説教題:御言葉を聞く姿勢 聖書箇所:マルコによる福音書4章1-20節
◆「種を蒔く人」のたとえ 4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。◆たとえを用いて話す理由 4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。 4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 4:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」◆「種を蒔く人」のたとえの説明 4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
ハレルヤ!8月の第四主日を迎えました。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその11回目です。前回のおさらいから始めましょう。3章20-35節から「聖霊を冒涜する罪~霊的家族~」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①イエスには悪霊を征服する力がある ②聖霊を冒涜すると救いの道が閉ざされる ③霊的家族が新しい平和の礎 でした。今日は続く4章1-20節を通して「御言葉を聞く姿勢」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
今日から4章に入ります。主イエスはよくたとえ話を使って弟子たちに教えられました。これは特別な教育を受けた人でなければ分からないものではなく、だれにでもわかることを目指していたからです。4章には四つの譬えが記されています。「種をまく人のたとえ」、「ともし火のたとえと秤のたとえ」、「成長をする種のたとえ」、「からし種のたとえ」です。この内の三つに共通していることは、種蒔きの情景が描かれています。ここで、イエスは誰もが知っている生活に密着した具体例を用いて神の国の奥儀を教えられたのです。神の国ついては既に一章で学びましたが、イエスが救い主としてこの地上に来られたことによって、神の支配である神の国が近づいたのです。今日、先ず、大前提として覚えて頂きたいことがあります。たとえ話を読むときには、一つないし二つ位の中心点に着目し、あまり細部にこだわらないということです。木を見て森を見ずとなり、たとえの中心がぼやけてしまいます。主イエスが語るたとえ話は寓話ではありません。
①耳を傾けて神の国の福音を聞く
1,2節から見てまいりましょう。4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。主イエスの評判や人気は大変なもので、いつも沢山の群衆に付きまとわれていました。ガリラヤ湖の岸辺で教えていたのですが、大勢の群衆が押し寄せてきたので、ご自分は船に乗り、腰を下ろし、岸辺に集まって来た人々にたとえ話を使い多くのことを語られたのです。3-8節を見てみましょう。4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」3節から本題に入ります。新共同訳聖書の小見出しは『「種を蒔く人」のたとえ」』ですが、内容をよく見ますと、この箇所は種をまく人のたとえ話でも。種蒔きのたとえ話でもありません。正確に言えば「種が蒔かれた四つの場所のたとえ」です。「道端、石だらけで土の少ない所、茨の中、良い土地」という四種類の場所に落ちた種が、それぞれどういう結果になるかが記されているのです。それぞれの結果とそれをもたらす理由が非常に明確に記されていて、子どもでもわかる内容です。今日の近代的な農業では、いかに効率よく収穫を上げことを目標としていますので、「道端、石だらけで土の少ない所、茨の中」に種をまくようなことはしません。しかし、主イエスの時代には地を耕す前に種を蒔いて、それから耕していました。また、ロバが穴の開いた袋に種を入れて空になるまで畑の中を歩かせていたので、種が「道端、石だらけで土の少ない所、茨の中」に飛んでしまっていくこともあったのです。ところで、とても大切なことですが、何故、主イエスがこのたとえ話を語られたのでしょうか。二つの理由が考えられます。先ず。主イエスの肉の家族による誤解とファリサイ派の人たちや律法学者たちによる悪質な中傷があり、その誤解を解き中傷を解決するためです。次が、主イエスの教えを聞いている人中には、純粋に神の国を求めてきた人もいましたが、そうでない人たちもいたのです。彼らは、福音を聞く態度ができていなかったのです。ですから、その聞き方いかんによっては、実を結ばなくなることがあるという警告です。主ご自身が「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた通りです。キリスト者は、主イエスに向かって心を開き、しっかりと耳を傾けて神の国の福音を聞く者とならなければならないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは耳を傾けて神の国の福音を聞くということです。
②100倍の実を結ぶことを目指そう
10-12節は「たとえを用いて話す理由」ですので、先に『「種を蒔く人」のたとえ』の説明のである13-20節を見てみましょう。13,14節です。4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。「このたとえ」とありますが、原文では複数形ですので、新改訳聖書と口語訳聖書では「これらのたとえ」と訳されています。1章で学んだ「人間をとる漁師」や2章の「新しい革袋」などのたとえがそうです。続いて「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」とあるように種とは御言葉、神の国の福音です。15節を4節と一緒に見てみましょう。4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」「道端」に落ちた種は「鳥が来て食べてしまった。」のです。主イエスの解説によると鳥は「サタン」であって「食べてしまった」とは「御言葉」である種を「奪い去る」ことがわかります。福音である種が悪かったわけでも、種をまいた人のまき方、福音を伝えた人の伝えかたが悪かったわけではないのです。問題は種が落ちた場所、つまり、聞き手にあったのです。「道端」とは、御言葉を受け入れない人の心です。偏見、頑固、高慢、傲慢、その他様々な理由により、心を閉ざして御言葉を受けつけない、はねつける心のことです。サタンは、せっかく蒔かれた御言葉をそのような心の状態の人からすぐに持ち去ってしまうのです。これでは種が蒔かれなかったことと変わりがないのです。16,17節を5,6節と一緒に見てみましょう。4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。「石だらけの所」とは「土の少ない所」でした。従って、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れる」のですが、「艱難や迫害」に耐えうる「根がないので」、「すぐにつまずいてしまう」のです。この「石だらけの所」とは感情的で衝動的な心と言えますし、自分でものを考えない軽薄な人や何かを始めても完成することのない気まぐれな人とも言えます。太陽の光は、植物の成長には不可欠のものです。同様に「艱難や迫害」もキリスト者の成長には必要なものなのです。ただし、そのキリスト者に根があることが前提です。根がないとしたら、本来有益であるはずのものが枯れてしまうのです。新興宗教の中にはひとたび入信したら、ご利益に溢れ、困難、悩み、貧困、病から解放されことをしきりに説いている団体がありますが、キリスト教の教えはそうではありません。キリスト者の信仰生活には必ず「艱難や迫害」が伴います。しかし、それは私たちが主から鍛えられ霊的に成長するためのものであり、また、恐れる必要はありません。ヘブライ人への手紙12章6-7節とヨハネによる福音書16章32節後半とを見てみましょう。ヘブル 12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」 12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。ヨハネ16:32bあなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」18,19節を7節と一緒に見てみましょう。4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。「茨の中に落ちた」種は芽が生え育ちますが、同じ土壌で育った茨のほうがよく育ち「覆いふさいだので、実を結ばなかった。」のです。主イエスは茨のことを「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」と解説をしています。この種のものには十分に気を付けなければなりません。それは、「艱難や迫害」といった外からくるものに対しては十分に警戒をしても、「富の誘惑、その他いろいろな欲望」といったものに対しては自覚することが難しいからです。趣味、教養、スポーツに励む方がいます。また、地域社会やボランティア活動に熱心な方もいます。これはこれで伝道にも繋がりますので良いことですが、熱心さゆえに、金銭、労力、時間を費やし過ぎてしまいます。それゆえ、神、主イエスよりもこれらのことが優先となってしまうのです。茨とはどこにでも生えてくるものなのです。いったん生えた茨は御言葉をふさぐほど伸びてしまうのです。20節を8節と一緒に見てみましょう。4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」主イエスは「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり」と解説をしていますが、その他に特別な解説をしていません。ただ、実を結んだ事実だけを指摘しています。先の三つのたとえは御言葉を聞くだけですが、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる」ことなのです。聞くことと聞いて受け入れることには大きな差があります。御言葉を聞くというのは、自分をしっかり持っていて、その上で御言葉を聞き取捨選択することです。自分が主人です。一方、御言葉を聞いて受け入れるとは、自分があって御言葉を聞くのではなく、御言葉に自分が導かれるということです。自分ではなく御言葉が主人なのです。良い地に種が落ちて、試練にも耐え、実を結ぶことは大きな慰めであり、励ましでもあります。しかし、「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍」とあるように、同じ「良い地」にまかれても、全てが同じ結果とならないことは厳粛に受け止めなければなりません。さて、私たちはどうでしょうか。100倍の実を結ぶことができるでしょうか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは100倍の実を結ぶことを目指すということです。
③キリスト者が良い実の見本となる
それでは10-12節を見てみましょう。新共同訳の小見出しは「たとえを用いて話す理由」となっています。4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。 4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 4:12 それは、/『彼らが見るにパラボレーは見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」弟子たちにたとえを使って話すことを尋ねられ、イエスはその理由を二つ挙げています。先ず、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」です。「外の人々」とは狭義においては「一緒にイエスの周りにいた人たち」であり、広義においては十二弟子以外の全ての人の意味です。イエスは十二弟子たちのように信仰のある者だけが悟るように、たとえではなされたのです。次の理由は人々が真実に神の国を求めようとしていないからです。12節に「パラボレー」とあります。ギリシャ語でたとえや比喩のことです。パラは傍らに、ボレーは投げるという意味ですので、抽象的な真理の中に具体的な物語を置くことがたとえや比喩なのです。英語のParable(パラブル)はこのパラボレーから来ています。そして、12節はイザヤ書6章10節の言葉の引用です。開いて見ましょう。6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」主イエスはイザヤ書の御言葉を引用し、人々の頑な心を指摘しています。厳しい御言葉ですが、イエスの真意は彼らが御言葉を聞いて悟るようになるためです。神の国の福音は今では日本を含め全世界に宣べ伝えられていますが、最も福音を受け入れない国民はユダヤ人と日本人と言われています。イエスがメシアであることを認めないユダヤ教徒のユダヤ人の場合は理解も出来ますが、12節の御言葉はまさに日本人を表しているように思います。福音に対する日本人の反応は昔も今も同じです。ある者は頑なに拒否し、ある者は信じてもすぐに躓いてしまう。ある者はこの世のことのみに囚われてしまい成長しないのです。私たちが良い地の見本となり、彼らが真剣に心を開いて福音を信じ救われるように祈り続けようではありませんか。今日、最後の覚えて頂きたいことはキリスト者が良い実の見本となるということです。
Today’s Takeaways ①耳を傾けて神の国の福音を聞く ②100倍の実を結ぶことを目指そう ③キリスト者が良い実の見本となる
Thinking Time 御言葉を聞く態度に問題はありませんか