説教題:新しい命に生きる 聖書箇所:ローマの信徒への手紙6章1-5節
◆罪に死に、キリストに生きる 6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
ハレルヤ!9月の第五主日を迎えました。私たちの教会ではマルコによる福音書を講解で学んでおりますが、今日は礼拝式の後で洗礼式がありますので講解説教はお休みです。ローマの信徒への手紙は、イエス・キリストの弟子であるパウロがローマのキリスト教徒に宛てた手紙です。この手紙は、キリスト教の教理についての重要な教えを含んでいます。今朝は、洗礼について記されているローマの信徒への手紙6章1-5節から「新しい命に生きる」と題し、洗礼の意義と新しい命についてお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①罪に対して死んだ
1,2節から見て参りましょう。6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」とありますが、聖書・キリスト教を理解する上で極めて重要な語句が「恵み」と「罪」です。「恵み」とは受ける価値がないに者にもかかわらず与えて頂けるものです。対価ではありません。給料は対価です。働いたことに対してお金を貰えるからです。もし、働きもせずにお金を貰えるとしたら、これは恵みです。私は恵みという言葉を聞くと、私が未就学児童ころの話ですが、ホームレスの方が駅前に座り込み空き缶を置き「右や左の旦那様、どうかお恵みくださいな」と乞うていたことが忘れることが出来ません。「罪」ですが、聖書キリスト教が教える罪は犯罪だけではありません。怒りや妬み悪口など、悪い心の思いとそこから生じる言動です。その点、英語では明確に分けています。犯罪はcrimeで宗教上の罪はsinです。今日の聖書箇所には記されていませんが、聖書・キリスト教を理解する上でもう一つ極めて重要な語句に福音があります。福音は英語ではGood Newsと言います。良いお知らせです。なぜ良いお知らせなのかというと。イエスキリストを罪からの救い主と告白するだけで全ての罪が赦され天国に行けるからです。滝に打たれる修行や断食などは一切不要です。お金も不要です。救い主と告白するだけなのです。私は、このことを初めて聞いた時、もしかすると、これは本当に良い教えかもしれないと思いました。それは、「イエスキリストを受け入れた後、何でもかんでもやりたい放題にして、最後の最後にイエス様すみませんでした。天国に入れてくださいと言えばいいんだ」と思ったからです。しかし、そうはなりませんでした。誰でもイエスキリストを罪からの救い主と告白すると、聖霊なる神様がその方の内に宿り、徐々に罪を犯さない者へと作り変えられていきます。怖いもの知らずで、世の中を舐めきって生きてきた私も少しずつ変えられてきています。徐々に罪を犯さない者へと作り変えられていくことを神学用語で聖化の開始といいます。イエスキリストを救い主と受け入れた人は誰でも、神の恵みによって徐々に罪を犯さなくなります。勿論、罪を全く起こさないわけではありませんが、キリスト者の罪は点と言えます。連続して罪を犯すことはありませんが、点のように罪を犯してしまいます。しかし、罪を犯してしまっても主イエスの御名によって赦しを乞えば、何回でも赦して頂けます。これは本当に大きな恵みです。この手紙の5章20節後半には次のように記されています。ローマ5:20bしかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。たしかにその通りです。神は罪びとである全人類を救うために罪なきひとり子のイエス・キリストをこの世に救い主として遣わしたのです。しかし、パウロは、この箇所を曲解して「恵みを増加させるのであれば、どんどん罪を犯し続けたほうが良い」と言う屁理屈のような考え方をする人に対して、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」と問いかけ、「決してそうではない。」と断罪しています。神の恵を利用しようとすることは、あるまじきことです。神の恵を罪を犯す口実とすることはとんでもないことなのです。人間の例で考えてみましょう。子どもが父や母なら何でもが許してくれると知って、罪を犯すのは大丈夫だなどと考えたとすれば、愛を利用した卑劣な行為です。ところで、なぜ全ての人類が罪びとなのでしょうか。神様によって初めて作られた人間はアダムで、次に妻のエバが作られたのですが、このアダムとエバが罪を犯してしまいました。開きませんが、旧約聖書の創世記2-3章に記されています。簡単に要約しますと。神様はエデンの園にアダムとエバを住まわせ、園の中央にある「善悪の知識の木」の実を食べてはいけないと命じました。しかし、悪魔の化身である蛇にそそのかされたエバはその実を食べ、アダムにも勧めました。二人が実を食べたことで、彼らは自分たちが裸であることを恥じるようになり、神様の命令に背いたことが明らかになったのです。この罪の結果、アダムとエバはエデンの園から追放され、アダムは一生働いて食べ物を得なければならず、エバは子を産む苦しみを経験することになりました。このことによりその後の全ての人類に罪の性質が引き継がれているのです。ですから、ここにいる全員は罪びとです。生まれたばかりの天使のような赤ちゃんも罪びとなのです。キリスト者も罪びとですが、赦された罪びとなのです。英語ではforgiven sinnerと言います。アダムの性質を引き継いだ者は罪の中に死んだものでした。罪が支配していたのです。しかし、二千年少し前に、罪なき神のひとり子であるイエスキリストがこの世に人間として生まれ、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、復活され三日目に復活され、天に戻られました。この救い主であるイエス・キリストを信じ受け入れた方は罪の支配から解放され恵みの支配に変えられたのです。このことをパウロは「罪に対して死んだ」と言うのです。神の救いの御業によって、罪と死の支配から救い出され、永遠の命が与えられたのです。恵みが支配する中に置かれ、もはや罪の支配下にいない。今日、先ず覚えて頂きたいことは罪に対して死んだということです。この事を洗礼の例を挙げてパウロは話を続けます。
②キリストとともに死んで、キリストとともによみがえる
3,4節を見てみましょう。6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。「洗礼(バプテスマ)」とあります。まず、洗礼についてお話をします。洗礼は、キリスト教における重要な儀式であり、信仰の表明です。プロテスタント教会のおいては聖餐式とともに聖礼典にあたります。洗礼には二通りあります。先ず、体を水につける浸礼です。海、湖、川、教会によっては浸礼層がある場合もあります。千葉栄光教会がそうです。次が、頭に水を垂らす滴礼です。私たちの教会ではこの滴礼を行います。滴礼と浸礼には上下優劣はありません。スタイルが異なるだけです。大事なことは滴礼にしても浸礼にしてもどちらの場合にも水を用います。それは、水には洗い流す意味があります。私たちが食器を洗ったり、衣服を洗濯したりするときにも、水を使います。そのようにして汚れが洗い流されるからです。洗礼は罪の汚れを洗い流すこと、つまり、罪の赦しと新しい命の始まりの象徴です。私たちがキリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けることで、イエス・キリストの死にあずかることを示しています。これは、私たちが古い自分を捨て、新しい自分に生まれ変わることを意味します。3節に「その死にあずかるものとなりました。」とあります。キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださいました。これは、私たちの罪がキリストの死によって赦されることを意味します。私たちの古い自分、罪に支配された自分がキリストと共に死んだのです。「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」とあります。栄光とは神のご性質を表す言葉です。神の栄光は、私たちに罪の赦しを与え、私たちを救ってくださるだけではありません。今日の箇所の少し後の9節には次のように記されています。見てみましょう。ローマ 6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。神は私たちが死に支配されることがないように、キリストを死人の中から復活させたのです。続いて、「私たちもまた新しい命に生きるためである」と述べられています。キリストの復活は、私たちに新しい命をもたらします。キリストと共に新しい命に生きることができるのです。そして、キリストが復活されたように、キリスト者も復活をする時が来るのです。宗教改革者の第一人者であるマルティン・ルターによる小教理問答集の中には、洗礼について「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえる」という二面性が記されています。パウロはこのことをコリントの信徒への手紙二で次のように述べています。5章17節を開いてみましょう。5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。10年前に天国に行かれましたが、私の母校の神学校の事務員にNさんという方がいました。頂いた名刺には伝道師の肩書もありました。Nさんは超一流大学を卒業し、これまた超一流企業で働いていました。能力のある方ですので、とんとん拍子に出世し、日に日に高慢、傲慢となっていったそうです。接待をされることが多く、毎晩、お酒を浴びるようになり、気が付けばアルコール依存症になってしまいました。何度も職を失い、また。何回もアルコール依存症の施設にお世話になったこともあったそうです。Nさんはお酒を止めなくては人生がダメになってしまうと思いましたが、自分の頭を尺度としていたために、悪習慣から抜け出せず、気が付けばホームレスになっていました。そんなある日、山谷でホームレス伝道をしていた森本春子牧師と出会い人生がかわります。森本師は、『ホームレス対策で大事なのは、まず彼らがお酒を飲むのをやめさせる事だといいます。アルコール依存症になってしまうような人でも、信じるものがあればお酒はやめられると考える。また、冬の寒いときは宿泊施設の必要性もあげられた。森本師は続いて「お金、名誉、地位があっても、それでは人は救われない。しかし信じれば力が与えられる。」と語りました。この言葉を聞いた時、聖霊が働きNさんは人生をやり直す決心をしました。自分の人生をやりなおす力と勇気とを神に祈り求めたのです。Nさん毎日、聖書を読み続け、イエスキリストを救い主と告白し救われ、洗礼を受けたのです。その後、Nさんは森本師のお手伝いをしながら神学校を卒業しその事務員をしながら伝道に励んでいました。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリストとともに死んで、キリストとともによみがえるということです。時々、イエスキリストを救い主と告白したので、天国に行けるので洗礼は儀式に過ぎないので受けなくても良いだろうという方がいます。しかし、これは間違いです。マタイによる福音書28章19,20章からそのことがわかります。 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」「洗礼を授け」とあります。裏を返せば「洗礼を受けなさい」と主が命じていると解釈が出来るのではないかと個人的には思っています。少なくとも主イエスが洗礼を受けることを望まれていることは間違いがありません。このように、洗礼は単なる儀式ではないのです。
③キリストと一体になった
5節を見てみましょう。6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。「キリストと一体になって」と訳されていますが、原語では「接ぎ木(つぎぎ)をする」という意味です。接ぎ木は植物を増やす手段として重要であり、適切な方法を行うことで、健康な植物を育てることができます。メリットして病害虫に強い種を作れる、味の良い果実を育てられる、成長期間を短縮できるなどがあげられます。また、渋柿に接ぎ木をすると甘柿の実を収穫出来ると聞いたことがあります。 キリスト者とはイエス・キリストに接ぎ木をされた者なのです。それ、以前はサタンに接ぎ木をされていたような存在だったのです。イエス・キリストが台木です。台とは、接ぎ木をするときに土台となる植物のことです。キリスト者はイエス・キリストを台木として成長に必要な養分を吸収するのです。そこには成長に悪いものや不必要なものは一切ないのです。ですから、私たちの生活がキリストの教えに従い、神の御心に従うことができるようになるのです。私たちは日々の生活の中で、愛と赦し、謙遜と奉仕の心を持って生きることができるようになるのです。キリスト者とは「罪に対して死んだ」者ですが、「キリストと一体になっ」た者とも言えます。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリストと一体にされたということです。。
Today’s Takeaways
①罪に対して死んだ ②キリストとともに死んで、キリストとともによみがえる ③キリストと一体になった