• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年10月22日 Welcome礼拝 伏見敏師

説教題:疲れた者への希望の招き 聖書箇所:マタイによる福音書11章28–30節

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

ハレルヤ!10月の第四主日を迎えました。今年度から偶数月の第四礼拝ではウエルカム礼拝をおこなっており、今日は、その第四回目となります。初めて教会に来られる方にも分かりやすい励ましのメッセージをお届けします。私たちは今、目には見えなくても、心や体に重い荷物を背負っているのではないでしょうか。たとえば、満員電車での通勤や通学、終わりのない仕事、人間関係の疲れ、絶えず流れてくる情報、そして将来への不安。こうしたものが積み重なって、私たちの心と体をじわじわとすり減らしていきます。徳川家康は「人の一生は、重い荷を負うて、遠き道を行くがごとし」と言いました。また英語のことわざに、It is the last straw that breaks the camel’s back.「最後の一本の藁がラクダの背を折る」という言葉があります。わずかなことでも、それがきっかけで限界を超えてしまう――そんなことが人生には起こり得るという意味です。今は大丈夫だと思っている人でも、人生の重荷を抱えたまま、ある日突然心が折れてしまうことがあるかもしれません。誰もがその危うさを心のどこかで感じながら生きています。しかし、そんな時にこそ、2000年以上前の聖書の言葉が今も私たちに響いてきます。その言葉は、ただ慰めるためのものではありません。それは、私たちの疲れの本当の原因を見抜き、私たちに真の安らぎと希望を与えてくださる、神の力強い招きなのです。今日は、「疲れた者への希望の招き」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①真の休息はイエスにある

それでは、28節から順番に見てまいりましょう。11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。「だれでも」とあります。その中には、どんな人でも含まれています。当時の社会では、宗教指導者たちは自分たちと同じような立派な人たちを相手にしていました。でも、律法を守れない庶民や罪人とされた人々は、神から遠い存在だとみなされていたのです。ところがイエスは、そんな人たちこそ招かれました。「わたしのもとに来なさい」と。神の愛は、無条件の招きとして差し伸べられたのです。「疲れた者」とは、体だけではなく、心が疲れきってしまった人を指します。人生に迷い、希望をなくした人、人間関係で傷ついた人、自分を責め、罪の意識に押しつぶされている人です。「重荷を負う者」とは、生活の中で苦しみやプレッシャーを感じている人のことです。経済の問題、家庭の不和、仕事のストレス、人と比べてしまう劣等感、「もっと頑張らなければ」と自分を追い詰める心。これらすべてが、私たちの「重荷」です。イエスの時代、人々は律法を守ることを強いられ、細かい決まりに縛られていました。安息日は本来「休む日」だったのに、守るための禁止事項が増えすぎて、かえって苦しい日になってしまいました。39の禁止事項(種まき、耕す、刈り取るなど)があり、そこから派生して無数の禁止事項があったのです。現代の私たちも似ていると思います。絶え間ない競争、他人との比較、インスタ映えなどと言いますが、SNSで「よく見せなければ」と頑張り続ける毎日――。これらは現代の律法と言えるでしょう。私たちは認められるために働きすぎ、評価に縛られて心が休まらないのです。そんな私たちに、イエスは「わたしのもとに来なさい」と呼びかけられます。ここで大切なのは、「来なさい」という一言です。イエスは強制されません。自分の意思でそのもとに行くこと、信頼して一歩を踏み出すことを求めておられます。そしてイエスは約束されます。「休ませてあげよう」と。イエスが与える休みは、外側の状況が変わる休みではなく、心の奥底から安らぐ休みです。嵐の中でも沈まない船のように、戦いの中でも平安が守られる。それがイエスの与える「休み」です。この休みは原語ではシャロームと呼ばれます。シャロームとは、心、体、人生すべてが整い、満たされた平和のことです。イエスは、私たちがこの全人的な平和を得るために来られました。それは「疲れを癒す」だけでなく、「生き方を新しくする」招きです。私も過去に、働きすぎとストレスで心が折れそうになったことがありました。35年近く前の私が民間企業で営業職をしていたときの出来事です。当時、私は中間管理職でしたが、バブルがはじけ営業的に非常に厳しい状態に追い込まれていました。当時は毎晩、歓楽地で浴びる程お酒を飲んでいたのですが、どれだけ飲んでも酔えない時がありました。不眠症のようになってしまったのです。ある日、交通量の多い道路で信号待ちをしていたのですが、「このまま信号無視してはねられて死んでしまったら楽になるだろうな」と思ったこともありました。そのくらい精神的に追い込まれていたのです。イエスはもう、自分の力で頑張りすぎなくていい。成果や他人の評価に頼らず、神の恵みの中で生きていい。そんな自由と安らぎを私たちに与えるために、「わたしのもとに来なさい」と言われるのです。重荷を持ったままでいい。そのままのあなたで来なさい。そこに、真の休息が待っています。29節を見てみましょう。11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。イエスはご自分のことを「柔和で謙遜な者」と言われました。「柔和」とは、けっして弱いということではありません。力を持ちながらも、それを愛のために抑えている強さのことです。たとえば、野生の馬が調教されて、人に役立つ働きをするようになることを表す言葉でもあります。イエスは神の子であり、全能の力を持っておられましたが、その力を裁きや怒りではなく、愛と救いのために使われました。当時の宗教指導者たちは、高い地位を誇り、威張るような態度で人々を縛ることもありました。しかし、イエスはまったく違いました。低い立場に身を置き、罪深い人や社会からはじかれた人たちと共に食卓を囲み、子どもたちを抱いて祝福されたのです。これこそ、真の優しさであり、真の強さです。また「謙遜」とは、自分を卑下することではなく、自分を正しく知ったうえで、愛のために自分を低くすることです。聖書のフィリピの信徒への手紙には次のように記されています。2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。イエスは神のかたちでありながら、僕の姿を取り、十字架の死にまで従順に従われました。その姿において、真の謙遜の意味が示されています。イエスは「わたしの軛を負い」とも言われました。「くびき」とは、牛や馬が荷を引くときに首にかけられる木の道具のことです。二頭を一緒につなぎ、力を合わせて働けるようにするものです。当時の人々は、律法を守ることを神のくびきと呼んでいましたが、それは人を縛る重荷のようになっていました。しかし、イエスの「くびき」は違います。それは無理や縛りではなく、愛と恵みによって軽くされているくびきです。イエスのくびきは、一人ひとりにピッタリ合うように用意されています。あなたの人生にも無理なく合うように、神の知恵で作られているのです。そして何より、「イエスのくびきを負う」とは、一人で重荷を背負うのではなく、イエスと一緒に歩むことです。イエスが私たちのそばにいて、共に荷を担い、共に歩んでくださるのです。続いて、イエスは「わたしに学びなさい」とも言われました。ここでの「学ぶ」とは、知識を増やすことではなく、イエスの生き方を学ぶことです。イエスは、敵をも愛し、人を赦し、弟子たちの足を洗い、最も低いところで仕える姿を見せられました。そして十字架の上でも、「彼らを赦してください」と祈られたのです。これこそ、私たちが学ぶべき愛の姿です。このように、柔和で謙遜なイエスと共に歩むとき、心に本当の休息が与えられます。その休息は、一時的な癒しではなく、どんな嵐の中でも揺るがないものです。罪から解放され、神との関係が回復し、「自分は神に愛されている」と心から確信できる時に生まれる休息です。そしてそれは、死を超えて永遠に続く希望でもあります。今日の一つ目のポイントは真の休息はイエスにあるということです。

②主イエスの招きを受け入れる

30節を見てみましょう。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」「わたしの軛は負いやすく」とあります。先ほども申し上げましたが、イエスの「くびき」が負いやすいというのは、それが一人ひとりにぴったり合うように作られているからです。イエスは私たちの性格も、弱さも、疲れもすべてご存じです。ですから、無理な要求をするのではなく、その人が背負える分だけを共に担ってくださいます。私たちの中にある重荷──罪、弱さ、不完全さ──も、イエスは一緒に担われるのです。たとえば、毎日の仕事や家事、学校の勉強でヘトヘトになっているとき、誰かがそばにいて「一緒にやろう」と言ってくれるだけで、心が軽くなることがあると思います。イエスも同じです。私たちの人生のそばで、「大丈夫、一緒に歩こう」と語りかけてくださるお方です。また「荷が軽い」とは、問題がなくなるという意味ではありません。イエスに従う道にも、痛みや試練はあります。しかし、そこには神の目的と意味があります。だからその重さは、絶望ではなく希望へと変わるのです。たとえば、家族のために懸命に働く親の姿を思い出してください。大変な毎日ですが、愛する子の成長や笑顔を見ると、苦労が喜びに変わります。それと同じように、神の愛に支えられて歩む人生の荷は、軽やかな希望へと変えられます。繰り返しますが、当時の宗教指導者たちは、たくさんの規則を作り、人々に「これも守りなさい、あれも守りなさい」と重い荷を背負わせていました。しかし、イエスは、「神を愛し、隣人を愛しなさい」と語りました。私たちは難しい義務に縛られる必要はなく、愛をもって生きる自由を与えられたのです。そこにこそ、真の安らぎがあります。この「くびき」と「荷」を実際に負うというのは、イエスと共に歩む日々の生き方を意味します。祈りを通して神と心をつなぐこと。聖書からイエスの心を学ぶこと。人を責めず、赦しを選ぶこと。困難な時も、まず神に信頼し、助けを求めること。そうした一歩一歩が、私たちの重荷を軽くしていくのです。イエスは、今もあなたのそばで「一緒に歩こう」と語りかけておられます。このくびきは、私たち一人一人にピッタリ合うものです。どんな重荷も、イエスと共に担ぐとき、軽く、そして希望に満ちた歩みへと変えられます。もし今、あなたが人生の重荷に押しつぶされそうになっているなら、イエスの「くびき」と「荷」を知ることが、希望への第一歩になります。仕事や勉強、人間関係の悩み、自分への不安やプレッシャー――そうした重荷を一人で抱え続ける必要はありません。イエスは私たちのそばにいて、「一緒に担おう」と語りかけてくださっているのです。イエスに信頼する時、私たちは愛と恵みによって支えられ、心が少しずつ軽くされていきます。自分を追いつめる不安から離れて、神の愛に導かれる穏やかな歩みを始めることができるのです。イエスは私たちに与える休息は、単なる休憩ではなく、「意味のある人生」への新しいスタートを意味しています。信仰とは、重荷が消える人生ではありません。イエスと共にその重荷を担う人生です。主がともに歩んでくださるとき、重荷は不思議なくらい軽く感じられます。そしてその歩みの中で、今まで知らなかった深い平安と安らぎが、確かに与えられるのです。イエスの招きは、今を生きる私たち一人ひとりに向けられています。皆さんは今、どんな疲れや重荷を抱えていますか。人間関係の悩み、将来への不安、健康やお金の心配、あるいは「自分の人生に意味が見いだせない」という心の重さを感じてはいないでしょうか。イエスは、そんなあなたに優しく語りかけておられます。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この招きは、決してあなたを失望させません。なぜなら、イエスご自身が十字架の上で、私たちの罪と苦しみをすべて背負ってくださったからです。イエスのくびきは「負いやすく」、その荷は「軽い」と言われました。それは、私たち一人ひとりにぴったり合うように、愛と恵みの中で整えられているからです。しかも、私たちはそれを一人で担ぐのではありません。イエスが隣で共に歩み、最も重い部分を引き受けてくださるのです。この招きに応えることは、人生の向きを変えることです。今まで自分の力で頑張ってきた歩みを、イエスと共に歩む人生へと新しく始めるようではありませんか。そこには、これまで知らなかった平安と、心からの喜びがあります。まだイエスを救い主として受け入れていない方は、どうぞ今日、この招きに応えてください。そしてすでにイエスを信じている方も、あらためて日々の生活の中でイエスに学び、イエスと共に歩む者として新しい一歩を踏み出しましょう。今日の二つ目のポイントは主イエスの招きを受け入れるということです。

祈り

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。ハレルヤ!天の父なる神様、御名をほめたたえます。主イエスの招きに感謝します。私たちは今、心の重荷をあなたの前に委ねます。どうかそのすべてを共に担い、疲れた魂を新しい力で満たしてください。あなたのくびきは負いやすく、あなたの荷は軽いと信じます。この招きを、まだイエス様を信じていない方が受け入れることができますように。今日からの歩みも、あなたと共にあらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。