説教題:大回りには意味がある~終わりの合唱~ 聖書箇所:マルコによる福音書7章31-37節
◆耳が聞こえず舌の回らない人をいやす 7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
ハレルヤ!一月の第三主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその23回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。7章14-30節から「心を清くしてくださる主イエス~信仰の本質~」と題し、四つのことを中心にお話をしました。①全ての食べ物は清められている ②イエスのみが心を清くする ③見ないで信じる者は幸い ④主は完全な遠隔治療ができる でした。今日は続く7章31-37節を通して「大回りには意味がある~終わりの合唱~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①大回りにも意味がある
31,32節から順番に見てまいりましょう。7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。今日の箇所は「それからまた、」から始まります。主イエスは、「シリア・フェニキアの女」の娘から悪霊を追い出す御業を行われてから、「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」のです。この「ティルス」から「シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖」に行くこの経路は大変な大回りです。ある聖書学者はこの経路を日本に当てはめてみれば、「小田原から東京を通って、信濃川の谷を通って、琵琶湖に至るようなものだ。」と非常にわかりやすく解説をしています。この解説では地図がなくても良くイメージがつかめますね。何故、このような大回りをしたかについての理由は聖書に記述がなく諸説あります。例えば、意図的に異邦人地域で活動するためという学説です。ティルスやシドン、そしてデカポリス地方は、ユダヤ人の住む地域というよりは異邦人(ユダヤ人以外)が多く住む地域でした。また、弟子たちへの教えと備えの時間のためという学説もあります。この旅で、弟子たちと共に過ごす時間を増やし、彼らを教え、準備させるための意図も含まれていたかもしれません。更に、地理的・現実的な理由という学説もあります。地形的な理由や安全な旅路を考慮した結果、このルートが選ばれた可能性もあります。いずれにせよ、この経路は神の導きで最善であったことは間違いがありません。主イエスの行動は常に神の計画と意図によるものだったのです。この大回りも、神の導きの結果であり、途中で出会う人々や行う奇跡には重要な意味があると考えられます。このことから一つの適用がわかります。私自身もそうですが、牧師をしている方のすべてがクリスチャンファミリーで育ったわけではありません。私は21年前、44歳のときに転落事故をきっかけにキリストと出会い、人生が激変しました。救われた当時、「なぜもっと早くキリストと出会えなかったのだろう」としばしば思っていました。また、クリスチャンファミリーで育った方々を羨ましく感じ、「そうだったら人生が違っていたのではないか」とも思いました。しかし、このような考えは次第に消えていきました。私がキリストに辿り着くまでの大回した人生にも、神のご計画の中で意味があったことを悟ったからです。いくつかの教会を訪れる中で、私はある現実に気づきました。それは、どの教会でも働き盛りの男性が少ない一方で、反比例をするかのように、その年代の男性の自殺率が高く、突然死するケースも多いという事実です。実際、高校時代の同級生で、金融機関の支店長として活躍していた方が、50歳を迎える前に突然亡くなりました。私は熊本県に住んでいたため葬儀に出席できませんでしたが、その方は亡くなる10日前に開かれた同窓会で幹事を務めていたと聞いています。私は自殺を考えたことはありませんが、中間管理職になったころ、ストレスの多い日々の中で、ほろ酔い状態のときに「このまま事故に遭って死ねば楽になれるのではないか」と思ったことがあります。そこで、私は、自身の社会人としての経験を生かし、福音を伝えることで人々に希望と癒しを届けたいと思うようになりました。そして、その思いから献身を決意しました。マタイによる福音書 11章28~30節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」大回りしたのは私だけではありません。例えば、元反社会的勢力に属していた方が刑務所でキリストと出会い、回心して牧師となり、大いに用いられているケースがあります。また、ホームレスを経験した方がキリストと出会い、牧師となった例もあります。その方は、ホームレスの方々や心身に問題を抱える人々に教会で食事を提供し、寝泊まりの場を与えることでキリストに導いています。そして、そうした方々の中には献身し、牧師として活動するようになった人もいます。私を含め、それぞれの方がキリストに出会うまでに大回りをしましたが、その大回りには神の計画の中で深い意味があるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは大回りにも意味があるということです。
②旧新約聖書の中心は救い
「デカポリス」という地名はギリシャ語です。「デカ」の部分は接頭辞で10という意味で、「ポリス」は町という意味ですので10の町という意味です。ガリラヤ湖の南の辺りからヨルダン川の東側にかけて10の町があり、その辺りを「デカポリス地方」と呼んでいました。「デカポリス」という名前はギリシャ語ですので、そこには多くに異邦人が住んでいました。以前にもお話をしましたが、この時代、ギリシャ人は異邦人の意味でも使われていました。この福音書の5章1節に記されていました。ゲラサ人の地方もデカポリスの一つです。見てみましょう。5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。以前、主イエスはゲラサ人の地で、悪霊に付かれた人から悪霊を追い出したことがありました。その人はイエスの弟子になりたいと申し出たのですが、イエスはそれを認めずに、家族の元に戻り、自分が受けた御業を証しするように伝えたことがありました。彼の働きは功を奏して、多くの人がイエスについて関心を持ち、お会いしたいと思っていたのです。ですから、主イエスがガリラヤ湖の近くに来られると 7:31,32「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」のです。この文書の主語は「人々」ですから、「聞こえず舌の回らない人」よりも強調されていることがわかります。ですから、当人よりも人々の方が熱心な信仰や期待を持っていたかもしれません。33-35節を見てみましょう。7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは「耳が聞こえず舌の回らない人だけを群衆の中から連れ出し」ました。癒しの奇跡をされるためです。奇跡は神の御業であって、決して見世物ではありません。野次馬のような人たちがいる場所で御業をなさろうとはしませんでした。イエスの配慮です。そして「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」のです。何故、イエスがこのような方法をされたのかはわかりませんが、イエスのなされる癒しの御業はいつも同じ方法とは限りません。「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。」のです。「天を仰いで」とありますが、助けは天、神から来ることを示すために、天を仰がれたのです。新共同訳聖書では「深く息をつき」と訳されていますが、口語訳では「ため息」、新改訳では「嘆息(たんそく)」と訳されています。いずれも失望や苦労を示すものではなく、人間の言葉では表現できないイエスの内側にある神的なものの現れです。続く、「エッファタ」とは「開け」という意味のアラム語です。主イエスはアラム語も離されていました。この福音書の著者マルコは、この話をイエスの弟子のペトロなどから聞き、そのまま記したのです。アラム語とそのギリシャ語の意味は5章41節でも使われておりました。開いて見ましょう。5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。アラム語を理解できないギリシャ人のためにその意味も記したのです。マルコの配慮です。そして、主が「エッファタ」と言われると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」のです。32節に「耳が聞こえず舌の回らない人」とありました。「耳が聞こえず」とは聴覚に障害を持つことです。「舌の回らない」とありますが、原語のギリシャ語では完全にものをいうことが出来ないといういみではありません。ですから、「舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」と記されているです。イエスがなされた数多くの癒しの出来事を読むと、イエスを信じさえすれば必ず病が癒されると思うかもしれませんが、それは間違いです。イエスは単に病気を癒すためだけが目的でこの世に来られたのではありません。では、この奇跡はどうとらえるべきなのでしょうか。それは、旧約聖書の預言を背景として見るときにだけ、明確にこの奇跡の意味をとらえることが出来るのです。PPTイザヤ書35章5節を開いて見ましょう。35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。主イエスはこの預言の成就者であったのです。言い換えれば、盲人の目を開け、聞こえぬ耳を聞こえるようにすることは、救い主の到来の印だったのです。旧約聖書を読むときには主イエスが預言されていることを念頭に置いて読むことが求められるのです。主イエスご自身が次のように語られています。ヨハネによる福音書5章39節を見てみましょう。 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。この箇所の「聖書」とは旧約聖書を意味しています。旧新約聖書の中心は救いです。大きく分けますと旧約聖書は救い主の預言、新約聖書はその成就と言えます。今日、二番目に覚えて頂きたいことは旧新約聖書の中心は救いということです。
③主を褒め称える
36,37節を見てみましょう。7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」「耳が聞こえず舌の回らない人」が癒された後、そこにいる人々に誰にも言ってはいけないと告げました。ご自身が単に癒しを行う者と思われたくなかったからです。そして、いよいよ十字架への道を歩まなくてはならず、弟子の育成に力を入れなければばらなかったのです。しかし、主の意思とは反して、かえって「口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」のです。そして、人々は「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と主イエスを絶賛したのでした。ところで、この37節の御言葉を聞くと天地万物が想像された時の御言葉を思い起こす方もおられるのではないでしょうか。創世記1章31節を開いて見ましょう。1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。神がこの世界をお創りになった時、それは「極めた良かった」のです。ところが、最初の人間であるアダムとエバが悪魔の化身である蛇に唆され神の命令に背き禁断の「善悪の知識の木」実を食べてしまって以来、全ての人間は罪の罪人なのです。罪の性質を帯びてこの世に生まれてくるのです。現在、この世界は暗黒です。腐敗堕落し人々は憎みあい、殺し合い、戦争がない時代はありません。突き詰めて言えば、人間の自分本位な考え方が根本的な原因で、コミュニケーションが取れていないのです。こうした罪びとを救うために、神は罪なき尊い独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わされたのです。私たちの罪の身代わりとして十字架に掛ってくださったのです。神と人間との断絶した関係を修復するための架け橋なのです。ここにおられる、あるいはYouTubeご覧になっている方は身体的には「耳が聞こえず舌の回らない」状態ではないかもしれませんが、霊的障害者と言えないでしょうか。今日の箇所の出来事を通してそのことを痛感します。人間は言語を話してコミュニケーションします。意思の疎通をはかりあいます。しかし、言語障害者にはそれが出来ません。同様に霊的言語障害者は神とのコミュニケーションが出来ず、御心を知ることが出来ないのです。こんな私たちを憐み私たちの霊的障害を癒してくださるのが主イエスなのです。私たちを最初に神がお創りになった罪なき姿に回復をしてくださったのです。ですから、未だ神様とコミュニケーションをとることの出来ない方は、今すぐに主イエスを受け入れ神様と霊的なコミュニケーションを取り、神の恵みに預かろうではありませんか。そのことを願い切に祈ります。また、既にキリスト者となっている方も霊的言語障害者に陥ってしまってはいる場合もあります。静まり祈り確認をされてみてください。昨年の四月に95歳で天国に行かれましたが、加藤常昭先生はこの37節を「終わりの合唱」と解説をしています。「終わりの合唱」は、元々は音楽、特にオペラ用語ですが、聖書学の用語としても用いられています。神の栄光を賛美する情景が描かれている場合に使われます。また。終末論的に用いられる場合もあります。ヨハネの黙示録5章13節を開いてみましょう。 5:13 また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」この場面は、神の勝利と統治が完成したときに、全被造物が一つとなって歌う「終わりの合唱」のように理解されます。この世にあって、私たちは常に神に導かれ最善がもたらされます。天国においては永遠の命が与えられているのです。まさに、主を褒め称えずにはいられません。今日、最後に覚えて頂きたいことは主を褒め称える ということです。
Today’s Takeaways
①大回りには意味がある ②旧新約聖書の中心は救い ③主を褒め称える