説教題:安息日に癒しをされた真の理由 聖書箇所:マルコによる福音書2章23節-3章6節
◆安息日に麦の穂を摘む 2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」◆手の萎えた人をいやす 3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
ハレルヤ!7月の第四主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその八回目です。前回のおさらいから始めましょう。2章1-12節を通し、「新しいぶどう酒は新しい革袋に~律法から福音に~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①罪人を招くために来られた ②受難は予告されていた ③律法と福音は質的に全く異なる でした。今日は続く2章13-22節を通して「安息日に癒しをされた真の理由」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①アディアフォラを覚える
23,24節から順番に見てまいりましょう。2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。安息日とあります。「ファリサイ派の人々」は律法を厳格に守ることが神への忠誠と思っていました。しかし、彼らが厳格に順守していたものは旧約聖書の律法そのものではありません。彼らは律法を日常生活に当てはめるため細かな規則を作りだしていました。安息日にしてはならないことについて三十九ヵ条の禁止条項を作り、その各条項のために二百三十四個の行為が禁止されていたのです。この条項によりますと、「二針縫ってはいけない。二文字書いてはいけない」など読んでいて笑わざるを得ないものもあります。穂を摘むことは刈入れになり脱穀に当たるのです。ですから、「ファリサイ派の人々」は「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と主イエスに問うたのです。聖書を教える教師であるイエスが弟子たちに律法違反をさせているのが問題だというのです。ところで麦の穂の刈入れについて聖書はどう教えているでしょうか。申命記23章26節を開いてみましょう。23:26 隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。この箇所は神の愛、人道的立場にたった見解であることがわかります。労働にあたるとか安息日にしてもよいかという観点から述べられているものではありませんが、「手で穂を摘んでもよい」とあります。しかし、「ファリサイ派の人々」はこれを脱穀の仕事と曲解してしまったのです。「ファリサイ派の人々」は安息日の元々の意味を考えようとせず、ただそれを形式的に守ることだけに固執していたのです。彼らは自分たちの信条を絶対視としていました。誤った信条主義と戒律主義に陥ってしまっていて、その誤りに気付くことなく、主イエスやイエスの弟子たちの行為を批判していたのです。さて、私たちはどうでしょうか。「ファリサイ派の人々」のように自分の考え方が絶対正しいと思い人を非難したり裁いてしまったりしてはいないでしょう。以前にもお話ししましたが、アディアフォラ(ギリシア語: ἀδιάφορα、無関心なもの)という言葉があります。元々はストア派の学者によって形成された哲学の概念で、善でも、悪でもなく、命じられてもおらず、禁じられてもいないことです。聖書が明確に命じていることについてはすべてのクリスチャンが従う義務があります。その代表的な例が三位一体の教理です。三位一体を否定することは異端です。一方、聖書がはっきりと命じていないことはアディアフォラです。その代表が嗜好品です。極端な例ですが、コーヒーを飲むことを良しとしない群れもあります。嗜好品に対して自分なりの理解を持つことは良いことですが、そのことを絶対化し、それを人に押し付けたり裁いたりすべきではないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはアディアフォラを覚えるということです。
②安息日は人間のために設けられた
この「ファリサイ派の人々」の非難に対する主イエスの答えが25節以降に記されています。25,26節を見てみましょう。2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」「一度も読んだことがないのか。」とあります。イエスはサムエル記下21章に記されているダビデの故事を挙げています。ダビデがサウル王に命を狙われて、逃げ回っていた時に祭司アヒメレクの所に行き、そこで備えのパンをもらって食べた出来事です。備えのパンというのは神の御前に備えられている12個のパンのことで、12個のパンはイスラエルの十二部族を表しています。そのパンは一周間ごとに新しいパンと取り替えていました。そして古いパンは祭司しか食べることが許されていなかったのです。ところが、ダビデがサウル王に命を狙われ逃げ回り空腹だったので、祭司アヒメレルに頼んでそのパンを貰ってたべたのです。マルコは「アビアタルが大祭司であったとき」と記していますが、サムエル記下21章2節を開いてみましょう。 21:2 ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」引用元はアヒメレクで、アヒメレクはアビアタルの父のですので、マルコの書き間違えと思われます。ところで、イエスは何故、律法を犯してもダビデは許されたというのでしょうか。主イエスと「ファリサイ派の人々」との安息日、律法に対する解釈の違いがあります。27,28節です。2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」律法は人のためにあることを強調しました。これは安息日に対する、ひいては律法全体に対するイエスの基本的な認識を表しており、「ファリサイ派の人々」への回答です。そもそも安息日とは人間のために設けられた制度であり、人間がその制度に隷属するのであれば本末転倒としか言いようがありません。安息日は人間が人間らしく生きるために定められた日であり、神と交わり神を礼拝するために設けられた日なのです。「人のために」とありますが、これを人間中心の意味と解釈をしてはいけません。安息日が人間のためだからと言って、何をしても良いというわけではありません。神のために正しく安息日を過ごすことが求められているのです。神に造られた被造物としての相応しい生き方をし、神の栄光を表すのです。究極的に言えば安息日とは神の栄光をあらわすために存在をしているのです。6日働き7日目に休む安息日は、人間の労働は神を賛美することが目的であることを示すものなのです。また安息日は自分だけのものではありません。申命記は安息日についても書かれていますが、奴隷や家畜さえも休ませなければならないと記されています。自分のために働いてくれるものをゆっくり休ませる時でもあるのです。開きませんが申命記5章12-15節を読まれてください。安息日のない社会は災いです。私は昭和58年に社会人となったのですが、未だ男女雇用機会均等法も無く、女子社員は交代で朝早く来て、机を拭いたり、灰皿を洗って机に置いたりしていました。今で言うパワハラが当たりまえの時代でした。戦時中の月月火水木金木とまでは言いませんが、夜討ち朝駆け、休日返上も当たり前の時代でした。その後しばらくして過労死や過労自殺という言葉が生まれたことを記憶しています。今日、二番目に覚えて頂きたいことは安息日は人間のために設けられたということです。
③使命を遂行するためにこの御業を行った
「人の子は安息日の主でもある」とありますが、人の子とはイエスご自身のことです。安息日は人間のために制定されたものですが、安息日の主(あるじ)はイエス・キリストです。当然のことですが、イエスが安息日の諸規定に縛られることはありません。イエスはメシアとして人間を救うお方であり、安息日も主イエスの意思に従って適用されなければならないのです。安息日に癒しをされたことは単なる偶然ではなく意図的にされたことが読み取れます。3:1,2節を見てみましょう。3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。「片手の萎えた人がいた」とありますが、「片手の不自由な人」の意味で解釈をすると良いです。3章1-7節の小見出しには「◆手の萎えた人をいやす」とありますが、話の中心は奇跡、癒しではなく安息日の問題で2章23-28節の続きです。「人々は」とありますが、原語では「彼らは」ですので、文脈から判断すれば「ファリサイ派の人々」のことです。「ファリサイ派の人々」は彼らのように安息日を守らない「イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」のです。彼らが会堂に行ったのは、礼拝を捧げるためではなく、主イエスが、安息日に片手の不自由な人を癒すかどうか、主イエスの行動をじっと見張っていたのです。さて、私たちはどうでしょうか。「ファリサイ派の人々」のようになっていませんか。主日礼拝を真心から捧げしているでしょうか。誰かの行動をじっと見張ってはいませんか。司会者、賛美奉仕者、その他の奉仕者、周りの方の言動ばかりに目が向いてしまってはいないでしょうか。「ファリサイ派の人々」の第一の間違いは「イエスを訴えようと思って」いたことです。彼らは最初からイエスを訴えて葬り去ることを考えていたのです。ユダヤ人の議会であるサンヘンドリンに告発する機会を狙っていたのです。彼らは主イエスのガリラヤ宣教の始めから、イエスの教えと行動を快く思っていませんでした。断食や安息日に対する言動から、イエスを許すことのできない存在と思っていたのです。宗教的な憎悪と言えます。3,4節を見てみましょう。3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。主イエスは「ファリサイ派の人々」がご自分を陥れるために一挙手一投足を見張っているのをご存じでした。そして、そのことに敢えて挑戦するかのように片手の不自由な人に「真ん中に立ちなさい」と言われたのです。当時、身体に障害のある方は、社会の片隅で生きていました。主イエスは会堂の片隅にいたと思われるこの片手の不自由な人を、皆の真ん中に出てこさせました。それは誰にもはばかることなく自由に生きることができるようになるためです。続いて、主イエスは「ファリサイ派の人々」に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と問うたのです。旧約聖書の律法には、安息日に病を癒してならないとの記述はありません。しかし、当時のユダヤ教の教えでは、生命の危機にある重篤な場合に限られていましたが、命を救うということは善を行うことに他ならないし、殺すということは悪を行うことに他ならないのです。イエスはこの言葉をもって「ファリサイ派の人々」をジレンマに陥らせ、「ファリサイ派の人々」は善を行うことが良いことだと認めざるをえなかったのです。善とは神が造られた目的に従って行動をすることなのです。5,6節を見てみましょう。3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。主イエスの問いかけに「ファリサイ派の人々」は黙り込んでしまいましたが、それだけではありません。心を頑なにしてしまったのです。主は「ファリサイ派の人々」の「かたくなな心を悲しみながら」癒しの御業を行ったのです。しかし、「ファリサイ派の人々」は主イエスの教えに耳を貸すことなく「ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」のです。ヘロデ派とは、ヘロデ党とも言い、ガリラヤの国王であったヘロド・アンテパスを支持しる者たちによって作られた政治的党派です。「ファリサイ派の人々」はユダヤ教の純粋さを追求する人たちですので両者は犬猿の仲でした。しかし、それにも拘わらず、主イエスを抹殺することにおいては共同戦線をはったのです。「ファリサイ派の人々」は教理的に対立するサドカイ派とも手をにぎったことが、マタイによる福音書16章1節に記されていますので、後程読まれてください。「ファリサイ派の人々」のイエスを憎む心が、いかに激しかったのかを物語っています。主イエスはこの会堂で、片手の不自由な人を癒せば、やがて殺されることを承知の上で御業を行いました。それは単に安息日に人を癒すかどうかの問題ではありません。律法を守ることによって救われるという考え方、善行を積むことにより天国にいけるという考え方を否定し、やがて十字架にかかり、この十字架による福音を信じることしか救いがないことを身を挺して示されたのです。主イエスはご自分の使命を遂行するためにこの御業を行ったのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは使命を遂行するために癒しを行ったということです。これが安息日に癒しをされた真の理由です。
Today’s Takeaways ①アディアフォラを覚える ②安息日は人間のために設けられた ③使命を遂行するために癒しを行った
Thinking Time みだりやたらに人を裁いていませんか