説教題:マンネリ化からの脱却 聖書箇所:ヨハネによる福音書5章1-9a節
◆ベトザタの池で病人をいやす 5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。 5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。 5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。 5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」 5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
おはようございます。
前回はガリラヤに戻られたイエス様が、役人の息子をいやす出来事を見てきました。「主が、信仰の成長を願っておられる」と題して、見てきました。
①主が、信仰の成長を願っておられる(一人一人の成長、教会の成長)②信仰を働かせて求め続けよう(試練の中で信仰は成長する、どんな時も勝利の主に信頼しよう)③主の恵みは従う者に注がれる(従っていけるように、主の助けを求めよう)
今朝はそのあとの出来事、ベトザタの池での病人の癒しです。この聖書個所から、神様が私たち一人一人に個人的に何を語ってくださるのか、聖霊様に求めましょう。5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。イエス様はガリラヤに戻り、役人の息子を癒されました。それだけでなく様々な働きをされたことと思いますが、その後、ユダヤの祭りがあるので再びエルサレムに上りました。ユダヤの大きな祭りの時は男性はエルサレムに行くことになっていたようです。 5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。神殿の地図にあるように、羊の門から入ると、そこにベトザタという池がありました。ベトザタとは憐みの家という意味です。その名の通り、そこは多くの病める人々、体の不自由な人々にとって憐みの家でした。今でいうところの癒しスポットで、実際に癒されていたようです。 5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。 5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。その池は時々、天使が来て水を動かし、真っ先に入る者はどんな病でも癒されたようです。迷信のように思えますが、この文章から見ると実際癒されていたようです。このようなうわさが広がり、病んでいる人々にとっては藁をもすがる思いでここに集まってきたのでしょう。 5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。そこに38年間という長い間病気で苦しんでいる人が横たわっていました。オギャ~と生まれた赤ちゃんが38歳になるまでにはなんと長い時間でしょうか。その間病に苦しんでいたということ、普通に考えたらなんと気の毒なことでしょう。みなと同じように青春を楽しむことができない、仕事をしたくてもできない、自立して生きていきたくてもできない、いつも誰かの世話になりながら生きてきたのかもしれません。ベトザタの池に入れば癒されるかもしれないという噂を聞いて、大きな期待をもって、ここにやってきたことでしょう。しかし後の文章で分かるように、水が動いて、病の体を一生懸命動かして池に入ろうとしても、他の人が我先にと入ってしまうので、自分はいつまでたっても癒されない。もしかしたら初めの頃は家族か友人たちが共にいて、池に入ることができるように助けてくれていたかもしれないが、彼らも忙しくやがて助けてくれる人もいなくなったのかもしれません。そのような失望感がずっと続いていたのです。彼の気持ちはどんなだったでしょうか。自分の病を呪い、運命を呪ったこともあったでしょうか。それでもほかに行く当てもなく、やはりいつかはという淡い期待をもってか、ここにとどまっていたのでしょうか。色々と想像が膨らむところです。 5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。イエス様はその男が長い間病で苦しんでいるのを知って、彼に目を留めてくださったのです。イエス様は本当に憐み深いお方です。私たちの苦しみ、心の思いをよく知っていて関わってくださいます。主は「良くなりたいか」と尋ねました。長い間病に苦しんできた男です。具体的な病名は書いてありませんが、自由に体が動かない状態、発熱や体調不良、体の痛みほかにも症状があったかもしおれません。とにかく自由に動けない人に向かって「良くなりたいか」とは、失礼な質問、小ばかにしたような質問に感じます。当然良くなりたいに決まっています。 私たちは時々不用意な言葉で、相手を傷つけてしまうことがありますが、イエス様は先の先まで見通して、その人を本当に生かすための言葉を用いられます。「良くなりたいか」というイエス様の問いかけに、この男は 5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」「良くなりたいか」と問いかけ、自分にかかわってくださるイエス様に対して、いつまでたっても病が治らないことの愚痴とも言い訳とも思えるような答えをしました。「もうあきらめてますよ。 せっかく水が動いても、だれも池に入れてはくれないんだから。 何とかして行こうとしている間に、いつでもほかの人が先に入っちゃうんでね。」(リビングバイブル)「良くなりたい」という切なる思いがあったのに、いつまでたっても良くならない悲しみ、失望感、怒りを感じるときもあったでしょう。皆さんが彼の立場だったらどうでしょうか。。。いつの間にか諦めモードになってしまっている、この男の心をよく知っておられ、イエス様はあえて彼にこのように尋ねたのです。「あなたは治りたいという切なる思いをもってここに来たのだろう。でも長い間、ほかの人が先に入ってしまって悔しい思いをしてきたね。そして今少し諦めかけているように思えるけど、どうなんだい。本当に治りたいと思うのか」マンネリ化してしまったような彼の心に初めの頃の思いを呼び覚ますような問いをしたのです。7節で彼はイエス様に向かって「主よ、」と呼んでいますが、これはイエス様をメシヤと思って呼んだのではありません。ただ尊敬を込めて言った言葉です。しかし彼の心には、自分に目を留めて「良くなりたいか」と問い関わってくださった主の言葉により、消えかかっていた良くなりたいという希望が再び呼び起こされたのだと思います。と同時にこのベトザタの池にとどまっていても治る見込みはない、今までもうすうす感じていたけれども、ほかに当てがないので惰性でここにとどまっていました。そんな彼にイエス様は目を留められたのです。こんな風に話しかけてくれるこのお方に期待してみたい、という思いが出てきたのではないでしょうか。イエス様はそれを感じ取ったのです。感じ取ったというよりも、あえて「良くなりたいか」という問いかけをすることで、この男の惰性で生きているような毎日、マンネリ化した心に、初めの頃のように良くなりたいという希望、期待する心を呼び起こされたのです。5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。38年間、自分の足て立ったことのない男です。歩き方すら忘れてしまっているようなおぼつかない者が、すぐに良くなって床を担いで歩きだしたのです。ハレルヤ まさに神様の御業です。神様には力があるのです。私たちはこの全能の神様を信じているのです。信仰生活を送る私たちの中にも、この病の男と似たようなところはないでしょうか。救われた当初は霊に燃え、主に期待して一生懸命に祈り、主を求めようとしていました。しかしいつの間にか頭だけの信仰となり、自分の常識の枠の中にとどめてしまっているのではないでしょうか。これは祈ってもどうせ無理だろうと言って、祈ることを、主に信頼し期待することを止めてしまっていることはないでしょうか。それは全世界の創造主であり全能者で、今も生きて働かれる偉大な神様であることを忘れて、神様をちっぽけなお方とにしてしまい、初めから無理だと決めてしまっているところはないでしょうか。主は私たち一人一人の心を知って、「良くなりたいか」と聞いてくださいます。もし今、自分の信仰は何かマンネリ化してしまったような気がする、もっと生き生きとした信仰が欲しいと願うのであれば、この男がそうであったように、イエス様に期待することです。この世の知識や過去の経験から積み上げられた常識を拠り所とするのではなく、本当に主に期待しましょう。しかし同時に不安や恐れも出てきます。本当に大丈夫だろうか。私たちが主に信頼し、信仰をもって従っていこうとするときに邪魔に入るのが悪魔、サタンです。「それは無理だ。常識から外れている」とい不安をあおります。もちろん無謀なことをすることを主は喜びません。主の御心なのか、しっかりと見極める必要があります。そのために主に聞くことです。主との交わりのために時間を取りましょう。【新共同訳】詩 46:11 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
【口語訳】詩 46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
【新改訳改訂第3版】詩 46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
3つの訳を並べましたが、すべて「私、神を知れ」とあります。まだイエス様を信じていない方は何よりも神様を知ることです。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神様が、この世界を作り、私たち人間を造り、ご計画をもって歴史を導いておられる神様なのです。この神様を信じることによって、神様につながり、神様からの命、恵みが流れてきます。ヨハネ4:13わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ7:37「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」私たちは、この神様から流れてくるいのちの水を飲むことによって、潤され、豊かな命にあふれ、生き生きとした歩みをしていくことができるわけです。ですからまだ信じておられない方は、信じることができますように。既に信じているクリスチャンも、この命の水を十分に飲みましょう。信仰のパイプが詰まっていると流れてきません。神様をちっぽけなお方にしてしまっていたことを悔い改めて、本当の神様を知ることです。どれほど偉大で、愛に満ちたお方であるか、と同時に裁き主である、畏れ多いお方であることを知ることです。そのためには静まること、仕事を止めて、自分の力ですることを止めて、時間を取って神様を知ることです。十字架の主を見上げましょう。主はこれほど愛してくださっています。感謝をささげ、自分の心の中のもやもやを打ち明けましょう。思い煩うのはやめましょう。そこから良いものは生まれてきません。それではなぜ心配しなくてよいのでしょうか、神様が万事を益としてくださるからです。本当に願うことを正直に申し上げ、神のみ言葉を求め、祈りましょう。フィリピ 4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。思い煩いを止めて、自分は本当は何を求めているのか、自分の心を探り、神様の御心を求め(その際その目標は自分の欲のためではない、神の栄光のためのものかどうか、自分の心を探ってみましょう)、具体的な目標を設定し、それを神様に求めましょう。毎日同じことの繰り返しでも、何のためにやっているのか、原点に戻り目的を明確にしていけば惰性に流されないですね。
フィリピ 4:9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。主との交わりの中で示されたことがあればそれを、聖霊の助けを求めながら実行することです。臨在の主を意識し、主と共に歩み、主と共に働くことができるように祈りましょう。きっと知らず知らずのうちに、生き生きとした歩みに変えられていくことでしょう。それぞれの生活や健康のこと、お一人お一人の心の願い、祈っている家族の救い、そして私たちの教会の将来についても、神様はすべてを最善に導いてくださると信じ、主に期待していきましょう。何度も言いますが、信仰を働かせて主に従おうとするときに邪魔をするのは悪魔、サタンです。それは一致することを妨害し、仲間割れを引き起こし、何よりも私たちの考え、思考の中に悪い思い、相手を裁く思い、無理だ、だめだと思わせる不信仰、そのような種をまいて、少しずつ神の御心から外れていくようにさせるのです。神の御心は私たちが互いに愛し合うことです。そして神の家族として一致を保ち、それぞれの賜物を生かして仕えあい、キリストのみ体である教会を建て上げることです。ですから時々、健康診断を受けるように、時間を取って主のみ前に静まること、リトリートや聖会等に参加することも大切です。時間や、お金、健康の都合がつけば旅行に出ることも良いと思います。日常を離れ、今までの歩みを振り返り、主が自分に何を求めておられるのか、主に喜んでいただける歩みを求めることも良いでしょう。そうやってさらに主に近づけるようになりたいです。マンネリ化からの脱却し、生き生きとした信仰の歩みをしていけるように、静まって主を求め、主に従っていきましょう。信仰を働かせ主に期待していきたいです。
ポイント ①静まって主を求める(悔い改め、感謝し、心を注ぎだし、求める)②何のためにするのか、具体的な目標を明確にする(神の栄光のため)③示されたことを実行する
考えてみよう 生き生きとした信仰生活を送っているだろうか