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2024年8月18日主日礼拝

説教題:聖霊を冒涜する罪~霊的家族~ 聖書箇所:マルコによる福音書3章20-35節

ベルゼブル論争 3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 イエスの母、兄弟 3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

ハレルヤ!8月の第三主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその10回目です。前回のおさらいから始めましょう。3章7-19節から「主イエスの弟子~選ばれた仲間~」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①主は弟子を訓練される ②弟子の使命は宣教 ③選ばれて弟子となっている でした。今日は続く3章20-節を通して「聖霊を冒涜する罪~霊的家族~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①イエスには悪霊を征服する力がある

20,21節から見てまいりましょう。3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。安息日問題の論争を通して、ファリサイ派の人々の主イエスに対する敵対心は日を追うごとに益々強いものとなっていました。「家に帰られると」とありますが、おそらくこれはペトロの家だと思われます。ペトロの家は、ガリラヤ伝道の拠点でした。各地での働きを終えた主イエスはペトロの家に帰ってきたのですが、「群衆がまた集まって来て」とあるようにイエスの御業、癒しや悪霊追い出しの評判を聞いた人々がペトロの家に押し寄せ、「一同は食事をする暇もないほどであった。」のです。群衆が押し寄せて、おそらく家の中にまで迫ってくる状況のため、食事をとることができないほどの混雑、多忙ぶりであった。ものすごい人気で、ありがたいと言えば、確かにありがたいことでしょうが、忙殺される状態だったのです。ところで、イエスは何をしておられたのか。マタイによる福音書によると「悪霊に取り憑かれ、目が見えず、日がきけない」男のを癒されたことが記されています。開きませんが、マタイによる福音書12章22節を後程、読まれてください。 「身内の人たち」とありますが、主イエスの肉体の家族です。イエスの兄弟たちがイエスの働き、なされた御業を理解していなかったことがヨハネによる福音書7章5節に記されています。開いてみましょう。 7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。新共同訳の7章1-9節の小見出しは「◆イエスの兄弟たちの不信仰」です。ですから、「あの男は気が変になっている」という噂が至るところに広まり、イエスの家族にも伝わったのです。それで、心配になってイエスを家族のもとに連れ戻すため、ペトロの家にやってきたのです。22節を見てみましょう3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。主イエスのことを正しく理解していなかったのは、イエスの家族だけではありませんでした。エルサレムの律法学者にもイエスの評判は伝わっていました。当時、ユダヤには、祭司や律法学者からなるサンヘドリン(七十人議会)があり、宗教的事案だけでなく、裁判の最高権限を持っていました。彼らは多くの群衆がイエスのもとに集まっていることを知ると、動揺して、早速、「律法学者たち」を調査のために派遣したのです。彼らは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言い」イエスを非難したのです。「ベルゼブル」とは、堕天使の一人であり、サタンの右腕で悪霊の頭と考えられていました。律法学者たちは、イエスが悪霊を追い出したこと自体は否定をしませんでした。ただ、そのことが御子の御業ではなく悪霊の頭の力によるものだと主張したのです。イエスはこの主張に対して二つの例えを用いて論破したのです。23-26節を見てみましょう。3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。イエスは先ず、決然とした態度で律法学者たちに国と家の内輪もめの例えを用いて反論をしました。国や家が内輪で争ったら、国や家が内部分裂してしまいます。その結果として、その国は成り立たず、その家も成り立たずに滅びてしまうからです。ですから、主は「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。」言われたのです。イエスは非常に明白な反論をしています。このイエスのお言葉はダニエル書に記されている国が分裂して滅びてしまうことを念頭に入れて話されたと思います。ダニエル書11章4節を開いてみましょう。 11:4 その支配が確立するやいなや、この王国は砕かれて、天の四方向に分割される。彼の子孫はこれを継がず、だれも彼のような支配力を持つ者はない。この王国は根こそぎにされ、子孫以外の支配者たちに帰する。戦においては内側の結束がとても大事です。イエスの福音は決して分裂されてはなりません。もし、イエスが悪霊の頭で、同士討ちをしているのであれば、それはまことに愚かなことであり、自滅してしまうことになります。しかし、実際は悪霊から見ればイエスは悪霊の敵です。イエスの使命は悪霊と戦ってこれを征服することにあるのです。27節を見てみましょう3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。律法学者たちに対する二つ目の反論が27節です。盗賊の例えです。先の内輪もめの例えと比べると、より積極的です。「強い人」とありますが、サタンのことですそれを「縛り上げ」る人が主イエスで、「その人の家」とは悪霊がとりついた人間や社会です。これも実に論理的でわかりやすい例えです。悪霊を追い出すためには、先ず悪霊の頭を追い出すことが先決です。イエスが悪霊を追い出したということは、既に悪霊のかしらを追い出したことを意味しているのです。それは、ただ神の力によってのみ可能です。これがこの例えの主題です。「まず強い人を縛り上げなければ」とあるように、ここにはイエスの権威が悪霊の頭の力よりまさっていることを意味します。それはとりもなおさず、イエスが神の力と聖霊の働きによって悪霊を追放したことの証明なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはイエスには悪霊を征服する力があるということです。

②聖霊を冒涜すると救いの道が閉ざされる

28-30節を見てみましょう。3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。「はっきり言っておく。」とありますが、イエスが語調を強くして言われる時によく用いている言葉です。「はっきり」と訳された部分は原語のギリシャ語ではἀμὴν (amēn) 、英語のAmenで、「まことに」の意味があります。多くの英語の聖書ではTurleyと訳されています。厳粛な警告を与えていることがわかりますが、この警告は、実に神の寛大な恵みが背景にあります。人が、悔い改めするのであれば、「罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」とある通りです。罪びとに対する、なんと大きなあわれみでありましょうか。しかし、唯一の例外が「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」のです。何故、主イエスはこのような例外を付け加えたのでしょうか。これを理解するためには、このお言葉は、主が「汚れた霊に取りつかれている」と思い込み、そう言い張る律法学者たちに語られた事を忘れてはいけません。主イエスにおいて働く霊、聖霊をこともあろうに「汚れた霊」と言い張るのです。主イエスにおいて働いておられる霊が神の霊であることを認めないのです。そのことが聖霊を冒涜することは明らかです。イザヤ書5章20節には次のように記されています。 5:20 災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。私たちは誰でも、聖霊の明らかな御業が見られるときに、神をあがめなければならないのです。イエスによる聖霊の働きがわからない人には救いの道が永遠に閉ざされてしまうのです。聖霊の働きは、イエスの十字架の死が、我々の全ての罪を贖うことを教えてくれるのです。今日、二番目の覚えて頂きたいことは聖霊を冒涜すると救いの道が閉ざされるということです。

③霊的家族が新しい平和の礎

続く31-35節では話題が変わります。新共同訳聖書の小見出しは「◆イエスの母、兄弟」となっています。この箇所は、21節の「身内の人たちは」という言葉と対応しています。3:21イエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。ユダヤ人は民族の血を重んじ、先祖との繋がりを非常に大事にしています。そのことは、聖書に記されている多くの家系図からも判ります。個人的主義者ではなく共同体の生活をし、平面的ではなく先祖と結びついた立体的な生活をしていました。しかし、主イエスはこのような血族関係そのものよりも、それを超えた霊的な家族関係を重んじていたのです。血族関係を否定することはしませんでしたが、そこにはきよめられるべき不純なものが混じっていることを指摘されたのです。31,32節を見てみましょう。3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、主イエスが大勢の人々に囲まれていた時、「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」のです。イエスの肉の家族についてはマタイによる福音書13章55,56節に記されていますので、開いてみましょう。13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」この箇所から母「マリア」、兄弟の「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」「姉妹たち」がいたことがわかります。父ヨセフの名前がありませんので、既に他界していたとの学説がありますが断定はできません。家族総出でイエスの所に来たのですからよほど重要な用件があったのです。31節で学びましたが、「あの男は気が変になっている」という噂が至るところに広まり、イエスの家族にも伝わったのです。それで、彼らは心配になってイエスを家族のもとに連れ戻すためやってきたのです。イエスを取り囲んでいた人々がこのことに気づくとイエスに「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げたのです。それに対する主イエスのお答えが33節以降に記されています。3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」イエスの答えは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」という意外なもので、一見、冷たさも感じられますが、決して、この世の父母、兄弟姉妹を無視してもよい、そんなものはどうでもよいという意味ではありませんが、主イエスはご自身に従うものに、他の全てのものを捨てる覚悟がなければならぬことを度々語られました。これには父母兄弟姉妹も含まれます。神の国の福音の前進はこのような決心をした人々によって蒔かれたのです。南米のエクアドルに、アウカ族が住んでいます。アウカというのは「野蛮」という意味で、アウカ族における殺人率は60%でした。1952年のこと、身の危険を承知の上でジム・エリオットというアメリカ人宣教師がアウカ族に福音を届けようと試みました。最初は、食べ物や衣類など、彼らがプレゼントとして受け取ってくれそうな物資を届けていたのですが、何とか、簡単な挨拶を交わし、少し意思の疎通を図ることができるようになりましたが、1956年一月に、ジム・エリオット氏を含む五人の宣教師が、アウカ族の手によって殺されてしまったのです。彼らは主イエスの弟子として、暗黒と猛獣の世界に福音を届け殉教したのです。このことは二十世紀最大の殉教秘録と言われていますが、ジム・エリオット氏らの死により救われる魂が起こされたのです。主イエスに従う者としての実が結んだのです。一方において聖書は次のように教えています。出エジプト記20章12節前半を開いてみましょう。 20:12 あなたの父母を敬え。この矛盾ともいえる箇所はどのように解釈をすれば良いのでしょうか。元牛込キリスト教会牧師で元カリフォルニア神学大学院日本校学長を務めておられた佐藤陽二先生は著書の中で次のように解説をしています。そのまま引用します。「この世のあらゆること、兄弟にすらも興味を持たないで、イエスに従い、神を愛したとき、人間は初めて本当の意味で父母を敬い、兄弟を愛することができるようになるのである。」主イエスは続いてこう語られました「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」神の子であるイエスがこの世に来られたのは、全世界を神の国とするためでした。神の支配をこの世のもたらし、神と人間との関係を回復し、平和をもたらすためにイエスは人間としてこの世に誕生したのです。この世の社会の最小単位は家庭と言われます。その中心は血縁関係です。血縁関係が家庭の秩序を保ち平和をもたらすことが出来るのです。従って、血縁関係のない社会は争いが絶えないものなのです。しかし、主イエスは血縁関係を超えた本当の平和の礎、新しい平和の礎があることを伝えているのです。古い平和の秩序が血縁関係であったのに対して、新しい平和の秩序は霊的関係、霊的家族なのです。霊の力であり、御心の実行なのです。そのとき、全世界の人々は、イエスを中心とする兄弟姉妹になるのです。これが神の国なのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは霊的家族が新しい平和の礎ということです。

Today’s Takeaways イエスには悪霊を征服する力がある ②聖霊を冒涜すると救いの道が閉ざされる ③霊的家族が新しい平和の礎

Thinking Time この世の家族にどのように接していますか