説教題: 神の国に入る 聖書箇所:マルコによる福音書10章17-31節
◆金持ちの男 10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
ハレルヤ!五月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその31回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。10章1-16節を通して、「結婚は神が定められた~子どものように~」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①結婚は神が定めたもの ②子どものような心の信仰を持つ ③神にすべてをお委ねする でした。今日は続く10章17-31節を通して「神の国に入る」と題しお話しします。ご一緒に学んで参りましょう。ある成功したビジネスマンが、教会を訪れ、牧師にこう尋ねました。「先生、私は仕事で大成功し、家族にも恵まれています。福祉活動もし、慈善団体へ多額のお金も寄付していますが、間違いなく天国に行けるでしょうか。」と。この質問は、今日の聖書箇所の前半に記されている「金持ちの青年」とまったく同じと言えます。17-22節迄は、一人の「金持ちの青年」と主イエスとの出会いの顛末、問答が描かれています。この青年には財産がありました。また、並行箇所のルカによる福音書18章18節には次のように記されています。を見てみましょう。18:18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。「ある議員」と訳されています。小見出しは「金持ちの議員」ですので、社会的地位のある優れた人格者であり、大変まじめな青年でしたでしょう。しかし、そんな彼にも大きな一つの疑問があったのです。
①主イエスに従う
17節から順番に見てまいりましょう。 10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」この金持ちの青年は、旅立ちをしようとしているイエスを見かけると走り寄りひざまずいて「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねたのです。この青年はイエスによってのみに与えられる永遠の命について知りませんでしたが、ユダヤ教の教えである人間の復活による永遠の命についての信仰は持っていたものと考えられます。そして、彼は、このことは、なにか律法の行為によって得られると思っていたのです。そんな「金持ちの青年」の質問に対する主イエスのお答えが18,19節です。10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」主イエスの答えは意外なものでした。先ず、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。」と言われました。『善い』と訳された言葉は、親切、恵み深い、という意味で旧約の時代は神に対して使われていた言葉です。詩編118編1節を開いてみましょう。 118:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。他にも開きませんが、歴代誌上16章34節にも使われています。このような理由から、主イエスは「金持ちの青年」に「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と語られ、青年の目を神に向けさせたのです。続いて、主イエスは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟」、とモーセの十戒の後半部分を引用したのです。これは、十戒の対人関係の戒めです。十戒を知らないユダヤ人はいませんので「あなたは知っているはずだ。」と付け加えたのです。イエスのお言葉に対する青年の答が20節です。10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。青年は自信を持って答えます。彼は、人殺しも姦淫も、窃盗も、偽証もしていなかったことでしょう。道徳的には完璧で、十戒を確かに守っていたでしょう。彼の態度は真剣ですが、「正しい行い」によって救いを得ようとする律法主義的な考えが見えます。これに対する主イエスのお答えが21節です。 10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」とあります。イエスのこの金持ちの青年をいつくしまれました。この青年が真面目で善良だからです。しかし、彼は、永遠の命、神の国には律法を守ることで出来ると思っていたのでしょう。ですから、続いて、主イエスは「あなたに欠けているものが一つある。」と言われたのです。この「金持ちの青年」には、何が足りなかったのでしょうか。神に信頼する心が足りなかったのです。信仰が不足していることをこの青年に知らせるために「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。このお言葉を聞いた青年の行動が22節です。10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。この青年は主イエスのお言葉を聞くと「気を落とし、悲しみながら立ち去った。」のです。「たくさんの財産を持っていたからである。」とありますが、財産を所有することが罪悪ではありませんし、財産を捨てること自体が良いことでもありません。イエスに従っていくことの妨げとなるものを捨てることなのです。それは、ある人にとっては財産であり、他の人にとっては名誉や社会的地位であり、人それぞれですが、そのようなものに依存していては神の国に入ることはできないのです。この青年の最大の欠点をイエスは指摘されたのです。信仰があれば、この青年はイエスのお言葉に従うことが出来たでしょう。この青年は子どもの頃から十戒を守っていました。しかし、それは、神に対する信仰ではなくユダヤの伝統的、習慣的に守っていたに過ぎないのです。そこには神に対する人格的な信頼関係がなかったのです。この関係のないところに神の国はありえません。永遠の命が与えられ、神の国に入ることが出来るのは、神に信頼し、イエスに従う人なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは主イエスに従うということです。
②恩寵に預かる
23節を見てみましょう。10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」金持ちの議員の青年は主イエスのもとを去って行きました。弟子たちは色々な思いでその後姿を見送ったと思います。主イエスの戒めは厳しすぎるのではないか。あるいは、我々は既に一切の所有から自由になっているので、そのことを喜ぼうではないかと。「イエスは弟子たちを見回して言われた。」とあります。主イエスの眼差しは、様々な思いを抱いている弟子たちに注がれました。それは、いつもでもこの青年のことを考えている場合ではないからです。主イエスのもとを去らずに従っている弟子たちに着目したいたからです。そして、イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と語りました。イエスは、財産を持っているということが、私たちを不自由にし、「神の国に入る」ことをどんなに妨げているかを示されたのです。勿論、財産そのものが問題ではありません。財産と人間のかかわり方に問題があるのです。福音書にはエリコの金持ちのザアカイのように、主イエスとの出会いによって信仰を持つようになった人たちの例があります。お金持ちが救いから締め出されてしまっているわけではありませんが、神と富に同時に使えることは出来ないのです。開きませんが、マタイによる福音書6章24節に記されています。また、宗教改革の第一人者であるマルティン・ルターは「君が心をかけているもの、それが君の神である」と言いました。富は知らず知らずのうちに一番目のものとなり、神となり、人間の心を動かし支配するのです。金で手に入らないものはない、金が神だという考え方に陥ってしまうのです。全てのことを神が支配しているということに思いが至る余地は全くないのです。24,25節を見てみましょう。10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」「弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。」とあります。律法学者の教えによれば、富は神からの祝福の印でした。旧約時代にも神は信仰深いものに財産を与えられました。(旧約聖書のアブラハム、ヨブなど)イエスの弟子たちが驚いたのも無理はないでしょう。イエスは、「神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と23節の言葉を繰り返し、続いて、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われましたが、明らかに誇張法(ハイパーボリー)を用いた比喩で、金持ちの救いの難しさを強調しています。エルサレムの町は城壁に囲まれ、夜には一人がしゃがんでやっと通れるくらいの狭い門だけが開いていて、らくだはとても通れませんでした。この門の入り口を「針の穴」と形容したのです。26,27節を見てみましょう。10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ラクダの比喩を聞いて弟子たちは茫然としてしまいました。弟子たちも財産を捨てるという行為そのものに意味があると考えていたからです。そこでイエスは彼らをみつめて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われたのでした。永遠の命を受けること、救われること、神の国に入ること。これらは皆同じ事と言えますが、これらはただ神のみよって与えられることなのです。これらは、神のみが可能なことで、人間の一切の努力、功徳は一切、役に立たないのです。救いの恩寵に預かる。いっさいを神にお任せすることが大切なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは恩寵に預かるということです。
③逆転が起こりえる
28節を見てみましょう。10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。「神は何でもできるからだ。」と聞いた弟子たちには元気が与えられたことでしょう。ペトロは自身満々に「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と主に伝えました。金持ちの議員の青年は財産を捨てることが出来ずに、イエスの元を去って行きましたが、自分たちは家も、仕事も、家族も捨てしたがっているとペトロは言うのです。財産は神の国に入る妨げになります。ですから、何も持っていない自分たちは堂々と神の国に入れる権利があるとペトロは考えていたのです。勿そんなペトロに対して、主はこう語られました。29-31節です。10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」29,30節は非常に厳しいお言葉です。当時の人々にとって「家族」や「畑」は生活の基盤であり、それを手放すのは非常に大きな犠牲でした。しかし、捨てることという行為自体が重要ではなく、「わたしのためまた福音のために」という目的が大事なのです。つまり、自己満足や損得ではなく、神の御心と福音の拡がりのために何かを捨てた人を対象としています。30節に「百倍受ける」とありますが、これは必ずしも物質的な豊かさの約束ではなく、「神の家族」としての霊的な共同体の豊かさを意味していると考えられます。また、「迫害も受ける」とあるように、信仰には困難が伴うことも現実として語られています。それでも報いは確実にある、とイエスは約束しておられます。31節は、逆転の論理です。神の国の価値観がこの世の価値観と大きく異なることを表しています。地位や功績、富などで「先にいる」と思われる人が、神の目にはそうでないことがあり、逆に一見取るに足らない者が神の国では高くされる、という驚きの視点です。また、ペトロに対する警告でもあります。28節を並行箇所のマタイによる福音書19章27節と比べてみると良くわかります。19:27 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」マタイには、「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と報酬、見返りを求めたことが記されています。このペトロの言葉には金持ちの議員の青年に対する優越感、驕り高ぶり、神からの恩寵に対する理解不足が分かります。このペトロの驕り高ぶった言葉に主は警告を与えられたのです。「先にいる多くの者」にはペトロや弟子たちだけではありません。今日の私たち、キリスト者も含まれています。主に従う道を完走するまで、気を緩めることなく歩んで参りましょう。は警告を与えられたのです。「先にいる多くの者」にはペトロや弟子たちだけではありません。今日の私たち、キリスト者も含まれています。主に従う道を完走するまで、気を緩めることなく歩んで参りましょう。今日、最後に覚えて頂きたいことは逆転が起こりえるということです。
Today’s Takeaways
①主イエスに従う ②恩寵に預かる ③逆転が起こりえる