説教題: 裏切りの中で現れる神のご計画 聖書箇所:マルコによる福音書14章43-52節
◆裏切られ、逮捕される 14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。 14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。 14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 ◆一人の若者、逃げる 14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
ハレルヤ!10月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その43回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。14章27-42節を通して、「神のご計画はくつがえされない」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①人間には弱さがある ②御心を求め実行する ③神のご計画はくつがえされない でした。今日は続く14章43-52節を通して「裏切りの中で現れる神のご計画」と題しお話しをします。ご一緒に学んで参りましょう。
今日の聖書箇所では、イエスの逮捕が描かれています。ゲツセマネで神の御心に従うと決心したイエスは、それを行動に移す重要な瞬間を迎えます。弟子たちが裏切り逃げる中、イエスは恐れずに十字架の道を歩み始めます。神の計画の成就と人間の裏切りが交錯する、重要な転換点です。この出来事は、救いの物語の大切な局面であり、イエスの苦しみを通して私たちの罪が贖われ、復活の勝利へとつながります。困難な時こそ、御心に従う勇気を持ちたいものです。
①日々主に立ち返る
43節から順番に見てまいりましょう。14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。「さて」という言葉は、マルコによる福音書でよく使われる表現で、話が急に展開していくことを表しています。「イエスがまだ話しておられると」というのは、前の場面から続いていることを表していて、すべてが神の計画通りに進んでいることや、イエスがこうなることを知っておられたことがわかります。「十二人の一人であるユダ」という表現は、この裏切りがどれほど深刻なものかを表しています。ユダは外部の敵ではありません。イエスに選ばれて、三年間も一緒に過ごした弟子だったのです。身内からの裏切りは、人間の罪がどれほど深いか、そして神の愛がどれほど大きいかを同時に教えてくれます。「祭司長、律法学者、長老たち」というのは、ユダヤ教の最高法院(サンヘドリン)のメンバーたちです。彼らがイエスの逮捕に関わっているということは、これが個人的な恨みではなく、宗教的な権力者たちとイエスの対立だったことがわかります。「群衆も、剣や棒を持って」とありますが、並行箇所のヨハネによる福音者18章3節を開いてみましょう。18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。「一隊の兵士」という描写からは、この逮捕が穏やかなものではなく、暴力的で軍事的な場面だったことが分かります。44節を見てみましょう。14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダの裏切りがどれほど計画的で冷酷だったかがわかります。「裏切ろうとしていた」という言葉は、ただ主イエスを引き渡すというだけでなく、信頼関係を完全に壊してしまったことを表しています。「接吻」は、当時のユダヤ社会では弟子が師に対する敬愛を表す大切な行為でした。この神聖な行為を裏切りの手段として使うのは、本当にひどいことでした。ユダは愛を表す接吻を、憎しみと裏切りの道具に変えてしまったのです。「その人だ」という表現からも、ユダの心の変化が分かります。イエスを人として見なくなっていることを表しています。ユダにとって、イエスはもう「師」でも「主」でもなく、ただの「その人」になってしまっていたのです。「捕まえて、逃がさないように連れて行け」という指示からは、ユダがイエスの特別な力を知っていて、普通のやり方では捕まえられないかもしれないと心配していたことが読み取れます。45節を見てみましょう。14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。45節には、裏切りの瞬間が描かれています。「やって来るとすぐに」という表現は、ユダに迷いがなかったことがわかります。ユダは躊躇することなく、計画を実行したのです。「先生」という呼びかけは、表面的には敬意を示していますが、実際には偽善的な行為です。ユダは最後まで弟子らしく振る舞いながら、主イエスとの関係を裏切っています。偽善の典型例です。「接吻した」という言葉は、単純な挨拶以上の親密さを表しています。ユダがいかに巧妙に演技をしていたかが分かります。この「裏切りの接吻」は人間の罪を象徴するものとして理解されてきました。愛の行為を憎しみの道具として使うことは、人間の堕落の極みを表しているのです。ユダが主イエスを裏切った理由については、お金への欲(ヨハネ12章4-6節、マタイ26章14-16節)に加え、悪魔の誘惑(ルカ22章3-4節、ヨハネ13章27節)、また、イエスが政治的なメシア(救国の王)となることの期待への失望や誤解などですが、私たちはどうでしょうか。自分の利益や思い通りにならない失望から、知らず知らずにイエスを否定したり、信仰から離れたりしまってはいないでしょうか。信仰者であっても、日々へりくだって主に立ち返る必要があるのです。今日、まず覚えて頂きたいことは日々主に立ち返るということです。
②剣ではなく愛を選ぶ
46節を見てみましょう。14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。イエスの逮捕の瞬間が描かれています。「人々は」という言葉から、逮捕が集団で行われたことがわかります。「捕らえた」という言葉は、単なる拘束以上の意味があります。「支配する」「力でねじ伏せる」という意味も含んでいて、イエスが完全に人々の手中に落ちたことを表しています。注目すべきことは、イエスの抵抗について何も記るされていないことです。イエスは黙って逮捕を受け入れられました。この逮捕は、イザヤ書53章の「苦難の僕」の預言の成就です。イザヤ書 53章7節を開いてみましょう。53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。イエスは力で抵抗することもできましたが、神の計画に従って静かに身を委ねられたのです。47節を並行箇所のマタイによる福音書26章51,52節、ヨハネによる福音書18章10,11節と一緒に見てみましょう。14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。マタイ26:51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。ヨハネ18:10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。 18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか。」「居合わせた人々のうちのある者」とあり、マルコによる福音書にはその記述がありませんが、ヨハネによる福音書にはこの人物がシモン・ペテロであったと明記されています。ペテロのこの行動は、表面的には師を守ろうとする勇敢な行為に見えますが、実際にはイエスの非暴力の教えに反するものでした。ペテロの心には「イエスを守りたい」という熱い思いがありましたが、イエスの真の使命—十字架の死を通して人類を救うという神の計画—を理解する力が不足していたのです。
イエスはすぐに「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と命じられました。また、開きませんが、ルカによる福音書22章51節では、イエスが切り落とされた耳に触れて癒されたと記されており、緊迫した状況の中でも、イエスの憐れみと癒しの力が示されています。この出来事は、信仰者の熱心さについて重要な教訓を与えています。どんなに良い動機であっても、神の御心を正しく理解しなければ、かえって破壊的な結果を招くことがあるのです。イエスが剣の使用を否定し、敵の傷を癒されたという事実は、神の国が世俗的な力や暴力によって確立されるものではないことを表しています。現代を生きる私たちにとって、この出来事は深い意味を持っています。教会や信仰者が社会問題や対立に直面した時、「剣」ではなく「愛」をもって対応することの大切さを教えているのです。真の信仰とは、神の愛と平和の道を歩み続けることであり、それこそがイエスが私たちに示された生き方なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは剣ではなく愛を選ぶということです。
48,49節を見てみましょう。14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」イエスはここで、逮捕者たちの行動の不当性を指摘すると同時に、自身の受難が神の計画の一部であることを宣言されました。まず、イエスは逮捕隊に向かって「まるで強盗にでも向かうように」と言われました。この言葉は、彼らが剣や棒を携えて夜間にやって来たことへの鋭い批判です。イエスは毎日神殿で公然と教えを説き、人々と共におられた方でした。にもかかわらず、なぜ武装した集団で凶悪犯を捕らえるような方法を取るのでしょうか。民衆の支持を恐れ、夜の闇に乗じて行動するという卑怯な手段を選んだからです。しかし、この箇所で最も重要なのは「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」という言葉です。イエスは、自身に降りかかる苦難を単なる人間の悪意や偶然の結果として捉えませんでした。それは神の壮大な救済計画の一部であり、旧約聖書の預言の成就だったのです。この「聖書の言葉」は、先ほどもお話をしましたが、イザヤ書53章の「苦難の僕」の預言です。同段落PPTイザヤ53:5を見てみましょう。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」このように、メシアが全人類の罪を背負って犠牲となることが預言されていました。ユダの裏切りも実に神のご計画の一部なのです。オーケストラの演奏会を想像してみてください。弦楽器は美しいメロディーを奏で、木管楽器は軽やかな音色を響かせます。しかし、金管楽器は鋭い音を出し、打楽器は激しく打ち鳴らされます。一つの楽器だけを聞くと、打楽器は「うるさい」、金管楽器は「耳が痛い」と感じるかもしれません。不協和音という、一見美しくない音もあります。しかし、指揮者の指揮のもとで全体が調和すると、それは美しい交響曲になります。打楽器の激しい音は力強さを与え、金管楽器の鋭い音は勝利の喜びを表現し、不協和音でさえも美しいハーモニーを際立たせる大切な部分だったのです。私たちの人生も同じです。病気、失業、家族の死、裏切りなど、一つ一つを見ると理解できない苦しみがあります。「なぜ私だけが」「なぜ神様は助けてくださらないのか」と思うことがあります。しかし、神様は永遠という長いスパンで見て、私たちの人生全体を美しい交響曲として作り上げておられます。今は辛い出来事も、いつか人生全体の中で美しい意味を持つようになります。指揮者が演奏者一人一人を知り尽くして最高の音を引き出すように、神様も私たち一人一人を完全に知っておられ、最も良いタイミングで最善のことをしてくださいます。演奏会が終わった時、演奏者は「あの激しい打楽器があったから、より感動的になったのだ」と気づきます。私たちも人生を終えた時、今は理解できない苦しみにも美しい意味があったことを知り、「神様の計画は完璧でした」と感謝することでしょう。私たちには今、人生の全体像が見えません。しかし、完璧な指揮者である神様の手の中にあることを信じ、今日与えられた役割を精一杯果たしていくことが大切なのです。イエスの受難は、私たち一人ひとりの罪の赦しと救いのためでした。私たちもまた、時として罪を犯し、神に背き、イエスを十字架につける側に回ってしまうのです。だからこそ、イエスの「聖書が成就するため」という言葉は、私たちに深い悔い改めと感謝を促しているのです。神は私たちの罪と背きを知っておられながら、なおイエスを通して救いの道を備えてくださいました。イエスは逮捕という困難な状況の中でも、神の計画を信頼し、最後まで父なる神への完全な服従を貫かれたのです。私たちも人生の困難や試練の中で、神の御心に信頼して歩む者となりましょう。そして、イエスの十字架の愛に応えて、感謝と献身の生活を送る者となろうではありませんか。50-52節を見てみましょう。14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。イエスの逮捕の場面で、最も親しいはずの弟子たちは、「皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。弟子たちの逃亡によって、イエスは完全に孤独となり、一人で受難の道を歩むことになりました。この描写は、人間の弱さ、罪深さ、そして試練に直面した時の限界を浮き彫りにしていて、人間の本質的な弱さと罪深さを象徴しています。イエスが捕らえられる夜、「一人の若者」が薄い布一枚をまとってついてきていました。弟子たちが皆逃げた後も、彼は主のそばにいようとしました。しかし、結局、人々が捕らえようとすると、彼もまた逃げ去りました。この若者は私たち自身の姿です。心ではイエスに従いたいと願いながらも、困難に直面すると弱さを露呈してしまいます。しかし、そんな不完全な私たちのためにこそ、イエスは十字架への道を一人で歩まれたのです。神の愛は、私たちの弱さを知った上で注がれる完全な愛なのです。神の救いの計画は、イエスの十字架と復活によって成し遂げられましたのです。人間の弱さ、ユダの裏切りは、神が定められた救いの歴史の中で、人間の罪深さを逆用して成就された出来事です。つまり、十字架は偶発的な出来事ではなく、神の「ご計画」によって起こったことです。したがって、ユダが裏切らなかったとしても、神の方法で別の形を通してでも、十字架は必ず実現したのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは神様のご計画は完璧ということです。注意して頂きたいことは、たとえ神のご計画の中に組み込まれていたとしても、ユダ自身の罪は免れません。ユダの裏切りは神に強制されたのではなく、彼自身の欲・不信仰・決断による罪だったということです。
Takeaways
①日々主に立ち返る ②剣ではなく愛を選ぶ ③神様のご計画は完璧