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2025年1月5日 主日礼拝 伏見敏師

説教題心を清くしてくださる主イエス~信仰の本質~ 聖書箇所:マルコによる福音書7章14-30節

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。 7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。 7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 ◆シリア・フェニキアの女の信仰 7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

ハレルヤ!新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。引き続きマルコによる福音書を講解で学びます。今日はその22回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。7章1-13節から「何に従っていますか」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①口伝に縛られない ②形式主義に陥らない ③神の掟である御言葉は何よりも優先する でした。今日は続く7章14-30節を通して「心を清くしてくださる主イエス~信仰の本質~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①ユダヤ人と異邦人という区別がなくなった

14節前半から順番に見てまいりましょう。7:14a それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「再び群衆」とあります。1-13節では会話の相手はファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」でした。彼らは、イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないのを見付けて、イエスに問責をしました。その時、イエスは彼らが人間によって作られた細かな規則を守っていても、そのことによってかえって神の律法に違反していることの実例をあげて話されたので、彼らは黙ってしまったのです。そこで、話の相手は再び群衆に戻りました。話の相手は代わりましたが、そこで取り扱われている問題は本質的に同じです。イエスは「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」のユダヤ教的外面主義、形式主義を否定し、人間の内面の問題こそ重要だと語るのです。長い間、ファリサイ派の律法学者に指導されてきた群衆は、形式主義に慣れてしまっていたのです。また、6章で学びましたが、心が鈍くなってしまっていたのです。イエスはそんな彼らに次のように注意を喚起したのです。14節後半-16節です。7:14b 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。15節の言葉はユダヤの格言ではあるません。これはイエスご自身の主張であり、律法主義への批判とも言えます。このことは群衆には理解ができたのですが、イエスの弟子たちにはそうでなかったのです。17-20節を見てみましょう。7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。 7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。「弟子たちはこのたとえについて尋ねた。」とあるように、弟子たちには理解出来なかったのです。イエスは「そんなに物分かりが悪いのか。」と嘆きつつも弟子たちに説明をされています。「外から人の体に入るもの」とは食べ物のことです。食べ物は人間のおなかにはいり、栄養分となった物以外は排泄されてしまいます。「人から出て来るもの」とは人間の言行のことで、他の人を傷つけることがあるのです。「こうして、すべての食べ物は清められる。」とありますがこの意味することを考えてみましょう。主イエスは口から入る物、つまり、食べ物に清い食べ物と汚れた食べ物があると言っているのではありません。また、このことで主イエスが旧約の祭儀律法を破棄したと勘違いされる人もいますが、そうではありません。祭儀律法というものは永遠の律法ではなく、あるものを指し示すもので、本体に対する雛型、予表に過ぎないのです。旧約聖書のレビ記11章には清いものと汚れたものが明確に記されています。一例をあげますと、陸の動物では清い動物とは、ひづめが割れており、反芻する動物(例:牛、羊)です。一方、汚れた動物とは、片方の条件だけを満たす動物や、どちらも満たさない動物(例:豚、ウサギ)です。これらは、衛生上のことではなく、宗教上の区別ですから、そのもの自体が清いか清くないかというものではありません。使徒言行録10章9-16節には、使徒ペトロが祈っている時に夢心地となり、ある幻を見ます。要約をしますと、天から布のような入れ物が降りてきて、その中に清いとされていない動物がたくさん入っていました。声が「屠って食べなさい」と命じましたが、ペトロは「清くない物は食べたことがない」と拒否します。しかし、声は「神が清めた物を汚れていると言ってはならない」と繰り返し教えました。この出来事は3回繰り返され、入れ物は天に戻されました。その後、異邦人であるコルネリオの家からペトロを迎えに来る人が現れたのです。このペトロが見た夢によって明らかにされているように、清い物、汚れた物とはユダヤ人と異邦人を指していました。しかし、新約の時代となると福音はユダヤ人だけではなく異邦人にも伝えられるようになります。ですから旧約時代の清いものと汚れた物の区分、すなわち、ユダヤ人と異邦人という区別がなくなったのです。そのことを主イエスは「こうして、すべての食べ物は清められる。」と語られたのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはユダヤ人と異邦人という区別がなくなったということです。

②イエスのみが心を清くする

21-23節を見てみましょう。7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」ここには「人を汚す」具体的な「人から出て来るもの」人間の言行が記されています。大事なことはこれらの悪い言行は「人間の心から」来るのです。心にある思いを口が語り、行動になるのです。人間の言行が他人を汚すのです。更に、ヤコブの手紙3章6節前半には次のように記されています。ヤコブ3:6 a舌は火です。舌は「不義の世界」です。私たちは同じ口から神を賛美し、また人を呪うこともしてしまうのです。このように私たちの心は汚れきってしまっているのです。人の汚れはその心の中にあるのです。しかし、人は外面的な汚れには気を付けていますが、内面的な汚れには気を配ろうとしないのです。そして、この心の中の汚れをきよめることが出来るのは、主イエスおひとりです。私たちのこの汚れた心にイエスキリストを迎えることができるのが信仰なのです。私たちは、自分の心の汚れを取り除こうと努力をしても失敗に終わってしまいます。人間は自分の力では、この汚れを取り除くことができないのです。自分の力に頼らず、キリストを心に迎えるのです。そうすれば、神は、その人をそのままでもきよい者とみてくださり、さらにまた、イエスご自身がその人をきよめてくださるのです。キリストは、罪にまみれ聖さがの一かけらもない私たちを罪から救うためにこの世にお生まれになり、私たちの罪の身代わりとして十字架に掛りって死なれたのです。ここに神の愛があり救いがあるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはイエスのみが心を清くするということです。

③見ないで信じる者は幸い

24-25節を見てみましょう。7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。24節から話題がかわります。新共同訳聖書の小見出しは「シリア・フェニキアの女の信仰」となっています。「そこを」とありますが、これまでの文脈から判断すると6章53節に記されていたゲネサレトでしょう。イエスは、ゲネサレト「を立ち去って、ティルスの地方に行かれた。」のです。新共同訳聖書では「ティルス」と訳されていますが、口語訳と新改訳では「ツロ」と訳されていました。ティルス地方とは、ガリラヤ地方の北西部で地中海に面し、フェニキアの一つの地方です。古来より海上貿易で栄えた都市で、旧約時代の悪女中の悪女イゼベルによってバアルの預言者やアシュラの預言者が呼び寄せられた場所でもあったのです。開きませんが、列王記上18章19節に記されていますので、後ほど読まれてください。主イエスはゲネサレトでの働きの後、一人で静まり神との交わりの時を期待してあえて異邦の地に行かれたのでしょう。宣教をするためでも奇跡、御業を行うためではなかったのです。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」とある通りです。しかし、イエスの評判はこの異邦人の地にも伝わっており、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」のです。続く26-28節を見てみましょう。7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」この「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ」でした。そして、自分の「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」のです。この女性のことがギリシア人と記されていますが、当時は異邦人のことを示した言葉で、必ずしも地理的なギリシア人ではありません。並行箇所のマタイによる福音書15章22節では「カナンの女」と訳されています。聖書で言う異邦人とはユダヤ人以外の人のことです。「シリア・フェニキア」とありますが、フェニキアという地名は北アフリカのカルタゴ西部地方にも使われていましたので、区別をするために「シリア・フェニキア」と記したのです。いずれにせよイエスの名声は異邦人の地まで伝わっていたのです。悪霊に付かれた娘の母親は、イエスの悪霊追い出しを聞いていたことでしょう。なんとしても娘を治してやりたいと思い続けていた所に、イエスが「ティルス」に来たという噂を聞き、彼女は飛んできたのです。そして、イエスの足元にひれ伏したのです。当時、異邦人がユダヤ人にひれ伏すということは考えられないことでした。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人社会では、むしろユダヤ人がローマ人など異邦人の権威に従わざるを得ない状況が多かったのです。ローマの占領下でユダヤ人は政治的には弱い立場にあったからです。それでもこの女性がひれ伏したのは何とかしても娘を助けたいという親心の現れです。この女性の必死な行動に対するイエスの答えは意外なものでした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」このイエスのお言葉を理解するためには例えが使われていることを覚えなくてなりません。「子供たち」とはユダヤ人の事で、「パン」はイエスの教えである福音です。また、「小犬」とは異邦人を意味します。犬とはユダヤ人から見て、異邦人を軽蔑した言い方ですが、主はここでは犬と言わずに「小犬」と言われていることに着目したいと思います。「小犬」はペットですので、異邦人に対する主イエスの愛情が読み取れますが、ここでイエスの言わんとしておられることは、先ず、イスラエルの民に伝道をするということでした。並行箇所であるマタイの福音書15章24節には次のように記されています。見てみましょう。 15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。主イエスはご自分の使命を果たすために忠実に働いていたことがわかります。しかし、主イエスが語られた言葉にはもう一つに意味がありました。この女性の信仰を試そうとしたのです。主イエスは私たちの信仰も試されていることを忘れてはなりません。問題に対してどう私たちが対応をするのかをご覧になっているのです。問題が生じた時に自分を中心において物事を見ていると不平不満になるのです。主イエスを中心において物事を考えなくてはならないのです。主イエスのお言葉に対するこの異邦人である女性の返答が28節です。口語訳聖書と一緒に見てみましょう。7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」7:28 すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。(口語訳)主イエスのお言葉を「お言葉どおりです。」とすんなりと受け入れたのです。自分たちは子どもではなく小犬であることを理解しているのです。主イエスの使命を理解していたのです。これはとても大事なことです。主イエスを横に置いて、自分のことばかり考えている人に信仰のことなどわかりません。自分本位と信仰とは両立ができないのです。この女性は先ず、信仰をもって「主よ、お言葉どおりです。」と語り、続いて「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と告げたのです。この女性の言葉には信仰と謙遜と機知が込められています。この女性は、自分が異邦人であることも、イエスの使命もすべてわきまえたうえで、ひたすら主の恵みと憐みを願い求めたのです。ここにこの女性の信仰があるのです。真の信仰の在り方を見ることが出来るのです。29-30節を見てみましょう。7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。この女性の言葉を聞いたイエスは「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と伝え、「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」のです。この箇所から信仰の本質的な在り方があります。見ないで信じる信仰です。復活され弟子たちに顕現された主イエスはトマスに次のようにかたりました、ヨハネによる福音書20章29節を見てみましょう。 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」信仰とは自分の願うことを一方的にまた、熱狂的に神に求めることではありません。信仰は、見ることもなく疑うこともなく神の言葉に素直に従うことです。信仰は、自分の全人格をイエス・キリストに投げかけることから始まるのです。そうすると、その人の生涯にわたり神からの答えが与えられるのです。それは、また、「わが望みは消えゆくとも、主よ御心をなさせたまえ」(聖歌469番「わが主イエスよ」2節)という信仰になってくるのです。御心が成就するところにのみ、真の幸福があるのです。今日、三番目に覚えて頂きたいことは見ないで信じる者は幸いということです。

④主は完全に遠隔治療ができる

29節からもう一つ大事なことがわかります。二年前、私たち夫婦はコロナに罹ってしまいました。手洗いうがい、不要不急の外出を避けるなどしていたのですが、母がお世話になっていたディサービスで感染し、家庭内感染となりました。三人で発熱外来のある病院に行ったのですが、医師とはタブレットを使ったオンラインでの会話でした。症状を伝え処方箋を頂きました。一種の遠隔治療ですが、イエスは病人と会話することもなく完全に遠隔治療ができるお方なのです。マルコによる福音書の遠隔治療はこの箇所のみです。遠隔治療については、開きませんがマタイによる福音書8章5-13節、ヨハネによる福音書4章46-54節などにも記されていますので、後ほど読まれてください。今日、最後に覚えて頂きたいことは主は完全に遠隔治療ができるということです。

Today’s Takeaways

①ユダヤ人と異邦人という区別がなくなった ②イエスのみが心を清くする 

③見ないで信じる者は幸い ④主は完全に遠隔治療ができる