• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年1月26日主日礼拝 伏見敏師

説教題天からのしるしであるイエス・キリスト 聖書箇所:マルコによる福音書8章1-13節

◆四千人に食べ物を与える 8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。 ◆人々はしるしを欲しがる 8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

ハレルヤ!一月の第四主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその24回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。7章31-37節から「大回りには意味がある~終わりの合唱~」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①大回りには意味がある ②旧新約聖書の中心は救い ③主を褒め称える でした。今日は続く8章1-13節を通して「天からのしるしであるイエス・キリスト」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

1-9節に記されている「四千人に食べ物を与える」出来事は、6章で学んだ「五千人に食べ物を与える」出来事と内容が似ているので、元々は同じ出来事で、伝承が異なっているだけだと考える人もいないわけではありません。しかし、この考えは推測の域をでず、まったく別の出来事であるということをはじめに申し上げたいと思います。確かに類似点はありますが、詳細にみてみるとかなりの相違があります。このように福音書の中には似ている話でも別の出来事であることがありますし、逆に、同じ出来事でも視点が異なるため別の出来事と思えてしまう場合があります。また、並行箇所と記されていても同じ出来事かどうかの判断ができない場合もありますので注意が必要です。開きませんが、マタイによる福音書26章6-13節とヨハネによる福音書12章1-8節を読み比べてみてください。

①思い煩う必要がない

1-3節から順番に見てまいりましょう。8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」「そのころ」とありますが、7章31節の言葉と結びついていて、ガリラヤ湖の東北側におられた頃です。7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。主イエスの評判は異邦人が多く住んでいる町でも有名で多くの人々が集まって来ました。しかし、彼らは、もう三日も主イエスと一緒にいて、「食べ物がない。」状態になっていたのです。イエスの話を熱心に聞くのに飢え渇き、そのようになってしまったのですが、主イエスは弟子たちを呼んで、彼らの食べ物を心配していたのです。この箇所から「五千人に食べ物を与える」との違いがわかります。先ず、「五千人に食べ物を与える」の場合は一日、その日の夕方でしたが、今日の箇所は「三日」です。ですから空腹の程度もかなり異なっていたことでしょう。また、「五千人に食べ物を与える」の場合は、弟子たちのほうから主イエスに食べ物の心配をして提案をしていましたが、今回は主イエスからの「群衆がかわいそうだ。」という呼びかけです。 6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。8:2われ此群衆を憫む、既に三日われと偕にをりて、食ふべき物なし。(文語訳)この「かわいそうだ」と訳された原語のギリシャ語の意味は内臓がよじれる程の深い同情心を寄せることです。日本語ではらわたが煮えくり返るといい怒りを表す言葉ですが、ギリシャ語で「内臓、はらわた」は深い憐み、同情心を表すときに用います。文語訳聖書では「我この群衆を憐れむ」と訳されていたのですが、元日本基督教団 鎌倉雪ノ下教会牧師の加藤昭先生は「憫む」という言葉を残して欲しかったと著書で述べています。イエスは憐れみ深い心をもって一人一人をご覧になって、配慮されていたのです。このことは今日の私たちにもあてはまります。悩みや問題のない人生はありません。キリスト者でもそうです。健康の悩み、学業の悩み、人間関係の悩み、経済的な悩み等様々です。しかし、これらの悩みを私たちが心配をする前から、既に主イエスがそれらをご覧になっており、憐みにより、それに対する配慮がなされているのです。ですから、使徒パウロは次のように語りました。フィリピの信徒への手紙4章4,6節を見てみましょう。4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。私が尊敬する方に、Iさんというビジネス出身で信仰深いキリスト者の方がいます。Iさんは、日本ギデオン協会の会長を務められた方で、現在は後期高齢者となっています。私がIさんと出会った頃、Iさんは今の私と同じくらいの年齢で、日本を代表する大手企業の子会社の社長をされていました。私もビジネスの世界に身を置いていたことから、「相当ご苦労をされたのではないでしょうか」と尋ねたところ、驚いたことにIさんは、「ぜんぜん。」と答え、私が「えっ何故ですか?」と続けると、Iさんは、TVドラマの水戸黄門にようにアッハッハッハと笑いながら、「だってイエス様がいつも一緒だもん」と答えられたのです。私はその言葉に深く感銘を受け、「なんてすごい信仰なんだろう」と思いました。それから15年が経ち、ようやく私もパウロの御言葉にしっかりと立つことができるようになりました。思い煩う必要はない。「人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」からです。今日、先ず覚えて頂きたいことは思い煩う必要がないということです。

②全人類の救い主であることを示すため

4,5節を見てみましょう。8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。このイエスの呼びかけには「五千人に食べ物を与える」出来事を体験した弟子たちの信仰を試す意味もありました。しかし、弟子たちはそのことをすっかり忘れてしまったかのように「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と不信仰な言葉を主イエスに答えたのです。彼らは「五千人に食べ物を与える」出来事から何も学んでいなかったのです。そんな弟子たちに対してイエスは叱ることも呆れることもなく「パンは幾つあるか」と尋ね、弟子たちは「七つあります」と答えたのでした。この箇所にも違いが描かれています。前回の奇跡の時のパンは五つでしたが、今回は七つです。6,7節を見てみましょう。8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。この箇所からも二つの違いがわかります。「地面に座るように群衆に命じ」とありますが、前回は「青草の上に座らせるようにお命じになった。」とありました。青草ですので季節は春とあります。また、地面ですので恐らく乾期であったことでしょう。次の違いは「魚が少し」だったことです。前回は「二匹の魚」でした。8-10節を見てみましょう。8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。この箇所にも二つの違いが描かれています。先ず、籠の数です。前回は12でしたが、今回は7です。籠の大きさも違います。新共同訳聖書ではどちらも「籠」と訳されていますが、原語のギリシャ語は異なります。前回の籠は言語ではコフィノスと言い、柳の小枝などで編んだもので鞄のようなものです。英語ではhand-basketsと訳されている場合があります。今回の籠は原語ではスピュリダスです。これはつる草のようなもので編んだ籠で、麻袋のようなものです。英語ではLarge busketと訳されている場合があります。同じ言語がコリントの信徒への手紙二11章33節でも使われていますので、見てみましょう。 11:33 わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。また、人数も違います。前回は「男が五千人」でしたが、今回はおよそ四千人の人」です。御業をなされた「イエスは彼らを解散させられた。 8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。」のです。今まで二つの出来事の違いを中心にお話ししてきましたので、この二つの出来事は全く別の出来事であることをご理解いただけたと思います。しかし、この二つの出来事の本質は全く同じです。以前お話しした「五千人に食べ物を与える」の出来事でも触れましたが、神の御心でなければ奇跡は起こらないのです。奇跡とは、何か特別な賜物を持った人が自由に行えるものではありません。奇跡は神の御心のもとでしか起こらないのです。奇跡は手品や奇術ではなく、人間の知恵や技巧、種や仕掛けによって成し得るものではありません。もちろん、神がある人に賜物を与え、その人を通して奇跡を行うこともありますが、奇跡は神の御業であり、神の御心が働く時に、神の方法で行われるのです。では、なぜ主イエスは似たような出来事を行ったのでしょうか。ここに大きな意味があります。数々の癒しや奇跡を通して、イエスの評判は日々広がっていきました。それに伴い、イエスのもとに集まる人々の中で、異邦人の数も増えていったのです。イエスはユダヤ人だけでなく、異邦人に対しても憐れみの御業を行われました。このことは、主イエスがただ単に神の選民のためだけの救い主ではなく、全ての人々のための救い主であることを示すためでした。今日、二番目に覚えて頂きたいことは全人類の救い主であることを示すためということです。

③主イエスの存在がしるし

11-13節を見てみましょう。◆人々はしるしを欲しがる 8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。11節から話題が変わります。新共同訳聖書の小見出しは「人々はしるしを欲しがる」となっています。10節には「ダルマヌタの地方に行かれた」とありますが、並行箇所であるマタイによる福音書15章39節には「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた」とあります。おそらく同一の場所だと思われますが、今日ではどちらの場所も特定されていないため、確認ができません。しかし、そこが異邦人ではなくユダヤ人が中心となって住んでいた場所であったことは確かです。そのことは、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして天からのしるしを求め、議論をしかけた」という箇所から読み取れます。「ファリサイ派の人々」とは、律法学者によって解説された律法を厳格に守ることが神との礼拝の中心であると考えていた人々です。その結果、儀式を重んじるあまり、しばしば偽善に陥ることがありました。そして、彼らは罪人の救いを説き、霊と真で神を礼拝すべきだと教えるイエスと常に対立していました。彼らはイエスのなされた数々の奇跡について耳にしていました。ですから、イエスに対して「天からのしるしを求め」たのですが、これは天体の異変、雷鳴や流星のような奇跡を求めるものでした。「神の子であるなら、それくらいのことはできるだろう。やれるものならやってみろ。そうしたら信じても良い」という気持ちの現れでした。彼らは信仰のしるしを、目に見える現象に求めようとしたのです。信仰を何か目に見える証拠で確認しようとしたのです。そのような彼らに対して、主は「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と語られました。主イエスの地上での歩みそのものが、他ならぬ神の子であることの証明なのです。それ以外に何の「天からのしるし」を求めるのでしょうか。このこと以外に、どんな「天からのしるし」が必要なのでしょうか。これがイエスの答えです。そしてここに、私たちの信仰の基礎があるのです。新興宗教では、「奇跡」をきっかけに入信するケースが少なくありません。このような体験は、信仰心の源泉として非常に強力な影響を与えると考えられています。例えば、長年借金に悩んでいた男性が、新興宗教の教えに従って「お布施」をした後、予期せぬ形で大金を得ることができたという話を聞いたことがあります。これをその信仰の印だと信じ、入信したというものです。キリスト教でも、未信者が癒しの集会に参加して教会に繋がり、信仰を持つに至ることがあります。しかし、一度キリスト者となった後、信仰の成長や深め方は異なります。信仰を増す、信仰を深めるとは、イエスの言葉や聖書を心の目で受け入れて歩むことです。そこには何かしるしや奇跡を求める必要はありません。単にイエスの全人格に信頼して、日常生活を送ればよいのです。その時、神はそれぞれにふさわしい道を備えてくださるのです。今日、最後に覚えていただきたいことは、主イエスの存在がそのまましるしであるということです。今日、最後に覚えて頂きたいことは主イエスの存在がしるしということです。

Today’s Takeaways

①思い煩う必要がない ②全人類の救い主であることを示すため ③主イエスの存在がしるし