• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年10月19日主日礼拝 伏見敏師

説教題鶏の声が聞こえたとき-真の悔い改め
聖書箇所:マルコによる福音書14章66-72節

◆ペトロ、イエスを知らないと言う 14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、 14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。 14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」 14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

 ハレルヤ!10月の第三主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その45回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。14章53-65節を通して、「偽りの証言、真実の告白」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①偽りに負けず真実を守る ②沈黙が問われる場合がある ③苦難を覚え忠実に歩む でした。「自分のことは自分が良く知っている」と言いますが、実は、自分のことはわかっていないものです。他人との関わりのなかで、そのことを示される場合もありますが、本当の自分の姿を教えられるのは主イエスキリストとの出会いにおいてです。
 どんなに強い意志があっても、状況が変われば揺らいでしまうことがあります。しかし、同時に神の恵みの深さも教えてくれます。私たちが失敗しても、神は私たちを見捨てず、赦しを与えてくださるのです。ペトロの物語は、私たちが神の恵みに感謝しながら生きることの大切さを教えてくれます。私たちも神に支えられ、成長していけるのです。今日は続く14章66-72節を通して「鶏の声が聞こえたとき-真の悔い改め」と題しお話しをします。ご一緒に学んで参りましょう。

①自分の弱さを正直に認める

66節から順番に見てまいりましょう。14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、「ペトロが下の中庭にいたとき」とあります。ペトロのいた場所は、彼の迷っている気持ちをよく表しています。彼は完全に逃げてはいませんが、堂々とイエスについていくこともできず、信じる心が揺れていることがわかります。大切な先生を見捨てることができず、同時に自分の身を守りたいという気持ちが混ざっていたのです。特に注目したいのは、ペトロを最初に見つけたのが「大祭司に仕える女中の一人」だったことです。社会的にはペトロよりも下の立場の人ですが、立場が逆転します。女中は本当のことを言い、ペトロは嘘をつこうとしています。神様の前では社会での地位は意味がなく、本当のことに向き合う勇気が大切です。神様はよく「弱い立場の人」を通して大きな真理を示されることがあります。神様の声は思いがけない場所から聞こえてくることがあるのです。67節を見てみましょう。14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」「ペトロが火にあたっている」という場面は、ただの状況説明ではありません。火は温かさと明るさをもたらしますが、同時に物事をはっきりさせる力も持っています。この火の明かりによって、ペトロが誰なのかが明らかになるのです。聖書では火は神様の存在や裁きを表し、ここではペトロの心の中を照らし出し、彼の本当の姿を見せています。身を守るための行動が、かえって心の試練を引き起こしたのです。また、女中がペトロを「じっと見つめて言った」という表現は、ちらっと見たのではなく、よく観察したことを意味します。これは真実を探ることを表しており、神様も私たちを同じように見つめ、私たちの本当の姿を知っておられます。この「見つめる」行動は、ペトロにとってとても嫌だったでしょう。隠れていたい時に正体がばれることは怖いことです。しかし、神様の愛は私たちを隠れ場から引き出し、真実の中で生きるように呼びかけています。女中の言葉「あのナザレのイエスと一緒にいた」は、事実を言っていますが、馬鹿にするような響きも含まれています。ナザレは小さな町で、「ナザレから何か良いものが生まれるだろうか」という偏見があったからです。これはヨハネによる福音書1章46節に書かれています。しかし、世の中が見下す者を神様は高く引き上げられます。「ナザレのイエス」は全ての人の救い主となったのです。ペトロは以前ならこの言葉を誇りに思ったでしょうが、今は恐れが彼の心を占めて、昔の誇りは消えていました。この物語は、私たちも神様の愛の中で真実を見つめ直すことが大切であることを教えてくれます。68節を見てみましょう。14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。ペトロの最初の否定は、比較的おだやかで、「分からないし、何のことか見当もつかない」と知らないふりをした答えでした。これは、少しずつ罪が増していくことの始まりを意味します。罪は普通、小さな妥協から始まります。ペトロはすぐに「イエスなど知らない」と言ったのではなく、まずは「分からないし、何のことか見当もつかない」と言ったのです。しかし、この「小さな嘘」が、やがて大きな否定、嘘へと進んでいくのです。「分からない」という言葉は、心を守るための反応の一つです。現実があまりにも受け入れにくいとき、人は「知らない」と言って離れようとします。ペトロにとって、イエスとのつながりを認めることは、自分も危険な目に遭うことを意味しました。生き延びたい気持ちが働き、まず「知らない」ふりをすることで誤魔化そうとしたのです。また、ペトロが「出口の方へ出て行く」という行動は、体を動かして逃げるだけでなく、心でも逃げることを表しています。真実と向き合うことから逃げ、安全な場所を探す人間の自然な反応です。しかし、神様の前から逃げることはできません。私たちがどこに逃げても、神様は私たちを見つけ出し、愛をもって戻らせてくださいます。「鶏が鳴いた」という記述は、イエスの予告が実現し始めたことを告げています。この鶏の鳴き声は夜明けの前触れであり、希望の象徴です。しかし、ペトロにとっては警告の音として聞こえたでしょう。鶏の声は、神様の力を示し、鶏の声さえも神様の計画の一部として使われます。神様は全てを支配しており、全てが神様の目的に役立つのです。66-68節には14:29での「つまずきません」という自信過剰が崩れた瞬間が描かれていて、ペトロの思い上がりの結果と言えます。コリントの信徒への手紙二12章9,10節を見てみましょう。 12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、貧しさ、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。今日、まず覚えて頂きたいことは自分の弱さを正直に認めるということです。

②失敗は終わりではない

69節を見てみましょう。14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。この女中の証言は個人的な指摘から公の訴えへと変わりました。このことにより、ペトロの立場はさらに苦しくなり、一人の疑いから大勢の注目へと広がりました。罪は隠そうとすればするほど目立つもので、真実は必ず明らかになります。「あの人たちの仲間」という言葉は、ペトロがイエス個人だけでなく、弟子たち全体とのつながりを否定しなければならない状況を示しています。私たちは個人的にイエスを信じるだけでなく、信仰の集まりの一員でもあります。このことを否定することは、信仰そのものを否定することと同じなのです。女中がペトロを追い詰め続けたことは、真実の力を表しています。真実は静かでありながらも、一度明らかになりかけると完全に明らかになるまで止まりません。70節を見てみましょう。14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」ペトロの二度目の否定は、より強いものだったと考えられます。「再び打ち消した」という表現は、彼がよりはっきりとした否定をしていることを示しています。罪は加速します。ペトロは最初の嘘を守るために、さらに大きな嘘をつかなければならなくなってしまいました。「しばらくして」という時間の表現は大切です。これは、ペトロが最初の否定の後にその場を離れる機会があったことと思いますが、彼は危ない場所にい続けました。このどっちつかずの態度は、多くの信仰者の姿を映し出しています。完全に信仰を捨てることもできず、完全に信じることもできない曖昧な立場は、大きな誘惑と試練を招くことがあります。
 そして、「居合わせた人々」がペトロを追い詰めました。最初は一人の女中でしたが、次は周りの人々全体が彼を取り囲むようになりました。罪を犯すと、私たちは周りから孤立し、すべてが敵対的に見えるようになります。実際には愛してくれる人がいるのに、恐れと罪の意識が見方を歪めてしまうのです。また、「ガリラヤの者だから」という言葉は、ペトロの出身地によって彼を見分けました。ガリラヤは独特な話し方や文化があり、エルサレムの人々には簡単に分かったのです。71節を見てみましょう。14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。ペトロの三度目の否定は、前の二回とは大きく違います。「呪いの言葉さえ口にしながら」という表現は、彼が自分自身に呪いをかけ、もし嘘をついているなら神様の罰を受けてもよいと宣言したことを意味します。これはペトロの絶望の現れです。彼は自分を救うために自分の魂さえ危険に晒す覚悟を決めました。恐れが理性を完全に支配し、彼は以前なら決してしなかった行動に及んだのです。ペトロはついにイエスを「そんな人」と呼びました。これまで「主よ」や「神の子キリスト」と言っていた方を、馬鹿にする気持ちを込めて呼ぶことは、彼の心の苦しみを示しています。恐れによって愛する人を「そんな人」と呼ばなければならない苦しみは、ペトロの心を引き裂いたでしょう。さらに、ペトロが「誓い始めた」ことは、これは神様を侮辱する行為であり、偽証以上の重大な罪です。しかし、皮肉なことに、こうした極端な誓いをすることで、彼はかえって自分の動揺と嘘を明らかにしてしまいました。この瞬間は、ペトロの転落の頂点を示しています。弟子の筆頭としてイエスを「生ける神の子キリスト」と言った同じ口で、今度は呪いをもって主を否定したのです。人間の弱さと罪の深さが、これほどはっきり描かれることは少ないでしょう。しかし、神様の恵みはこのような絶望的な状況でこそ現れます。ペトロの失敗は完全でしたが、神様の愛はそれ以上に完全だったのです。
 熱心なクリスチャンで高校の音楽教師のNさんは、教会のピアノの奏楽者としても奉仕をしていました。思春期の一人娘のYさんはピアノが得意で、ピアニストになることが夢でした。実は、Nさん自身もピアニストになることを夢見ていましたが、かなわず、一人娘のYさんへの期待がいっそう大きくなっていました。Yさんはピアニストへの登竜門ともいえるコンクールで優勝するため猛練習をしていましたが、熱心すぎる母親への反発心から練習をさぼるようになりました。ピアノの前に座ってもスマートフォンをいじるばかりで、Nさんのイライラは募る一方でした。ある夜、ついにNさんは爆発しました。「もういい加減にしなさい!」そう叫びながら楽譜を床に叩きつけ、Yさんの頬を叩きました。Yさんは涙を流しながら言いました。「お母さんは教会では愛について歌ってるのに、家では全然愛がないじゃない!」そう言って部屋に駆け込んでしまいました。その夜、Nさんは眠れませんでした。教会で「お互いに愛し合いなさい」と歌い、生徒たちには「音楽は愛から生まれる」と教えている自分が、最も愛すべき娘に何をしていたのか。翌日、牧師に相談すると、優しく答えました。「ペトロも失敗しました。でも、主はペトロを見捨てませんでした。」その日の夕方、NさんはYさんの前で深く頭を下げました。「ごめんなさい、お母さんが間違っていました。許してください。」Sさんも「私もごめんなさい」と謝り、二人は抱き合って泣きました。コンクールで優勝をすることはできませんでしたが、Nさんは娘の笑顔を見て、本当の音楽の意味を改めて理解したのです。その後、Sさんがプロのピアニストになったかは定かではありませんが、ローマの信徒への手紙8章28節を開いてみましょう。8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
 ペトロは大きな過ちを犯しました。大失敗、大失態です。ペトロの嘘を見抜いた女中は、ただ本当のことを言っただけかもしれませんが、真実は時に人を苦しい立場に追い込みます。真実は慰めをもたらすとは限らず、厳しい現実を突きつけることもありますが、しかし、それで全てが終わるわけではありません。今日、二番目に覚えて頂きたいことは失敗は終わりではないということです。

③真の悔い改めが求められる

72節を見てみましょう。14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。ペトロが鶏の鳴き声を聞いた瞬間にイエスの言葉を思い出し、泣き崩れる場面が描かれています。この「するとすぐ」という言葉は、神様の時の完璧さを示しています。ペトロの最後の否定が終わるタイミングで鶏が鳴くことは偶然ではなく、神様の計画の一部でした。「鶏が二度鳴く」ことで、イエスの預言が実現し、イエスが未来をも知ることのできる神の子であることがわかります。イエスはペトロの弱さを理解し、彼に悔い改める道を示していました。ペトロが鶏の鳴き声を聞いた瞬間、彼はイエスの言葉を思い出します。この記憶がよみがえることは聖霊の働きで、ペトロの悔い改めの始まりです。自分の罪に気づくことは痛みを伴いますが、それは癒しと赦しへの第一歩でもあります。ペトロの涙は本当の悔い改めを表し、「いきなり泣きだした」という言葉は抑えていた感情が一気に溢れ出したことを示しています。砕かれた心こそが神様に受け入れられる本当の捧げ物です。ペトロの涙には深い悔い改め、失われた関係への嘆き、自分の弱さへの絶望が込められていますが、最も大切なのは、これらの涙が希望への扉を開くことです。本当の悔い改めは常に神様の恵みと出会う場所であり、ペトロの経験は私たちにそのことを教えてくれます。ペトロは心から悔い改めました。主イエスが天にお戻りになったあとのペトロの活躍は使徒言行録に記されている通りです。今日、最後に覚えて頂きたいことは真の悔い改めが求められるということです。

Takeaways
①自分の弱さを正直に認める ②失敗は終わりではない ③真の悔い改めが求められる