説教題:主イエスの弟子~選ばれた仲間~ 聖書箇所:マルコによる福音書3章7-19節
◆湖の岸辺の群衆 3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。◆十二人を選ぶ 3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
ハレルヤ!8月の第二主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその9回目です。前回のおさらいから始めましょう。2章23節-3章6節から「安息日に癒しをされた真の理由」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①アディアフォラを覚える(嗜好品など聖書に明確に記されていない物事) ②安息日は人間のために設けられた (人間が安息日に隷属してら本末転倒)③使命を遂行するために癒しを行った (十字架刑にかかって三日目に復活されること)でした。今日は続く3章7-19節を通して「主イエスの弟子~選ばれた仲間~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①主は弟子を訓練される
7,8節から順番に見てまいりましょう。3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。「湖の方へ立ち去られた」とあります、前回、学びましたが、「ファリサイ派の人々」が主イエスを抹殺することにおいて犬猿の仲であったヘロデ派、ヘロデ党と手を組んだのです。このことを知った主は弟子たちと「湖の方へ立ち去られた」のです。しかし、主イエスの癒し、奇跡の御業の噂はかなりの早さで広範囲に及んでいました。人々は「ガリラヤ」だけではなく、「ユダヤ、エルサレム」、ユダヤの南の「イドマヤ、ヨルダン川の向こう側」、さらにシリアの「ティルスやシドンの辺り」からもぞくぞくと集まって来たのです。9,10節を見てみましょう。3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。主イエスと弟子たちはせっかく、「湖の方へ立ち去られた」のですが、そこにも「病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」ので、「イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた」のです。何故、主イエスは「病気に悩む人たち」の要望に応えることをなさらなかったのでしょうか。せっかくの伝道の機会をみすみす逃してしまうことになると思うかもしれません。しかし、主イエスには地上生活において時間的な制限がありました。限られた時間の中で父なる神から与えられた使命を果たさなければならなかったのです。それは、全人類の罪の身代わりとして十字架に掛り三日後に復活されること。そして、そのことを信じる人には永遠の命が与えられるという福音をもたらすためなのです。以前にも主イエスは多くの病人や悪霊に取りつかれた人たちがイエスのところに来られた時、一人で寂しい場所に行って祈られたことがありました。この福音書の1章29-39節に記されています。しかし、今回は一人で退いたのではありません。弟子たちも一緒だったのです。それは、この限られた時間の中で、ご自身の使命を果たすとともに、しっかりと弟子の訓練をしておく必要があったからです。「弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。」とありますが、とても大切なことが読み取れます。主イエスは「群衆に押しつぶされないため」、ご自身で御業を行いませんでした。敢えて御業を行うことなく、弟子たちに身を委ねたのです。弟子を訓練するためのことなのです。後程、お話をしますが、十二弟子を選ばれたのもそのためです。今日、先ず覚えて頂きたいことは主は弟子を訓練されるということです。
②弟子の使命は宣教
11,12節を見てみましょう。3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。汚れた霊ども、悪霊は主をご覧になるとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫びました。一見、これは主イエスに対する信仰告白、信仰からくる行為とも思えますが、そうではありません。悪霊どもは主イエスがどんなお方なのかを知っていました。主イエスが神の御子としての権威をもっていることを知っていたのです。しかし、主イエスを知っていることと主イエスに従うこととは全くの別のことなのです。悪霊どもがひれ伏したのは主イエスの神の権威の前にひれ伏せざるをえなかったという見せかけのものだったのです。そんな悪霊どもに対して、「自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」のです。同様のことが1章34節に記されていました。確認をしてみましょう。1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。これらを悪霊に命じた理由ですが、主イエスが真のメシアであると人々に理解させるには時期尚早だったのです。単に奇跡をおこなうものと誤解されてしまう可能性があったのです。また、イエスの御業が悪霊によって宣伝されたら迷惑千万とも考えられます。13節を並行箇所のルカによる福音書6章12,13節と一緒に見てみましょう。3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。ルカ 6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。 6:13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。十二弟子の選定は、第一に神の家族、イエスを中心とする共同体の形成を意味しており、教会形成のモデルとなりました。主イエスは、あらゆる人々を招くためにこの世にお生まれになったのですが、十二弟子を選ぶことには慎重であり、条件を付けられました。「これと思う人々です」、口語訳聖書では「みこころにかなった者たち」と訳されています。イエスは父なる神へ朝までの祈りを通して、「これと思う人々」、「みこころにかなった者たち」を選ばれたのです。神の側からの選びの意思があり、これに応じる人間側の服従です。ところで、十二という数字は偶然ではありません。十二はイスラエルの部族の数であり、モーセの選んだ族長の数であって神の民の代表をする象徴的な意味があるのです。開きませんが民数記1章を読まれてください。十二弟子は神の民の共同体として主イエスの「そば」におり、イエスと交わりイエスから訓練を受けなければならなかったのです。寝食を共にしながら、十二人を教育し訓練をするのです。ともに宣教の旅を続けながら彼らを教え、訓練されたのです。これは、教育の原点であり、訓練の本質です。私たちのこの世での人生もいつまでも続くわけではありません。そして、主から与えられた使命があります。その使命を果すためには、日々の生活で優先順位をつける必要があります。何を最優先にしなければならないかを祈り、主イエスに訓練をして頂く必要があるのです。十二弟子の具体的な使命が続く14,15節に記されています。14,15節を見てみましょう。3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。「使徒と名付けられた」とあります。「使徒」というと何かもの凄い権威を持っている人というように思われるかもしれませんが、元々の意味は「使命を持って遣わされた人」という意味ですので、派遣なくて使徒とは言えません。主イエス・キリストから使命を与えられ宣教の場に派遣される人々とのことです。そして、ここには二つの使命が記されています。一つ目の使命は「宣教」です。イエスは、自分の活動を十二弟子たちに継承させて、教会を通じて、再臨の時まで、主イエスの業が行われ続けることを計画されていたのです。イエスの働きはその後、十に弟子を通して世界的にも歴史的にも大きく広がり、今日にまで至っているのです。当時から見れば地の果てともいえる日本にも福音は伝わりました。キリスト教徒は2021年の時点の世界の総人口73億人のうち、キリスト教徒は23億人で人口比は32%を占めています。世界で最も信徒数が多い宗教です。わずか12名の弟子によってスタートしたことを思うと、今更ながらイエスの訓練が良かったのでしょう。「宣教」の実が結んだのです。日本でも、芸の道や職人の世界においては体で覚えさせることが多くありました。弟子は師匠の一挙一動から多くのことを学んだのです。さて、私たちはどうでしょうか。主なるキリストにピッタリ寄り添って信仰の訓練をしているでしょうか。今、心を探ってみようではありませんか。二つ目の使命は「悪霊追い出し」でした。悪霊、汚れた霊の追放はイエスの宣教活動の中でも特に重要な働きの一つでした。悪霊に苦しむ人たちが多くいたからでもありますが、それ以上に悪霊こそが、人間の悲惨や不幸の原因であることをイエスが知っていたからです。ですから、イエスは十に弟子にたちにも悪霊を追い出す権威を与え、彼らの宣教によって、御国の到来をより多くの人々に告げようとしたのです。この二つの使命は実のところ一つです。悪霊追い出しは宣教のための重要な手段なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは弟子の使命は宣教ということです。
③選ばれて弟子となっている
16-19節を見てみましょう。3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。ここには十二使徒の名前が記されていますが、彼らは力も弱さも持ち合わせた普通の人間でした。特別な資格もなく、富んでいるわけでもなく、特別の社会的な地位もありません。また、彼らの中には動揺しやすく。激情的で、懐疑的で、人を出し抜こうとするずるささえ持っていました。しかし、他方では、思慮深く、仕事が上手で、機敏な人たちでもありました。マタイは取税人でした。取税人はローマ政府側に立ち、同胞から税を取り立て、またそのお金を着服するなどして罪人と同様に忌み嫌われていました。シモンは熱心党員です。熱心党員は独立国家を目指す正反対の政治的立場にありました。ペトロは考えるよりも先に行動をするタイプです。ヨハネによる福音書18:3-11節には ペトロが剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としたことが記されています。ヤコブとヨハネの兄弟は「雷の子ら」という名を付けられたほど短気でした。フィリポは物事を冷静に判断し任務を果たします。トマスは懐疑論者のようでした。復活された主イエスを信じようとしませんでした。社会的な地位もさまざまです。漁師もいれば、取税人もおり、熱心党員もいました。また、シモン(ペトロ)とアンドレ、ヤコブとヨハネのように兄弟で使徒に選ばれたものもいました。並行箇所のルカによる福音書6章14-16節を見てみましょう。ルカ6:14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、6:15 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、 6:16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。ルカには「タダイ」の名前記載はなくかわりに「ヤコブの子ユダ」とありますが、同一人物です。伝承として、「裏切り者となったイスカリオテのユダ」との同性を嫌って「タダイ」を名乗ったと言われています。様々な個性をもった十二人ですが、祈りによって多くの弟子の中からこの十二人が選ばれたことを忘れてはいきません。ある聖書学者は12弟子のことを「あたかも、人間の性格の万華鏡ようだ」と言いました。十二弟子は、遣わされて福音を宣べ伝えることになります。主のご在世中にも、彼らは派遣されましたが、本格的な派遣は、宣教の大命令が発せられたあと、ペンテコステの日に聖霊を受けてからでした。私たちは十二使徒ではありませんが、主イエスによって選ばれたキリストの弟子なのです。新約聖書学者のウイリアム・バークレー先生は著書のなかで今日の聖書箇所に「選ばれた仲間」とタイトルを付けて解説をしています。今日の副題はここからです。すべての信仰者は御国の建設のための賜物が与えられています。人はそれぞれ生まれも育ちも異なりますので、考え方が全て同じではありませんが、それでよいのです。聖霊に満たされ福音宣教のために一致し、異なる賜物を使い補完し、置かれた場所で主の働きをすれば良いのです。ヨハネによる福音書15章16節を開いてみましょう。15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。今日、三番目に覚えて頂きたいことは選ばれて弟子となっているということです。 ですから、選びに感謝しつつ、与えられている使命に励もうではありませんか。最後になぜユダが主はイエスを裏切った理由を考えてみましょう。ユダは銀貨三十枚で、イエスを引き渡してしまったのです。開きませんが、マタイによる福音書6章14-16節に記されています。銀貨三十枚の価値は諸説ありますが、30~90万円と言われています。直接的にはお金が目的でしたが、その背後ではサタンが働いていたことを忘れてはいけません。ヨハネによる福音書13章27節を開いてみましょう。 13:27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。開きませんが、ルカによる福音書22章3節にも同様のことが記されています。悪魔は実に巧妙です。常に教会を攻撃しキリスト者を堕落させるためにありとあらゆる誘惑を仕掛けています。悪魔の誘惑に陥らないように目を覚まして祈り続けましょう。
Today’s Takeaways ①主は弟子を訓練される ②弟子の使命は宣教 ③選ばれて弟子となっている
Thinking Time キリストの弟子であることの自覚はありますか