余るほど、人々を救うために用いられるのです。同じく私たちも小さな者ですが、イエス様に捧げるときに多くの人を救うために用いられるのです。この信仰に立って、自分の持てるもの、お金や時間、能力、体力、奉仕、祈りを通して自分自身を主に捧げていきましょう。人々の救いのために、主が豊かに用いてくださることを信じていきたいと思います。少し深堀して、自分をささげるとはどういうことでしょうか。今言ったようなお金や時間、能力、体力、奉仕といったものだけでなく、まさに自分自身を捧げることです。イエス様はさっそくパンを取って、感謝の祈りをささげ、座っている人々にわけ与えられました。魚も同じようにしました5子どものお弁当、5つのパンと2匹の魚がイエス様の手に委ねられたとき、1万人以上が満腹するまで十分に食べて、さらに12の籠がいっぱいになるほど残ったのです。素晴らしい奇跡が起こりました。イエス様は超自然的な力を持っておられるです。復活された主は今も生きて働いてくださっています。主を見上げ信頼しましょう。せっかくいただいたのですから信仰を働かせるのです。またもう一つこの個所から学べることがあります。5つのパンと2匹の魚、子ども一人分のお弁当、大人には足りない量です。そんなわずかな小さなものでもイエス様の手にかかるならば、1万人以上が満腹して更に余るほど、人々を救うために用いられるのです。同じく私たちも小さな者ですが、イエス様に捧げるときに多くの人を救うために用いられるのです。この信仰に立って、自分の持てるもの、お金や時間、能力、体力、奉仕、祈りを通して自分自身を主に捧げていきましょう。多くの人の救いのために、主が豊かに用いてくださることを信じていきたいと思います。さてここで自分をささげるとは、今言ったようなお金や時間、能力、体力、奉仕といったものだけでなく、まさに自分自身そのものです。ローマの信徒への手紙121,2 ◆キリストにおける新しい生活 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。旧約時代は、動物が神にささげられていましたが、今度は自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として神にささげなさいと勧めています。これこそなすべき礼拝だと書かれています。これはどういうことでしょうか。生贄の動物は人間の罪の赦し、身代わりとして祭壇の上で焼かれたのです。私たちもありのままの自分を主に捧げることです。自分の深いところにある思い、頑なに握りしめているもの、その中には神の喜ばれないもの、忌み嫌うものもあるかもしれません。それらすべてを明け渡すことです。許せない思い、愛せない思いはないでしょうか。それらをすべて告白し、悔い改め、神に明け渡すのです。そして神に清めていただくのです。自分ではできませんが、神にはできることを信じて捧げるのです。これこそあなた方のなすべき礼拝です。神が喜ばれることです。神は私たちが清くなり、神の御心を行い、神と共に歩んでいくことを願っておられます。元やくざだった進藤龍也牧師の証をします。独房で救われ、これからはこの素晴らしいイエス様を親分として従っていきたいと思い、JTJ神学校を卒業して、お母さんの小さなスナックを教会としてスタートしても、しばらくは誰も来なかったそうです。土方仕事をしながら、いつかはフルタイムの牧師になると宣言し、少ずつ人々が救われ、またTVでも取り上げられるようになり、本を出し、全国で講演会をするようになってくると、SNS上に、「あれはカルトだ」と、しばらくの間多くの人々から批判され、たたかれたそうです。その時とった行動は、「神様彼らを許します」と何度何度も宣言し続けたそうです。心の中では、正直、はらわたが煮えくりがえるほどの怒りを感じていましたが、感情は伴わなくても、神の言葉に従ったそうです。そうしていくうちに少しづつ怒りが収まり、許せるようになっていき、やがて彼らがかわいそうに思えるようになり、そして愛せるようになり、ついにはハグしたいと思うほどに変えられていったということです。ハレルヤ、素晴らしい証ではないでしょうか。私たちも神の教えは十分に知っています。あとは従うことです。自分の思いや感情はありのまま主に委ね、しかし自分の感情に従うのではなく、神に喜ばれる言葉を宣言することです。言葉には力があります。言葉が道を開くのです。信仰の言葉を語りましょう。例えば、「神様本当に腹が立ちます。でも赦します。愛します。」といった具合に。神様に喜ばれる方を選択していくのです。これも筋トレと同じように、訓練していくうちに、身についていくものだと思います。もちろん聖霊様が喜んで助けてくださると思います。身に着けたいです。12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。神は、私たちを新しく作り変えることのできるお方です。5つのパンと2匹の魚で、1万人以上の人々を満腹にすることのできるお方です。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主に不可能はないということです。

主の御前に退く

 6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。イエス様のなさった奇跡を持て、群衆は「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。この言葉は申命記18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。モーセが、私の後に、神は私のような預言者を立てると語られた言葉から、イスラエルの民は、やがてモーセのような預言者がやってくると待ち望んでいたので、このように語ったのです。どの時代も、安全と安心、そして満腹するまで食べることができることを保証してくれるリーダーを求めるものです。彼らはこのような肉の満足を求めて、イエス様を王にしたいと思ったのです。政治家であれば、これは自分を担ぎ出してくれる絶好のチャンスです。表舞台に出るためにますます群集の心をつかむことをしていくでしょう。しかしイエス様は違います。イエス様の目的は人々の人気を取り王様としてあがめられることではありません。イエス様はご自分を担ぎ上げようとする群衆を離れて、山に登り、父なる神様との交わりの時間、静まる時を確保されたのです。それはご自身がいつも父の御心を行っていけるように、そして心身の疲れを癒し、父の愛と恵をいただくためでした。それは次の働きのためのなくてならない時間なのです。それぞれに年齢を重ね、身体的には若いころのように元気いっぱいに動き回ることはできなくなってきましたが、だからこそ、主のみ前に退き、御心は何か、委ねて、主に期待し、信頼していきたいです。私は今年の11月4日で、受洗して40年になりました。時のたつ速さを感じますが、様々なことがありました。皆さんお一人お一人の人生も、語りつくせないほど様々なことがあり現在があることと思います。ここまで助け導いてくださった主に、ただただ感謝以外にありませんね。この年末、主のみ前に静まり、主に聞き、主に感謝を捧げ、悔い改め、来年は更に恵みの中を、主と共に歩んでいけるように祈り求めていきましょう。そしてこの教会がますます愛の教会として成長し、地域に仕え、祈っている家族親族も救われていくように、心を合わせて祈り求めていきましょう。今日、最後に覚えて頂きたいことは主の御前に退くということです。

ポイント

主は弟子を試される ②主に不可能はない ③主の御前に退く