• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年10月12日主日礼拝 伏見敏師

説教題偽りの証言、真実の告白-苦しみの中でも信仰を保つ
聖書箇所:マルコによる福音書14章53-65節

 ◆最高法院で裁判を受ける 14:53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。 14:54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。 14:55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。 14:56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。 14:57 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。 14:58 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」 14:59 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。 14:60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 14:61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。 14:62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」 14:63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。 14:64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。 14:65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

ハレルヤ!10月の第ニ主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その44回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。14章43-52節を通し、「裏切りの中で現れる神のご計画」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①日々主に立ち返る ②剣ではなく愛を選ぶ ③神様のご計画は完璧 でした。

今日の聖書箇所は、イエス・キリストの受難物語の中でも特に重要な場面です。イエスが宗教指導者たちに裁かれ、自分がメシア(救い主)であることをはっきりと示します。この裁きの場面は、ただの裁判ではなく、神の国と人間の権力との深い対立を明らかにしています。今朝は14章53-65節を通して「偽りの証言、真実の告白-苦しみの中でも信仰を保つ」と題しお話しをします。ご一緒に学んで参りましょう。

①偽りに負けず真実を守る

53節から順番に見てまいりましょう。14:53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。イエスが逮捕された後、すぐに大祭司のもとに連れて行かれました。大祭司は当時のユダヤ教で最も権威のある人物で、最高法院(サンヘドリン)の議長でした。つまり、この裁判は、ユダヤ社会の最高機関によって行われるのです。「祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た」とありますが、これは最高法院を構成する主要なグループが全員揃ったということです。普段は立場の違うサドカイ派の祭司長、貴族階級の長老、ファリサイ派の律法学者たちが、イエスを排除するということだけは一致団結していたのです。彼らがイエスをいかに深刻な脅威として見ていたかがわかります。イエスは、彼らの権威と秩序を根底から揺るがす存在だったのです。だからこそ、普段は対立する勢力同士が手を組んでまで、イエスを亡き者としようとしていたのでした。54節を見てみましょう。14:54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。ペトロはイエスを愛していましたが、怖くて近くにいられませんでした。「遠く離れてイエスに従い」というのは、体だけでなく心も離れていたことを表しています。
 ペトロは「絶対に裏切らない」と言いましたが、遠くにいたことで、すでに裏切りが始まっていたのです。言うことと実際にすることに違いがあるということがわかります。本当の信仰とは、怖くても、危険でも、イエスのそばにいることです。ペトロの失敗は、私たちが弱い存在であることと、神様の許しがどれだけ大切かを教えてくれます。55,56節を見てみましょう。14:55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。 14:56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。最高法院は最初から、イエスを「死刑にする」ことを決めていました。そのために、イエスに不利な証言を集めようとしました。最初から結論が決まっている茶番劇でした。彼らはイエスが無実かどうかを調べるのではなく、イエスを有罪にするための証拠を作ろうとしていたのです。
 多くの人がイエスについて嘘の証言をしましたが、それぞれの証言の内容がバラバラで一致しませんでした。当時のユダヤの法律では、人を死刑にするには、証言が一致していなければなりませんでした。開きませんが申命記19章15節に記されています。最高法院は本当のことを知りたかったのではなく、ただイエスを殺すための理由を探していただけでした。このことは、彼らの裁判制度が腐っていることを明らかにし、逆にイエスが無実であることを証明していたとも言えます。もしイエスが本当に死刑になるようなことをしていたなら、一致した証言を集めることは簡単だったでしょう。しかし、彼らが嘘の証言に頼らなければならなかったということは、イエスには何も罪がなかったことの強い証拠になります。これは、権力を持つ人たちが自分たちの目的のために法律を曲げ、真実を無視する危険性を示しています。また、神の法律を守るべき立場の人たちが、その法律を破って神の子を裁こうとしたことは、宗教的な指導者たちの堕落に他ならないのです。57-59節を見てみましょう。14:57 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。 14:58 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」 14:59 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。イエスは自分の体が死んで三日後に復活することで、神が人々と共にいる新しい場所が生まれることを語りましたが、偽証人たちはこの霊的な意味を理解せず、「人間が作った神殿を壊して三日で別の神殿を建てる」という物理的な破壊と歪めて伝えました。彼らは言葉の表面だけを捉えて攻撃し、イエスが実際の神殿を破壊しようとしていると人々に信じ込ませたのです。この意図的な曲解によって、イエスは国家や宗教の秩序を脅かす危険人物と見なされ、ローマの権力者に引き渡される口実の一つとなりました。この出来事は、権力を持つ者たちが自分たちの地位を守るために真実をどのように歪め、理解できない新しい教えを脅威として排除しようとするかを明確に示しています。
 こんな話があります。商社で働くクリスチャンのAさんは、会社の組織的な不正を見つけました。上司たちは「業界では普通のことだ」「会社のためだ」「家族のことを考えろ」など、いろいろな理由でAさんを説得しようとしましたが、Aさんはそれを受け入れることができませんでした。Aさんは毎日のように圧力を受け、最後に社長から「組織の決定に逆らうのか」と問われた時、「それは神様の御心に反することです」と答えて、会社を辞め、不正を外部に告発しました。一時的に仕事を失い、家族からも責められましたが、2年後、その告発が業界全体の不正を一掃することにつながったのです。今、Aさんは別の企業のコンプライアンス(法令遵守)の専門家として働き祝福された人生を送り、「恐れずに、真実を語ったことが大事です」と証ししています。
 私たちは、自分を過信しないように注意し、偽りと真実を見分けながら信仰の道を歩むことが大切です。偽りや不正に直面しても、真実を守ることが求められているのです。今日、まず覚えて頂きたいことは偽りに負けず真実を守るということです。

②沈黙が問われる時がある

60,61a節を見てみましょう。14:60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 14:61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。嘘の証言がうまくいかなかったので、大祭司は立ち上がってイエスに直接問いかけました。何も答えないのか。この人たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」と。これは、大祭司が焦っていて、イエスから自白を引き出そうとしている姿を示しています。彼の権威が揺らいでいることがわかります。しかし、イエスは黙って何も答えませんでした。この沈黙には深い意味があります。
 まず、イエスの沈黙はイザヤ書53章7節の「苦しむしもべ」の預言が実現したことを示しています。抵抗はしないけれども、主権を持って不正な裁判を受け入れていることがわかります。イザヤ書53章7節を開いてみましょう。苦しめられても、彼はかがみ込んで口を開かなかった。屠殺場に引かれていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている羊のように、彼は口を開かなかった。
 第二に、この沈黙は嘘の証言が意味のないものであることを表しています。真実を曲げる者たちに対して言葉で言い返しても無駄だということを示しています。真理は言葉を超えて存在するからです。
 この沈黙は、大祭司が重要な問い(メシアかどうか)を投げかけるための余地を作ります。イエスは小さな嘘の証言には答えませんが、ご自分が誰であるかという大事な問いにははっきりと答えます。この沈黙は、イエスの主権と、自ら苦しみを受け入れる意志を示しています。私たちは、不正の中で沈黙することの力や、神様のタイミングを待つ信仰の大切さを学ぶことができるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは沈黙が問われる時があるということです。

③苦しみの中でも信仰を保つ

61b,62節を見てみましょう。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。 14:62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は再び尋ねました。「お前はほむべき方の子、メシア(救い主)なのか?」この質問は、イエスが誰であるか、そしてユダヤ教の伝統にとって最大の脅威かどうかを問うものでした。そして、同時に、イエスを神への冒涜の罪に陥れるための罠でもありました。イエスは言いました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」この「そうです」は、イエスが自分がメシアであることをはっきりと認めたことを示しています。この肯定は、イエスが苦しみを受けることを決定づけるものでした。イエスはダニエル書7章13-14節と詩編110編1節を引用して、「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来る」と述べました。イエスのはっきりした肯定は、単に救い主だと主張しているだけではなく、神様と同じ権威を持つ救い主であることを示しています。この主張は、当時のユダヤ教が考えていた救い主の概念を超えるもので、神への冒涜と見なされました。 しかし、イエスの告白は、彼らを責めるためではなく、彼ら自身の信仰の中心を問いかけるものでした。イエスが苦しみを受けることになったのは、人間の悪い行いだけが原因ではありません。イエスが本当に神の子であること、そして人々がそれを受け入れなかったことが、苦しみを引き起こしたのです。イエスの救い主としての姿は、単なる政治的・民族的な解放者ではなく、神的権威を持つ救い主なのです。イエスの死は単なる悲劇ではなく、神様のご計画の一部であり、イエスが栄光の主として再び来られるという確信を弟子たちに与えるものです。63,64節を見てみましょう。14:63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。 14:64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。]衣を引き裂く行為は、ユダヤの伝統で悲しみや怒りを示す象徴的な行動で、イエスの言葉を冒涜と断定するために行われました。これは大祭司の感情的な反応であり、最高法院の判決を導くための意図的な行動でもありました。「冒涜」とは神の名を汚すことや、神の属性を主張することで、律法上は死刑に値する罪です。開きませんが、レビ記 24章15–16節に記されています。大祭司はイエスの告白を冒涜と見なし、すぐに死刑を求めました。彼らはイエスの主張を文字通りに受け取り、それが律法に反すると判断しました。「一同は、死刑にすべきだと決議した」とあります。これは、最高法院の全員がイエスを排除しようとする強い意志を示しています。この「一同」という表現は、彼らの決定が一致していることを示しています。大祭司がイエスを冒涜者と断罪したことは、彼がユダヤ教の最高権威者として神の律法を守っているかのように見えます。しかし、イエスが本当に神の子でありメシアであれば、彼の告白は冒涜ではなく真理を述べたことになります。この場面には大きな皮肉があります。神の律法を司るべき大祭司が、神ご自身であるイエスを拒絶し、迫害する道具となったのです。これは、宗教的権威が真の神の啓示を認識できず、むしろそれを拒絶する危険性を示しています。彼らは律法を形式的に適用しましたが、その精神や神を見失っていました。65節を見てみましょう。14:65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。唾を吐きかけられ、殴られ、目隠しをされて「誰が殴ったか言い当ててみろ」と嘲笑されたこれらの行為は、イエスに対する最初の肉体的な苦しみであり、受難の始まりを告げています。これは単なる暴力ではなく、イエスを徹底的に侮辱し、人間としての尊厳を奪うことを目的としたものでした。唾を吐きかける行為は最大の軽蔑の表現であり、「言い当ててみろ」という言葉は、イエスの預言者としての力や神の子としての知識をあざ笑うものです。彼らはイエスがメシアであるという主張を冒涜と見なしながら、皮肉にもメシアに期待される超自然的な能力を要求しています。
 これらの行為は、イエスの神性や預言者としての力、そして人間としての尊厳を否定し、貶めるためのものでした。彼らはイエスを人間以下の存在として扱おうとしたのです。この場面から、人間の罪と堕落がどれほど深いか、そして無実の者に対する暴力がいかに簡単にエスカレートするかを見ることができます。同時に、イエスがこれらの屈辱と痛みを一切抵抗することなく受け入れたことは、受難の深さと人類の罪のための自己犠牲の意志を際立たせています。イエスの受難の現実を直視することで、その犠牲の大きさを理解することができます。これは、クリスチャンが苦しみに直面した際に、イエスの模範に倣うことの重要性を示すものです。
 使徒パウロはローマへの信徒への手紙5章3、4節で次のように述べています。同段落PPT「それだけでなく、苦しみをも誇りとします。私たちは知っているのです。苦しみは忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生むということを。」「練達」という言葉は、試練によって信仰・人格が鍛えられる意味を持ちます。この流れは、単なる我慢や耐えることではなく、信じる者が苦しみに向き合う中で神に近づき、最終的に確かな希望を持つことを示しています。苦しみは希望となるのです。ですから。苦しみの中でも信仰を守ることが大切です。今日、最後に覚えて頂きたいことは苦しみの中でも信仰を保つということです。

Takeaways
①偽りに負けず真実を守る ②沈黙が問われる時がある ③苦しみの中でも信仰を保つ