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2024年12月8日主日礼拝 伏見敏師

説教題:何に従っていますか 聖書箇所:マルコによる福音書7章1-13節

◆昔の人の言い伝え 7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

ハレルヤ!12月の第ニ主日を迎えました。先週からアドベントに入っていますが、引き続きマルコによる福音書を講解で学びます。今日はその21回目です。12月22日のクリスマス礼拝はルカによる福音書2章からお話をします。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。6章45-56節から「あらゆる存在の根源」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①一人静まり神との交わりの時を持つ ②イエスはあらゆる存在の根源 ③重荷はイエスにお任せする でした。今日は続く7章1-13節を通して「何に従っていますか」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

今日の箇所は、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」が、イエスの弟子たちが伝統に従わずに「汚れた手」で食事をしていることを非難するところから始まります。ユダヤ教では、食事の前に手を洗うことが清浄のための重要な儀式とされており、この習慣は単なる衛生的な意味以上で宗教的な意味を持っていました。彼らは、律法の文字通りの絶対的な順守が神への忠誠の表れであると考えていたのです。

口伝に縛られない

1節から順番に見てまいりましょう。7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。「エルサレムから来て」とあります。イエスに敵対する律法学者の中には、エルサレムからやってきた者がいたことがこの福音書の3章22節に記されていました。確認をしてみましょう。同段落PPT3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。イエスの名声が高まるにつれて、ガリラヤ地方にいたファリサイ人の律法学者達は、エルサレムにいる仲間たちに応援を求め、争いは一層激しくなってきたのです。エルサレムから来た彼らが「イエスのもとに集まった。」のはイエスから教えを乞うためではなく、何かイエスを攻撃する材料を虎視眈々と狙っていたのです。2-5節を見てみましょう。7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」「つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」とありますが、これは衛生上の観点からの問題ではなく当時の戒律に照らした上の意味です。つまり、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事を」するのが習慣であり、それは、「昔から受け継いで固く守っていること」だったのです。この儀式的な手洗いの習慣は、モーセの律法には直接書かれていませんが、「口伝」、ユダヤの伝統として非常に重んじられていました。口伝とは昔からの伝承。言い伝えで聖書的な根拠がない場合もあります。「念入りに」と訳されている部分は原語に忠実に訳すと「こぶしで」です。ですから、こぶしでごしごしこすって洗っていたのでしょう。ファリサイ派と律法学者は神殿に仕える祭司とは対照的に律法を日常生活に適用するため拡大解釈し事細かな戒律を作り、これを口伝として伝えていたのです。これが、「昔から受け継いで固く守っていること」なのです。衛生面では洗う必要がない手でも洗っていたという馬鹿げた状態になっていたのです。「市場から帰ったときには、身を清めてから」とあります。既に6章で学びましたが「市場」とは単に物の売買の場所ではなく、会合と交際の場でもあり、宗教的にみて不浄な人と接する可能性があったからです。罪人や徴税人が不潔とされただけではなく、ファリサイ派の人は一般の人を「地の民」と呼び軽蔑し不潔な者とさえ見做していたのです。「杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど」とありますが、これらもまた衛生上の観点からのことではなく、宗教上の観点からのことです。このような彼らにとって、イエスの弟子たちが、「洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」ことはイエスを攻撃する絶好の機会だったので、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」とイエスを非難したのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは口伝に縛られないということです。それに対するイエスの答えが6-13節です。

②形式主義に陥らない

6-8節を見てみましょう。7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』この部分はイザヤ書29章13節からの引用です。開いてみましょう。29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。イエスは彼らの非難に対して、正面から答えたり弁明したりせず、旧約聖書のイザヤ書29章13節の言葉を引用して答えられたのです。彼らの口伝に対してそれが良いのか悪いのかと答えることなく、彼らの基本的な態度の間違いを指摘したのです。彼らは自分たちの行為や態度が宗教的であり信仰的であると自負をしていますが、実は偽善的なのです。イザヤ書29章13節には外面だけで神を礼拝し宗教的な態度をとっていましたが、内心は神から離れ神を中心にしていないイスラエルの民に警告の言葉として記されたものですが、イエスはこの預言の言葉を「ファリサイ派の人々と律法学者たち」に適用されたのです。イエスは彼らの事を「偽善者」であると断罪し、口伝、「人間の言い伝え」を固く守っていることを問題視しているのです。「ファリサイ派の人々と律法学者たち」「昔の人の言い伝え」と言っていますが、イエスは「人間の言い伝え」と言い換えています。守るべきは「人間の言い伝え」ではありません「神の掟」なのです。主イエスは「ファリサイ派の人々と律法学者たち」の質問に答える前に彼らのことを「偽善者」と呼んでいます。この「偽善者」と訳された言葉の原語には「役者」という意味もあります。自分の素顔を見せることなく、仮面を付けるように、自分でない人間を演じる人のことです。ですから、役者は嘘付きの意味でも用いられることがあります。今回この説教の準備をして「偽善者」と訳された言葉の原語には「役者」という意味があることを知ったのですが、「役者」という言葉を聞くと私には忘れられないことがあります。余談ですが、私が学生時代、花の応援団という漫画が流行っていました。応援団のOBの方が、時折練習に姿を見せては、しごきに耐えられない現役の学生に対して「役者やのう」と言ってしごきを続けていました。しごきに音を上げた団員に対し「(バテたりする等の)演技が上手い」という意味が込められています。現在では完全にパワハラ。アウトです。「ファリサイ派の人々と律法学者たち」はちょっと見には敬虔で熱心ですが、律法の真の精神からかけ離れてしまっていたのです。表面的には神を礼拝しながらも、その心は神から遠く離れてしまっていたのです。口伝という人間が作った細かな規則に従い神の掟を無視しているのです。さらに悪いことには、他人を裁くことによって、自分は神に仕えていると思い込んでいたのです。このような背景の中で、イエスはパリサイ人と律法学者たちの関心が、外面的な規則や伝統に偏りすぎていることを指摘し、内面的な純潔こそが重要であると説きます。宗教の形骸化はいつの世でも起こるものです。私たちはどうでしょうか。毎週の礼拝が単なる形式に陥っていまってはいないでしょうか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは形式主義に陥らないということです。

③神の掟である御言葉を何よりも優先する

続く9-13節では神の掟と口伝の関係について、具体的な問題にふれ、「ファリサイ派の人々と律法学者たち」の態度が間違っていることを指摘します。口伝に執着するあまり、結果として神の掟を破壊してしまっているのです。 9,10節を見てみましょう。7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。10節の『父と母を敬え』『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』はそれぞれ、出エジプト記20章12節と出エジプト記21章17節からの引用です。確認をしてみましょう。20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。21:17 自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。主なる神からモーセに授与された十戒は旧約聖書の中心主題であり、ユダヤ人はこれを信仰の基礎としていました。特にファリサイ派の人にとって、十戒は絶対的な教えでした。イエスもモーセの教えがいかに重要であることは良く存じていました。開きませんが、この福音書の10章3節に記されています。また、イエスはファリサイ派の人たちがいかに十戒を重んじていたことも知っていたのです。この点においては、イエスとファリサイ派の人たちとの考え方は完全に一致しおり、何も問題はなかったのです。ところが、実際にはファリサイ派の人たちは、この十戒を破り、神に背く行為をしいていたのです。 11-13節を見てみましょう。7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」「コルバン(Corban)」とあります。新共同訳聖書では「神の供え物」と訳されていますが、「コルバン」はヘブライ語由来の言葉で、口語訳では「供え物」、新改訳では「ささげ物」とやくされています。英語の聖書(NKJV)では、a gift to Godと訳されています。「ファリサイ派の人々と律法学者たち」「コルバン、つまり神への供え物」をすることには熱心であるが、そのことによって、「父または母に対して何もしないで済むのだ」と思い違いをしているのです。具体的には、ある物や財産を神に捧げると宣言することで、その捧げられた物は聖別され、他の目的(たとえば家族の援助など)には使えないとされる慣習がありました。これは、ある人が親の援助を避けるために自分の財産を「コルバン」として神に捧げると宣言することで、親への義務を免れてしまうという抜け穴のような行為をしていたのです。中には神に捧げるいいながら自分のために使っていた人たちもいたのです。「また、これと同じようなことをたくさん行っている。」とありますが、彼らはユダヤ教の律法学者たちが作った細かな規則を巧みに利用して、律法を守らないですむ道を次々に編み出していたのです。これでは正に偽善者であり、役者です。イエスは彼らのこのような行為を批判し、『父と母を敬え』『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』という律法の本質である愛や家族の責任が無視されていると述べています。ところで、神が律法を与えられたのにはどういう目的があったのでしょうか。申命記5章29,33節を開いてみましょう。5:29 どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。 5:33 あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。律法が与えられたのは、イスラエルの民をそれによって縛ることではなく、彼らを祝福し、生きがいのある人生を送らせ、幸福にすることなのです。これが律法の与えられた目的なのです。しかし、「ファリサイ派の人々と律法学者たち」はこのことを忘れてしまい、「神の掟」よりも「人間の戒めを教え」を自分たちに都合の良いように優先させていたのです。このことは主イエスの古代だけではありません。今日の私たちにも問いかけられているのです。私たちはどうでしょうか。御言葉よりも伝統や慣習、人の考えに縛られてはいないでしょうか。勿論、全ての伝統や慣習が悪いわけではありません。しかし、聖書よりも伝統や慣習が優先しているとしたら、それは、主イエスが語られた「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」ということに他ならないのです。「神の掟」である御言葉は何よりも優先します。それに従うとき、私たちはいつでも祝福され、生きがいのある人生を送り、幸福なることが出来るのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは神の掟である御言葉を何よりも優先するということです。

Today’s Takeaways

①口伝に縛られない ②形式主義に陥らない ③神の掟である御言葉を何よりも優先する