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2024年8月4日主日礼拝

説教題:目の覆いを取り除く 聖書箇所:ヨハネによる福音書5章9b-18節

その日は安息日であった。 5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」 5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。 5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。 5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。 5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。 5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

おはようございます。前回はヨハネによる福音書5章1-9a節から「マンネリ化からの脱却」と題して①静まって主を求める(悔い改め、感謝し、心を注ぎだし、求める) ②何のためにするのか、具体的な目標を明確にする(神の栄光のため) ③聖霊の助けによって示されたことを実行する、と3つのポイントから見てきました。今朝の個所では、この癒しが安息日になされたことが、問題となっていきます。ご一緒に見ていきましょう。

その日は安息日であった。エジプトを出たイスラエルの民に、神様は十戒を与えました。その中で安息日を守るように教えています。出エジプト20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。 20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

先週「安息日に癒しをされた真の理由」と題して安息日の意味が語られましたように、6日間一生懸命働いて、7日目は心身ともに休み、主と交わり、礼拝をささげ、恵みに満たされ、また活力をいただいて働けるようになるためです。またすべての奴隷も家畜に至るまで休めるようにしてくださった神様の愛なのです。だから安息日は人のためにあるのです。ところがいつの間にか、安息日を守るということが形がい化し、安息日の禁止事項として細かな規則ができ、それを守らないといけないということで、かえって人々が規則に縛られ、本末転倒、神様のみ心から離れていってしまったのです。 5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」エレミヤ書で安息日に物を運ぶ運搬はしてはいけないと言う言葉があり、それを根拠に言ったわけです。エレミヤ17:21 主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。 17:22 また安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。

このみ言葉を盾に、床を担ぐことは荷物を運ぶことだから、許されていないと咎めたわけです。38年間、歩くことができなかった病人に対して、彼の病が癒され、歩けるようになったことをともに喜ぶどころか、床を担いでいることは律法違反だと責めたのです。なんと愛のない冷たい態度ではないでしょうか。これが律法学者、パリサイ人らの現実です。彼らは律法を守ることのみに汲々となり、うわべだけを繕い、守れない人を裁き、神の愛からほど遠いものになってしまっていました。現に宗教指導者たちは、ベトザタの池に集まっている多くの病める人々のために具体的な救済もせず、癒す力も憐みの心もなかったのです。私たちもややもすると状況だけを見て人を裁いてしまうことがないでしょうか。なぜ罪を犯すことになってしまったのか、そこに至る経緯を知り、憐みの心をもって判断することが望ましいのではないでしょうか。私たちも神様の憐みによって救われたのです。ヤコブ 2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。一ペト 4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

①裁きは主に委ね、私たちは憐みの心をもって見つめよう(相手の立場に立って見てみる)

 5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。病を癒され歩けるようになった男は、安息日に床を担いだということでユダヤ人たちから咎められたので「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。床を担いだのは、そうしなさいと言われたからしたのであって、律法を破ったのは自分のせいではないと、まあ自己弁護したわけです。 5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。 5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。ユダヤ人たちは律法を破った者を突き止めようとしますが、癒された男はイエス様を知らなかったのです。5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」38年間苦しんでいた男にとって、病の癒しはどんなに大きな喜びだったことでしょう。しかし人間にはもっと大きな罪の問題があるのです。罪というと、犯罪と思いますが、罪は犯罪だけではありません。ギリシャ語ではハマルティアと言って的を外すことを意味します。本来、人間は神の栄光を表すものとして作られたのです。イザヤ43:7わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。神と共に生きる世界は愛と平和に満ちた世界です。しかし人は神から離れ、的外れな自分勝手な生き方をするようになった、そのことがそもそもの罪なのです。その結果神の恵みを受けることができなくなり、人生の真の目的を失い、迷い子のように、不安を抱え苦しむようになり、世界はどんどん悪くなってきました。しかし愛なる神は、苦しむ人間を救うために一人子イエス・キリストを遣わし、人間の罪の身代わりとして十字架につけました。キリストを信じすものは罪が赦され、神様との愛と平和の関係が回復され、やがて死後の裁きから解放され永遠の天国に入れていただけるのです。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」イエス様はこの癒された男にこのように言われたのは、病よりももっと大きな罪の問題があることに気付かせるためでした。それはこの生きている期間だけのことではなく、永遠を決める神の裁きがあるということです。ですからもう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と警告されました。私たちは生きている間の人生の幸福を求めますが、聖書は「死後に裁きがある」(へブル9:27b)と言っています。やがて誰しも必ず永遠の裁きの座の前に立つのです。その時私たちを救ってくださるのはただイエス様の十字架だけです。自分の罪を悔い改め、イエス様を信じ、従っていきましょう。生きている間だけのことを考えるのでなく、永遠を視野に入れた生きた方ができるように、日々み言葉を開き、神様と交わり、信頼し、従っていけるように、聖霊様の助けを求めましょう。

②永遠を視野に入れた生き方を求めよう

 5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。 5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。床を取り上げて歩けと言ったのはイエスだと、この男はユダヤ人たちに伝えたのです。そのため彼らはイエス様を迫害し始めました。イエス様が安息日を守らなかったから、安息日にしてはいけないことをさせたからという理由です。ユダヤ人たちの目は覆われていて、神様のみ心がわからなくなっていたのです。何のために安息日が作られたのか、人間が憩うため、安息を得るためです。ところが、安息日には何もしないことという規則を守ることが目的となり、細かな規則にがんじがらめになっていることに気づいていない。守らない者たちを裁き、さも自分たちは守っているというような上から目線でいることに気づくことができなかったのです。それは人間の幸福のために神様から与えられた律法が、いつのまにかその本質が失われ、規則を守ることが優先され、伝統となり受け継がれ、自分たちこそが神に仕えているのだというプライドにより、目に覆いがかけられ、神のみ心から離れていることに気付かなかったのです。これが律法主義です。宮清めや安息日論争などイエス様はそれを打ち砕くために行われました。 5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。神様は天地創造の時、6日間働いて7日目は休まれました。しかし神様は今も生きて働き続け、私たち人間にはわからないところで、神様のご計画を進めておられるのです。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」父が働き続けておられるので、私も働くのだと言われたことが、更にユダヤ人たちの逆鱗に触れ、命を狙われることになっていくのです。イエス様は病の癒しや悪霊追い出しなど、メシアとしての多くのしるしを行いますが、宗教指導者たちはイエス様をメシアとして受け入れることができなかったのです。そこには本当の神を求めるという謙虚な心がなく、イエス様への嫉妬、自分たちの立場や特権を守ろうとするプライドなどが彼らの目を覆っていて、イエス様を受け入れることができなかったのです。イエス様をメシア、救い主として受け入れることができたことは幸いです。素晴らしい恵み、永遠の祝福をいただいているのですから。でもいかがでしょうか、時々目がかすんだり、覆いがかけられて、イエス様の素晴らしさが見えなくなってしまうことはないでしょうか。もしそうであるならば、その覆いを取り除いていただき、神様をもっとよく知ることができるように求めましょう。コリントニ 3:16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 3:17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

③主に向くとき、覆いは取り除かれる(イエス様を見上げること、主と交わること)

神様は愛と恵に満ちた本当に素晴らしいお方です。神様の中にこそ本当の安息、憩いがあります。悪いの時代です。目の前の出来事だけに目を向けていたら様々な心配、思い煩いなどで心身ともに押しつぶされてしまいそうです。目の覆いを取り除き、主に目を向けましょう。私たちは神様のみ翼の陰に宿り、憩い、安息を得、豊かな命と恵に満たしていただけるのです。ヨハネ 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

詩編23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

この素晴らしい神様、イエス様がいつも私たち一人一人と共にいてくださるのです。思い煩いを止めて主に信頼しましょう。いつもイエス様に目を向けましょう。

ポイント

裁きは主に委ね、私たちは憐みの心をもって見つめよう(相手の立場に立って見てみる)

永遠を視野に入れた生き方を求めよう

主に向くとき、覆いは取り除かれる(イエス様を見上げること、主と交わること)

考えてみよう

心配や思い煩いでいっぱいになってしまうことはないでしょうか。どうしますか。