説教題: 永遠に目を向ける~信仰をご覧になる主~ 聖書箇所:マルコによる福音書2章1-12節
◆中風(ちゅうぶ)の人をいやす 2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。 2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
ハレルヤ!7月の第一主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその六回目です。前回のおさらいから始めましょう。1章35-45節を通し、「御心を求め、御心から離れない」と題して三つのことを中心にお話をしました。①リトリートの場を持つ ②日々、御心を求める ③御心から離れない でした。今日は続く2章1-12節を通して「永遠に目を向ける~信仰をご覧になる主~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①主イエスは信仰をご覧になる
1,2節から順番に見てまいりましょう。2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、「再びカファルナウムに来られると」とあります。主イエスはカファルナウムを始めガリラヤの各地で多くの御業、奇跡を行ったのち、カファルナウムに戻ってきたのです。「家」とあります。誰の家であるはわかりませんが、恐らくペトロの家と思われます。「家におられることが知れ渡り、2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」とあります。主イエスは数々の御業を行いカファルナウム中で評判になっていました。そのイエスが帰ってきたことを聞いた非常に多くの方が主イエスが滞在している家に来ていたのです。続いて「イエスが御言葉を語っておられると」とあります。イエスは会堂で教えを宣べていました。開きませんが、このマルコによる福音書の1章39節に記されています。そして、イエスは会堂だけでなく、普通の家でも語られたのです。マルコによる福音書1章15節の御言葉を語られていたと思います。開いてみましょう。1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。主イエスのメッセージの中心は「悔い改め」を通しての罪の赦しなのです。3,4節を見てみましょう。 2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。 2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスが御言葉を語っているところに「四人の男が中風の人を運んで来た」のですが、家の中は人がいっぱいで入ることができません。そこで、この四人の男は家の屋根に上がり、強引にも屋根を剥がし穴をあけ、中風の人を床に寝かせたまま、つりおろしたのです。どうしてこんなことが可能なのでしょうか。それは、当時のユダヤの家は、周りを石で作り、屋根は木と枝を何本も重ね、その上に泥をこねたものを塗り隙間を埋めていたのです。ですから、「屋根をはがして穴をあけ」ること自体はそう難しくありませんでした。しかし、屋根まで床に寝たままの「中風の人」を持ち上げることには大きな障害があったと思います。目的を達成するための不屈の精神をもっていたのです。言い換えれば主イエスに対する強健な信仰です。5節を見てみましょう。2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。屋根から人がつり降ろされる。こんなことが、イエスを中心とし、すし詰めの状態のところに起これば、罵声や怒号が飛び交っていいたことでしょう。しかし、聖書にはその記述がありません。それは、そのようなことがなかったからというよりも、神の霊はマルコに別に視点を注がせせているからです。「イエスはその人たちの信仰を見て」とある通り、その人たちの信仰がこの箇所のポイントなのです。怒号があったとしたら、きっとこのようなものでしたでしょう。「バカヤロー何してるんだ」、「うるせい。俺たちは何が何でもこの男をイエス様に観てもらいたいんだ。イエス様に診てもらえば必ず治るんだ。イエス様には不可能なことはないんだ」でしょう。四人の男は主イエスに対する絶対的な信仰をもって「中風」の男を連れてきたのです。それゆえ乱暴で非常識ともいえる行動をしてしまったのですが、主イエスは四人の男と中風の人の非常識な行動よりも信仰を重んじたのです。このことに着目して記事が書かれているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは主イエスは信仰をご覧になるということです。
②永遠に目を向ける
そして、主イエスは『中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。』のです。中風の男も彼を担いできた四人の男も中風が癒されることを望んで来ていたのです。彼らは別に罪の赦しを求めて来ていたのではなかったのです。それなのにどうして主イエスはこのようなことを言われたのでしょうか。病と罪の関係を考えてみましょう。時々、全ての病が罪の結果と思われている方がいますが、そうではないことがヨハネによる福音書9章1-節からわかります。開いてみましょう。9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。ですから、主イエスは中風の原因がこの男の犯した罪の結果という意味で「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのではありません。主イエスのお言葉の真意は、「あなたにとって一番重要なことは、中風が癒されることよりも罪の赦しである」ということです。この主イエスのお言葉は、律法学者たちの無知と不信仰の目を開くためのものでもあったのです。この世の人は、病などの問題に直面し、それが解決するとそれで終わりと考えます。しかし、それで終わりではありません。我々の肉体は必ず滅びるのです。そして、肉体の死後の世界、永遠の世界があることを決して忘れてはならないのです。このことを主イエスははっきりと明言されたのです。それは神の御子である主イエスの権威によって行われたのでした。今日の箇所を含め四福音書には苦しむ者、病める者が主イエスのもとに来て癒されたことが多数記されています。今日、さかんに癒しの集会をされている群れがあります。嘗て、私たちが所属していた教会もそうでした。これはこれで未信者への伝道になりますので良いことではあるのですが、キリスト教の中心はこの世のことではなく、罪が赦され天国での永遠の命であることを忘れてはならないのです。もう一つこの箇所から大事なことがわかります。「子よ、」という呼びかけです。「男よ」ではありません。神の権威をもつ御子は、既にこの中風の男が神の子であり、神の家族の一員にされていることを前提に「あなたの罪は赦される」と言われたのです。今日、二番目に覚えて頂きことは永遠に目を向けるということです。
③主イエスは罪を赦す権威がある
6,7節を見てみましょう。2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」「ところが」とあります。そこに居合わせた律法学者には、このこと、神の御子である主イエスの権威によって行われたことがわからなかったのです。彼らは主イエスのことをただの人間だと思っていたのです。「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と記されている通りです。当時、「律法学者」には主イエスは人間の子であり、同時に神のひとり子であることが律法学者たちには理解が出来なかったのです。しかし、今日、十字架が私たちの罪の贖いであったことが理解できているので、「あなたの罪は赦される」とのお言葉が心から胸に響くと思います。8,9節を見てみましょう。2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の心の中をも見通すことが出来る神の御子である主イエスは律法学者たちの心を見抜いて、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。といわれたのです。罪を赦すことの宣言と、病の癒しとどちらがやさしいかという質問を律法学者たちに投げかけたのです。罪の赦しは神にしか出来ませんから、人間には不可能です。しかし、病の癒しは元来は神の御業ですが、神は人間を通しておこなう場合がありますので、人間にも可能な場合があるのです。聖書・キリスト教を理解する上で二つの極めて重要な言葉があります。「救われる」と「罪」です。交通事故に遭いそうになり間一髪で救われた等と言いますが、聖書・キリスト教で救われるというのは単に難儀を逃れるという意味ではありません。永遠の刑罰からの解放を意味するのです。一般的に罪と言いますと犯罪のことを思い浮かべると思いますが、聖書・キリスト教の罪とは悪い思い、悪口など悪い心からくる行動です。英語では明確に使い分けています。犯罪はCrime 宗教上の罪はSinと明確に区別しています。動詞はどちらもcommit でcommit a crime. Commit a sin.と言います。救いとは一言で言うと罪が赦されていることです。罪とは神を神としないことと言えます。そして、神を神としないことから生じるあらゆる悪しき思いと行為なのです。この福音書の 1章4節を開いてみましょう。1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。先ほども申し上げましたが、主イエスのメッセージの中心は「悔い改め」を通しての罪の赦しで、バプテスマのヨハネもメッセージの中心は「悔い改め」を通しての罪の赦しです。明治から大正にかけて活躍をされた内村鑑三先生の晩年の最晩年の祈りは「どうか神様、イエス・キリストによって私の罪を赦してください。」というそれだけの簡単な祈りだったと言われています。時には涙を流して祈られたそうです。内村鑑三先生の弟子で元東京大学総長の矢内原忠雄先生は著書「内村鑑三とともに」の中で、次のように述べています。「内村の七十年の生涯を一貫して流れていたもの、最後の最後まで彼の心にいちばん生きていたものは、自分の罪を赦してくださいという祈りであった。10-12節を見てみましょう。2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。主イエスは律法学者の無知に対して「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と思い癒しの御業を行いました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。とある通りです。中風の人が癒されて歩けるようになるということは、罪の赦しを宣言する権威をもっておられる神の御子にとっては何でもないことなのです。その神の御子の権威をもっておられるということを中風の男を癒すことで律法学者たちに示そうとしたのです。今日の箇所の出来事は病の癒しよりももっと重要な罪の赦し、そしてその権威が主イエスにあることを物語っているのです。「神を賛美した」とあります。群衆の驚きは神への賛美に変わったのです。主イエスは奇跡を通してご自身が救い主、メシアであることを示され、それを目撃した人々は神を褒め称えるようになったのです。主イエスの御業は、最後に神への賛美にたどりつくのです。中風の男への癒しの奇跡は、イエスの罪を赦す権威があることを明らかにし、神に対する賛美を生み出して終わっています。今日、最後に覚えて頂きことは主イエスは罪を赦す権威があるということです。
Today’s Takeaways ①主イエスは信仰をご覧になる ②永遠に目を向ける ③主イエスは罪を赦す権威がある
Thinking Time 日々、罪の赦しを請うているでしょうか