• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年7月14日主日礼拝

 八街

説教題: 新しいぶどう酒は新しい革袋に~律法から福音へ~ 

聖書箇所:マルコによる福音書2章13-22節

◆レビを弟子にする 2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 ◆断食についての問答 2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。

ハレルヤ!7月の第二主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその七回目です。前回のおさらいから始めましょう。2章1-12節を通し、「永遠に目を向ける~信仰をご覧になる主~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①主イエスは信仰をご覧になる ②永遠に目を向ける ③主イエスには罪を赦す権威がある でした。今日は続く2章13-22節を通して「新しいぶどう酒は新しい革袋に~律法から福音へ~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①罪人を招くために来られた

13,14節から見てまいりましょう。2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。この箇所は主イエスが会堂ではなく湖畔で教えていた時の出来事です。この出来事は1章16-20節に記されている一番初めの四人の弟子(ペトロ、アンドレ、ヤコブ、ヨセフ)の召命に似ており、主イエスの活動の中でも重要な意味を持つものです。「アルファイの子レビ」が召命されたのですが、着目すべきことはこのレビが取税人だったということです。カファルナウム(カペナウム)はガリラヤ湖の北西に位置する交通の要所であり、収税所がありました。ユダヤ人であるレビはそこで取税人として働いていました。いつの時代でも取税人、税金取は歓迎されない存在ですが、当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、同胞からローマ帝国のために税金を取ることは一種の裏切り者のようであり、また、取税人の中には不正をして中間着手をする人もいましたので、取税人は罪びとと同等に忌み嫌われていた存在でした。そんな取税人をイエスが弟子とされたことは、イエスの福音の働きが拡大されたことを意味しており、この福音書の2章17節後半の「罪人を招くためである。」という言葉と結びついています。人が救われるため、主イエスの弟子となるためには職業、身分、人種は関係がないのです。罪びとであることを自覚し主イエスを救い主と告白するだけです。14節の後半に「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。とあるようにこのことも四人の弟子の召命に似ています。「直ぐに」という副詞はありませんが、そのことが読み取れます。15-17節を見てみましょう。2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」「レビの家」とあります。レビが主イエスの弟子とされたことにはイエスとレビとの個人的な関係に留まらず、イエスの活動拠点として「レビの家」「シモンの家」とともに使われているところにも意味があるのです。主イエスが「レビの家」で「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと」いっしょに食事をされていました。どこの国でも食事をともにするということは、歓迎と交わりを表すことです。恩師であり巡回伝道者の中野雄一郎先生は「伝道には10回のコーヒーよりも1回の食事が大事」と言われます。当時、ユダヤにおいては食事を共にするということは重要な意味を持っていました。単なる表面的な歓待や交際の場ではなく、志を同じくする者たちの深い交わりの場だからです。最後の晩餐の場面には、主イエスと弟子たちとの深い交わりが表れています。ですからこのような大事な食事の席を「多くの徴税人や罪人」と一緒にするということは、イエスが尊敬すべき師ではなく、罪びとの仲間になることを意味しているのです。それは、神から与えられた律法を破ることになるのです。「ファリサイ派」の人たちは神の摂理、永遠の生活、復活を信じてはいましたが、律法を守ることに非常に厳格で、他のユダヤ教徒と一線を画していました。彼らは律法を日常生活に当てはめるため細かな規則を作りだしていました。労働は勿論のこと旅行や治癒、調理さえも禁止されていました。そして、この熱心さが彼らの頑固さと誇りとなっていたのです。ですから、「ファリサイ派の律法学者は」イエスの弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問うたのです。この質問に対して主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えたのです。ここには主イエスが語られる福音の本質があります。全ての人は罪人なのです。正しい人は一人もいないのです。ローマの信徒への手紙の3章10節の後半に明記されている通りです。正しい者はいない。一人もいない。しかし、全ての人がそのことを自覚しているわけではありません。特に日本人は罪=犯罪と思っているからです。私の母もそうでした。未信者の時代、妻の美恵子牧師が「お母さん、このままで天国に行けると思う」と問いかけると母は「勿論、いけますよ。悪いことをしていませんからね」と胸をはってどうどうと答えました。イエスは宗教的偏見や社会的差別を徹底的に否定し、人間の真実を鋭く見つめておられたのです。世間から罪人と呼ばれている者のうちに真実があり、社会的に義人とされている者たちのうちに偽善がひそんでいることを語っているのです。「罪人を招くためである。」とは神の恵みの福音の宣言なのです。全ての人間は罪人ですが、この恵みにより罪人が義人にかえられるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは罪人を招くために来られたということです。

②受難は予告されていた

18節以降では話題がかわります。新共同訳聖書の小見出しは◆断食についての問答です。18節を見てみましょう。2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」人は何を基準に物事を考えたり判断をしたりしているのでしょうか。キリスト者が少ない日本では、無意識に伝統的な観念や社会的な常識で物事を決めているように思います。色々な判断基準があると思いますが、当時、「ファリサイ派の人々」はモーセ律法の尊守を絶対化とし、自分たちの物差しで民衆やイエスを測っていたのです。「断食」とあります。元来、「断食」はユダヤの社会において悲しみを表す印でした。ヨエル書1章14節を開いてみましょう。1:14 断食を布告し、聖会を召集し/長老をはじめこの国の民をすべて/あなたたちの神、主の神殿に集め/主に向かって嘆きの叫びをあげよ。ヨエル書の中心主題は「主の日」です。「主の日」は、「主なる神に背いて悪を行う人々とその民族に主の裁きが下り、神の義による支配が確立する日」という意味で用いられます。いなごによる荒廃に備えて断食をして嘆きの叫びをあげよ。とヨエルは語るのです。しかし、次第に断食はこのような考え方から逸脱してしまい、断食を行うこと自体に価値があるように思われるようになりました。当時、断食は年に二回行われていました。贖いの日とエルサレム滅亡記念日の二日です。しかし、ファリサイ派の人々は週に二回断食し、そのことを誇りとさえ思っていたのです。ルカによる福音書18章12節に記されています。 18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』このように「断食」はごくごく普通の宗教的な行事で誰もが疑うことなく行っていました。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々」も断食をしていたのです。ですから、イエスの弟子が断食をしないことに疑念を感じた人々は「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねたのです。民衆からの断食の質問に対して主イエスは三つ例えを用いて答えています。19,20節を見てみましょう。2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。先ず、花婿の例えです。このたとえには二重の意味が記されています。一つは、断食の本来の意味です。先ほども申し上げましたが断食とは元々は悲しみを示す表現だったのです。従って、「花婿が一緒にいるのに」とあるように結婚式のような喜びの日に断食をする必要はありませんし、悲しくもないのに断食を形式的に行うのは無意味です。もう一つは受難の予告です。「花婿が奪い取られる時が来る」とあるように十字架によるイエスの死が暗示されています。イエスはその日がくれば、弟子たちは誰からも強制されることなく、師を失った悲しみで自ら断食をすることになるだろうと語られたのです。イエスは形骸化してしまった断食の本来の意味を問い直し、ご自身の受難のことも暗示されたのです。今日、二番目に覚えて頂きことは受難は予告されていたということです。

③律法と福音は質的に全く異なる

21節を見てみましょう。2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。断食の質問に対して主イエスの二つ目の例えは「古い服」の例えで、三つ目の例えが「ぶどう酒」です。服もぶどう酒も結婚式に必要なものですから、花婿の例えと結びつけ福音の説明のため使われています。古い服の継ぎを真新しい布でしないことの例えと、新しいぶどう酒を古い革袋にいれない例えは同じことを教えています。古い服と古い革袋はユダヤ教の律法主義的な生活態度で、律法を守ることにより天国に行けるという考え方です。一方、新しい布、新しいぶどう酒は主イエスによる救い、福音のことです。主イエスがこの世に来られたことにより、古い律法から新たに福音がもたらされたのです。新約聖書の福音の世界、神の国は旧約聖書の律法の成就として、その延長戦上にありますが、質的に全く異なる新しい世界なのです。文字から御霊へ、戒めからいのちへ、義務・服従から主体的自由へと変わりました。したがって、この新約の恵みの時代に古い律法主義的生活は会うはずがありません。新しい生活様式、ライフスタイルの創造が要求されるのです。福音は律法の延長線上にありますが、古いか新しいかということよりも、質的に全く違うこと、別種の新しさなのです。律法主義に対する福音の新しさと言えます。新しい福音の着物から切り取った布を、律法主義の衣服の破れを繕うための当て布にしても無駄です。両者は合わないばかりか、福音の着物も傷つきます。また、新しいぶどう酒を仕込む場合、搾り立ての若いぶどう汁を、時間がたっている古い皮袋には入れないというのが常識です。それは、若いぶどう汁は発酵作用が強いので、弾力性や伸縮性、柔軟性をなくした古い皮袋を張り裂いてしまうからです。仕込みたてのぶどう酒は、かならず、真新しい若い皮袋に入れなければならないのです。新しいぶどう酒である福音は、聖霊の新しいいのち、爆発的な生命力がみなぎる、若いぶどう酒です。これを古い、律法主義の、生活様式、ライフスタイルの皮袋に入れてはならないのです。福音という若いぶどう酒は、福音信仰による生活様式、ライフスタイルの皮袋に入れなければならないのです。主イエスが語る自由で新しい生き方を古いユダヤ教の中に閉じ込めようとすれば、そのいずれも台無しになってしまうのです。ですから、取税人や罪人と付き合ったり一緒に食事をしたりすると汚れてしまうということにはならないのです。また、熱心に断食や祈りをしなければ天国に行けないというわけではないのです。神の御子である主イエスを信じることによって新しい人間として造り変えられるのです。まったく新しい人間とされるのです。コリントの信徒への手紙二5章17節を開いてみましょう。 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。主イエスを信じることによって救われる、これこそ神の側から私たちに近づいて来てくださる恵みです。ユダヤ人であろうがなかろうが関係がありません。「キリストと結ばれる人」主イエスを救い主と信じて受け入れる人はだれでも救われるのです。未だ主イエスを受け入れていない方がいると思いますが、神が提供して下さる救いを感謝して受け取って頂きたいと思います。主イエスの十字架と復活により律法から福音にかえられたのです。今日、三番目に覚えて頂きことは律法と福音は質的に全く異なるということです。最後に今日の断食についてお話をします。断食については教団教派によりかなり差があります。私が一番初めに行った教会は改革派の教会で、牧師から「断食は祈りに専念した結果の副産物と言える」と習いました。日本語で「寝食を忘れる」と言いますが、これです。私も営業職時代に忙しくて気が付けば夕方まで何も食べていなかったことが何回かありました。また、その牧師から断食は日常の信仰生活ではmay(しても良い)でmust(しなければならない)ではない。」と習いました。次に行った聖霊派の教会は真逆です。先ず断食ありきで、その教会では年末年始にかけて毎年、断食聖会を行っています。私たちが所属している日本ホーリネス教団として断食にかんする公式な見解はありませんので、私の個人的な見解ですが、日常の信仰生活で断食はmay(しても良い)でmust(しなければならない)ではないと思っています。ただ、重大な事項を祈る場合には断食が伴うこともあり得るとは思っています。

Today’s Takeaways

①罪人を招くために来られた ②受難は予告されていた ③律法と福音は質的に全く異なる

Thinking Time 

律法から解放されていますか