説教題:御心を求め、御心から離れない 聖書箇所:マルコによる福音書1章29-39節
◆巡回して宣教する 1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。 ◆重い皮膚病を患っている人をいやす 1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
ハレルヤ!6月の第五主日を迎えました。先週は千葉教区講壇交換礼拝で野田先生に使徒言行録2章37-47節から「心をひとつにして」と題して御言葉を取り次いで頂きました。伝道集会、イベントを再会する私たちにピッタリなメッセージでした。感謝します。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその五回目です。前回のおさらいから始めましょう。1章21-34節を通し、「神の子の権威~恵みを逃がさない信仰~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①イエスの臨在のない会堂は悪霊が住みやすい ②神の子とされたキリスト者には権威がある ③神の恵みは信仰をもって受けとめる でした。今日は続く1章35-45節を通して「御心を求め、御心を行う」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①リトリートの場を持つ
35節から順番に見てまいりましょう。1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。主イエスは。ペトロの姑をいやし、安息日が明け多くの病に苦しむ者を癒されましたが、35節では対照的に群衆から離れた一人で静まっているイエスの姿が記されています。その目的は祈りに専念するためでした。主イエスは地上生活の間良く祈られましたが、マルコによる福音者ではあまりそのことについて記されていません。この箇所はイエスの祈りについて記されている数少ない箇所の一つですが、イエスの祈りの特徴が三つ書かれています。先ず、「朝早くまだ暗いうち」とあるように早朝です。時間的な特徴ともいえます。次が「人里離れた所」とあるように世間の騒音のない静かな場所。場所的な特徴ともいえます。最後が一人です。聖書には一人で祈ったとは記されていませんが、前後の文脈から判断すれば一人で祈っていたことは間違いがありません。恩師の尾山礼二先生は意訳をされ一人と加ええています。1:35それから、イエスは朝まだ暗いうちにおきて、寂しい所へ出て行き、そこで一人、祈っておられた。(現代訳)この三つのことは実は一つなのです。父なる神との深い交わりをするために必要なことなのです。主イエス父なる神との関係について次のように語れました。ヨハネによる福音書5章19節を見てみましょう。5:19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。神の御子である主イエスでさえことある事に父なる神の御心を祈り求めそれに従っています。まして、私たちが御心を求めないで行動をしてもうまくいくはずがないのです。新約聖書学者のウイリアム・バークレー先生は著書の中で、祈らないことは、「我々の資源に神を加える可能性」を無視する、信じがたいほどの愚かな罪と断罪しています。35節の主イエスの祈りは祈りにおける模範ですが、毎日、早朝に静かな場所で一人きりで祈ることはなかなか出来ないと思います。しかし、ときには早朝、静かな場所で一人きりで御心を求めたいものです。「リトリート」(retreat)いう言葉があります。元々は「退却」「後退」という意味ですが、夏休みなどを利用しておこなうキャンプのことをリトリートと呼ぶ場合があります。時にはリトリートに参加し仕事や学校などの日常生活からいったん距離を置き、心身ともにリセットするのも良いと思います。今日、先ず覚えて頂きたいことはリトリートの場を持つということです。
②日々、御心を求める
36,37節を見てみましょう。1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。主イエスが早朝に静かな場所で一人きりで祈っていると、「シモンとその仲間は」イエスを捜しまわり見つけたのです。そして、「みんなが捜しています」と伝えたのです。おそらく、安息日が明け、主イエスが病の方を癒したり悪霊を追い出したりしたことを聞きつけた人々が、自分たちも癒されることを求めていたのでしょう。その問いかけに対する主イエスの答えが38,39節です。 1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。主は今後の活動についてどうすべきかを父なる神に祈り求めていましたが、御心は別の場所に行き宣教をすることでした。主イエスの公生涯、地上での働きはたった三年半という短いものでした。ですから、カファルナウムばかりに滞在することは出来ないのです。「近くのほかの町や村へ行こう。」と自分を探しに来た弟子に告げられた通りです。「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」とありますが、主イエスは自分が天からこの世に来られた目的を語られました。福音を宣べ伝えることです。この福音書の8章31節と10章45節を開いてみましょう。8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」主イエスは自分がユダヤ人たちによって殺され、三日目に復活することをことある事に弟子にかたっていました。開きませんが、このマルコの福音書の9章31節、10章33,34節を読まれてください。そして、38節の言葉通りに主イエスたちは実際に「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」のです。主イエスがこの世に来られた目的は神と人間との関係を正しくするためで、単に病を癒すことではありません。イエスは愛ゆえに多くの癒しを行いましたが、イエスの使命は神と人間との関係を正常な関係にするためです。そのために教え御業を行ったんです。ところで、もし、私たちの人生が後、三年半しかありませんと宣告をされたらどうでしょうか。三年半で何ができるだろうかと思ってしまう方もいるでしょう。三年半とういう年月ではまとまった事をするのにしてはあまりにも短いと思うかもしれません。しかし、主イエスの場合は、そのことは神がご計画をされたことの成就で、イエスは父なる神の御心に従われたことだったのです。主イエスは常に父なる神の御心に従って歩まれていました。ですから、わずか三年半の間にあれだけの御業を行うことが出来たのです。私たち一人一人の人生も父である神がご用意してくださっています。それに従うときに祝福を受けることができるのです。ですから、日々、祈りによって御心を求めることが必要なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは日々、御心を求めるということです。
③御心から離れない
40-45節には重い皮膚病を患った人が癒されたこととその結果が記されています。新共同訳聖書の小見出しは「重い皮膚病を患っている人をいやす」となっています。そもそも癒しについて聖書はどのように記しているのでしょうか。出エジプト記15章26節bを開いてみましょう。わたしはあなたをいやす主である。神が癒し主であることの自己証言です。人間を含め天地万物を創られた神は癒し主でもあるのです。ところで、「重い皮膚病」と訳されたへブル語の原語はツァーラアト(Tzaraath)とい言いますが、長きに渡り、ある病名に誤訳され続けていました。その病気を患っている方にとって大変不快な思いを与えていたという事実があります。誤訳の証拠は、ツァーラアトはレビ記13章47節では布や皮、家の壁の表面がはがれた状態を指す名称としても使われていましたが、誤訳された病気は家の壁などには感染しないからです。40節を見てみましょう。◆重い皮膚病を患っている人をいやす 1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。一人の「重い皮膚病を患っている人」が主イエスのもとにきたことから出来事が始まります。このような人が他人に近づいてくるとは尋常なことではありません。レビ記13章45,46節を見てみましょう。 13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。 13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。律法で禁じられていることを冒してまで主イエスに近寄ったのですから、「重い皮膚病を患っている人」の主イエスに対する切実な求めがあったことがわかります。一体、この「重い皮膚病を患っている人」は主イエスについてどのくらい知っていたのでしょうか。「独りで宿営の外に住まねばならない」状態の人にとって、主イエスについての情報は十分なものではなかったでしょう。藁をもすがる気持ちだったのでしょうか。そうではありません。「重い皮膚病を患っている人」は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と信仰心を持って主イエスの所にきたのです。ここにはただ単に神が全能であるという信仰ではなく、「御心ならば」とあるように主の御心に従うという信仰の表明なのです。真の信仰とは自分の願いを祈り求めることではありません。先ず、御心を求める。そして、たとえ御心が自分の願うことでなくても、それに従うことなのです。この謙遜かつ従順な信仰に対して、主イエスはすぐに答えておられます。41,42節を見てみましょう。1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。「深く憐れんで」とあります。「重い皮膚病」に触ったり触れたりすることは、感染する危険もあるのですが、主イエスは深い憐みの心をもって「手を差し伸べてその人に触れ、よろしい。清くなれ」命じたのです。すると「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」のです。この「深く憐れんで」と訳された言葉の原語の意味は「内臓がよじれるような痛みを伴うほどの思いやり」という意味で、ルカによる福音書の10章に記されている「善いサマリア人の」のたとえでも使われています。10章33節を見てみましょう。10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、「憐れに思い」と訳された部分がそうです。このサマリア人が主イエスご自身であること知ると、主イエスがどんなに憐み深い方であるかがわかります。開きませんが、「深く憐れんで」と訳された原語はマタイによる福音書9章36節でも使われていますので、後程読まれてください。この主イエスの深い憐みが、私たちの身代わりとなり十字架に掛ってくださったのですが、今日の箇所にそれを垣間見ることが出来ます。私たちの肉体は「重い皮膚病」に罹っていないかもしれません。しかし、私たちの心はどうでしょうか。重い病にかかっていないでしょうか。心を探ってみようではありませんか。「その人に触れ」とありますが、主イエスが癒しを行う場合にはこの触れるという行為が随伴していたことを忘れてはいけません。癒しの力が触れた方の中に入り、悪の力を外に追い出すのです。女性がイエスの外衣に触って癒やされるという話がこのマルコによる福音書5章25-34節に記されていましので、後程読まれてください。43-45節を見てみましょう。1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。主イエスは「重い皮膚病」が癒された方に「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と命じました。イエスは「重い皮膚病」の癒しを行ったばかりか配慮もしています。イエスによって「重い皮膚病」は癒されましたが、それだけでは人々との交わりに加わることは出来ないのです。旧約時代の律法によれば、きよめられたことは祭司によって証明されなくてはならず、この祭司の証明によって一般社会に入ることができたのです。このことはレビ記14章に記されていますので読まれてください。新興宗教の特徴は貧、病、苦の解決にあると言われてあいます。貧、病、苦とは貧困、病気、苦の短縮です。しかし、キリスト教はこれらの解決を直接の目的とはしていないのです。「重い皮膚病」だった人が行ったように、主イエスの所に来て御前にひざまずくことが目的です。この時に、主イエスは深く憐れんでくださり手を差し伸ばされるのです。キリスト教は罪を悔い改めて神に従って生きることを目的としているのです。先ほども申し上げましたが、キリストは単に病を癒すためだけにこの世に来られたのではありません。人々を神に帰るための架け橋となるために来られたのです。「重い皮膚病」が癒された方はイエスの命令を守らず、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始め」てしまったのです。よほど嬉しかったのでしょう。それで、「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。」のです。人々にイエスを自分の利益のみによって利用するという思いに至らせ、イエスのキリストとしての本来の使命を行うことの妨げとなるからです。一人静かに次にすべきことを父なる神に祈り求めるためでもあったことでしょう。この「重い皮膚病」の人は主の御もとに近づいて来たときに、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と求めました。そして、それが御心でしたので癒されました。しかし、歓喜のあまり、その後で御心に背いてしまったのです。私たちもちょっとしたことがきっかけで御心から離れてしまう場合があります。常に御心から離れないように気を付けて信仰生活を歩みましょう。今日、最後に覚えて頂きたいことは御心から離れないということです。
Today’s Takeaways ①リトリートの場を持つ ②日々、御心を求める ③御心から離れない
Thinking Time 御心から離れないためには何が必要でしょうか