• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年12月22日 主日礼拝 伏見敏師

説教題:介入される神~羊飼いたちに学ぶ信仰~ 聖書箇所:ルカによる福音書 2章8-17節

羊飼いと天使2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

ハレルヤ!12月の第四主日を迎えています。クリスマスおめでとうございます。昔、神学校でギリシャ語を習ったときにChrist(キリスト)をギリシャ語ではΧριστος (Khristos クリストス)ということを習いました。その時に、私が小学生の低学年のころの出来事を急に思い出しました。押し入れにX(かけます、ばつます)マスと書いてある箱を見つけました。未だ英語を習っていない私にはカケマスとしか読めなかったのですが、箱を開けてみるとクリスマスツリーに付ける飾りが入っていました。当時の私にとってクリスマスとはカケマス、ばつますでもなんでもよく、その日からから冬休みになり、プレゼントがもらえる嬉しい日でしかなかったのですが、やがてクリスマスは救い主が生まれた日だと教わりました。恐らく世の中の多くの人はクリスマスのことを救い主の誕生日と思っていると思いますが、クリスマスはイエス・キリストの誕生日ではなく「イエス・キリストの誕生を記念する日」です。では、何故12月25日がクリスマスになったのかというと、諸説あるのですが、四世紀に活躍したローマ皇帝コンスタンティヌス大帝が、ローマ帝国の国教であるキリスト教を進める上で、既に人々に親しまれていた「冬至の祭り」を「キイエス・キリストの誕生」とし、キリスト教の普及を加速させようとしたという説が有力です。イエスの誕生日は父なる神様が知るのみです。今朝は、ルカによる福音書 2章8-17節から「介入される神~羊飼いの行動から学ぶ~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①神は介入をされる

今日の聖書箇所はルカによる福音書に描かれたクリスマス物語のクライマックスと言われていて、羊飼いたちにスポットライトが当てられています。8節から見て参りましょう。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」「その地方」がどこなのかは誰にも分かりません。ベツレヘムに近かったのか遠かったのかも分かりませんが、いずれにしても羊飼いたちは屋外で夜の間ずっと自分たちの羊の群れを守っていたのです。ルーチンワークです。自分たちのすべきことをしていたのです。「野宿をしながら、夜通し」とあります。先程、イエスの誕生日は父なる神様が知るのみですと言いましたが、このことから少なくとも冬ではないと言われています。それは、ベツレヘムの冬はとても寒く野宿はできないからだと言われています。9節を見てみましょう。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。「主の天使が近づき」とあります。主の天使が救い主の誕生を伝える最初の相手が羊飼いだったのです。誰でも良かったわけでなく羊飼いたちが選ばれ、主の天使により、神の言葉が羊飼いたちに語られたのには意味があると思います。何故、羊飼いたちが選ばれたのかは聖書には記されていませんが、伝統的に二つの理由が考えられています。一つの解釈はこういうものです。当時、羊飼いという職業は社会的に軽蔑され人々から嫌われていました。卑しい仕事だと考えられていました。それ故に羊飼いには法廷で証言することは許されていなかったともいわれています。そのような人々に主イエス誕生の知らせが最初に告げられたのは、主イエスがこの世に貧しく低く生まれ、またそのような人々の友となるために来られた印であるという解釈です。何年か前、私もこの解釈に基づいてお話をしたことがあります。もう一つの羊飼いの見方は、決して身分の低いものではないとの考え方です。例えば、イスラエルの偉大な二代目の王のダビデは羊飼いでした。ダビデは主なる神を自分の羊飼いとしてほめ歌っています。詩編23編1節とヨハネによる福音書10章11節を見てみましょう。詩編23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。また、主イエスご自身次のように語られています。を見てみましょう。ヨハネ10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。これらのことを考慮すると、羊飼いという職業は身分が低いのではなく、お生まれになったばかりの御子イエスこそが羊飼いであること、すべての人間の牧者としての印象づけるため先ず、羊飼いたちにみ使いの言葉が語られたのだという解釈が成り立ちます。この二つの解釈にはそれぞれに深い意義があり、どちらが正しいとか優劣とかという問題ではありません。どちらからも天使の言葉を聞いた羊飼いたちの行動、信仰を通して、メッセージを受け取ることができます。10-14節を見てみましょう。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」イスラエルにおいては普通に見られる羊飼いの光景です。いつものように野宿をしながら羊の番をしていた時に突然天使たちが現れて、救い主の誕生の知らせを告げたのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」とある通りです。唯一の世界の希望、命、真理、道、力強い神、輝かしい贖い主。主イエス・キリストがお生まれになったのです。そして。「突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。」とあるように、正に突然、想像を超えた体験をしたのです。神の介入を受けたのです。この時以前にも宗教的行事ではなく日常生活をしている最中に神が介入をした例が聖書に記されています。士師記6章12節を見てみましょう。 6:12 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」これはギデオンが麦を打っているときに、主のみ使いが現れてギデオンに新しい務めを与えたときのお言葉です。また、開きませんが、マタイによる福音書4章18,19節にはペトロとアンデレが主イエスによって私についてきなさいとの招きを受けたことが記されています。このように日常生活の中で神との出会い、神からの招きや語り掛けを体験して新しい歩みへと導かれていくものなのです。今日においても神は介入されます。全ての主権は神にあります。ですから、神の定め、原因、許可なしには何も起こりません。私たちはいつも神の介入に囲まれています。神の介入は癒し(神癒)や超自然的しるしという形で来ることもありますし、偶然のように見える出来事として起こることもあります。神は私たちが進むべき道に導いてくださるのです。ここで、私自身が神に導かれたお話したいと思います。20年前の転落事故がきっかけで生まれて初めて行った教会は長老派の西船橋キリスト教会でした。JR総武線に面してあるのですが、写真は総武線の南から撮ったものです。教会員の皆様にとても良くして頂き、事故の約一年後に救われたことはお話しをしたと思いますが、実は初日に大きな躓きがあったのです。初日に教会員の皆さまから歓待されあーいいところだなぁ。また来たいなぁ。とある言葉を聞くまで思っていました。ある言葉とは献金です。説教の後で司会者が「献金はクリスチャンの義務です」と発言し、「しょせん、キリスト教も金か」と思い大いに失望し、もう教会に行くのをやめようかと思っていました。そんなことを思っていた夜の出来事です。季節外れの10月初旬の台風の夜です。当時、私は骨折により、左手を三角巾でつるしていました。医者からは車の運転は控えるように伝えられていたのですが、なぜか買い物に行きたくなりました。抑えきれない衝動です。夜間、悪天候の中、慎重に運転しお店につくと台風のために閉まっていました。何をしにきたのかなと自問しながら、帰宅するためには左折をするのですが、気が付けば右折をしていました。止れの標識で止まり左右上下の確認をしたとき、目に入ってきたものに背筋が凍りました。その教会の神々しく光る十字架です。これは昼間の写真ですが、夜はライトアップしていないので暗闇です。加えてその夜は台風でどしゃぶりでした。しかし、私にははっきりと神々しく輝く十字架が見えたのです。そして、その瞬間、これは神様が教会にき続けなさいと招いておられるのを確信しました。私は教会に通い続け永遠の命を得ることができたのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは神は介入されるということです。気を付けて頂きたいことは、日々の信仰生活において毎回、このように決定的な介入を示されませんが、介入はされているのです。ですから、私たちは心の目、心の耳を研ぎ澄ませていなければならないのです。

②示されたことは直ぐに実行する

神の介入を受けた時、羊飼いはどのように行動をしたのかが15節以降に記されています。15節を見てみましょう。2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。羊飼いたちは想像を超える経験をしました。当然、そこには驚きと恐れもあったことでしょう。また、羊飼いたちがいた場所は不明ですので、そこからベツレヘムへの道程はわかりません。しかし、「天使たちが離れて天に去ったとき」彼らは疑うことを知らない者のように「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。のです。行く、見るという二つの動詞が羊飼いの信仰、従順さのキーワードです。羊飼いたちには高度な聖書の知識はなかったでしょうし、自分たちこそ誰よりも先に救い主誕生の知らせを受けるなどとは夢にも思っていなかったことでしょう。ただ、日々の羊飼いという仕事に責任をもってあたりつつ、神を畏れる敬虔な思いで、語り継がれてきた救い主が現れるという預言に期待はしていたのです。ですから、突然の啓示に対しても過度に恐れることなく、従順にしかも熱情をもって答えることが出来たのです。羊飼いたちのこの一連の行動はマタイによる福音書に記されているヘロデ王の様子とは対照的です。2章3,4節を開いてみましょう。2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。「これを聞いて」とあります。占星術の学者たちの話を聞くと、ヘロデ王もエルサレムの人々も不安に襲われたのです。というのは、ヘロデ王は猜疑心が人一倍強く、その猜疑心ゆえに先程、お話ししたように元々は敵の娘であった夫人と実の子どもさえ殺してしまったのです。ですから、ヘロデ王は救い主についての知識がありました。王位を奪われてしまうのではないかと不安に駆り立てられたのです。エルサレムの人々が不安になったのは、猜疑心が強く残虐なヘロデ王が何か大変なことをしでかすにちがいないと思ったからです。エルサレムの人々は、既にこれから起ころうとしている極悪非道な事件を予感していたのです。残忍極まるヘロデ王に比べ羊飼いたちの応答の素早さ、誠実さ、真剣さに心が打たれます。ミシェル・クオスト神父の作品に「主よ、『はい』と言わせて」という詩があります。そのまま引用します。『主よ、私は「はい」というのがこわいのです。あなたは私を、いったいどこへ連れて行こうとなさるのですか。私は、びんぼうくじを引くのが恐いのです。私は同意書も読まないで捺印するのが恐いのです。一回「はい」と言えば、次から次へと「はい」と言わせられるのが恐いのです。(中略)—- 主よ、あなたの要求にはとてもかないません。しかしだれがあなたに手むかいえましょう。私の国でなく、あなたのみ国が来るために。私の心ではなく、あなたのみ心が成るために。私に「はい」と言わせてください。』さて、私たちはどうでしょうか。羊飼いたちのような従順さはあるでしょうか。主からの語りかけに素直にはいと答えられるものとさせて頂こうではありませんか。16節を見てみましょう。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て」、[天使が話してくれたことを人々に知らせ」とあります。ルターと並ぶ宗教改革の第一人者であるカルバンは羊飼いの従順さに加え、自分たちの見聞きしたことを人々に伝えた誠実さ、神を賛美した熱心さをも見なければならないと述べています。16,17節は15節に記されていた羊飼いたちの「行こう」「見よう」という言葉を実行した結果です。信仰の結果とも言えます。与えられた御言葉を信じるとは、その御言葉が指し示すしるしを「行って」「見る」ことです。「急いで行って」とあります。しるしが与えられたのにのんびりしているというのではありません。しるしが与えられるやいなや行動に移すのです。羊飼いたちはしるしが与えられると「急いで」出かけていったのです。ここに信仰があります。神の言葉に信頼し、指し示されたしるしを「急いで行って」「見る」ことこそ信仰にほかならないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは示されたことは直ぐに実行するということです。

③証をする

17節を見てみましょう。2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。羊飼いたちはベツレヘムへ向かいました。しかし「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」がベツレヘムのどこにいるかは知らなかったでしょう。「探し当てた」という言葉は、そのことを示しています。羊飼いたちは互いに「行こ」「見よう」と言ってベツレヘムへと出かけ苦労に苦労を重ね救い主を「探し当てた」のです。天使が話してくれたこと、つまり神さまの言葉を聞き、信仰を持ってそれを受けとめた者は、告げられたことを他の人々に知らせるのです。羊飼いたちがしたことを簡単にいえば証です。証はとても大切です。証と聞くと私には忘れられないことがあります。私がJTJ宣教神学校に入学をして間も無く、伝道学の授業でのことです。学長の岸義紘先生が、いきなり「伝道をしようとするな。」「伝道をしろとは聖書に書いていない」と言われ少しビックリしました。私は、その真意がわからず少し考えこんでしまいました。実は、これは、岸先生の一流の引きつけ方で、岸先生の真意は、神学生が伝道をしようとすると、神学生ゆえに構えてしまい、かじった程度の神学を述べてみたり、御言葉を乱発してみたりしてしまい、未信者にはかえって逆効果になりがちとのことです。伝道などと固くならずに神様、イエス様と出会っていない方と友達になりまさい、そして証をしなさい。自己の救いに関し見たこと、経験したこと、クリスチャンの友人からきいた神様、イエス様との出会いの話を証しなさいと学びました。今日、最後に覚えて頂きたいことは証をするということです。クリスマスシーズンは伝道に最も適した時期と言われていますが、伝道はこの時期だけではありません。この救い主なる、我らの主イエス・キリストの御名を褒めたたえ、心から賛美し、迎える年もイエス・キリストを証をして参りましょう。 

Today’s Takeaways

①神は介入をされる ②示されたことは直ぐに実行する ③証をする