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2025年11月2日主日礼拝 伏見敏師

説教題群衆の声or良心の声?聖書箇所:マルコによる福音書15章1-15節

 ◆ピラトから尋問される 15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。 15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。 15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。 15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」 15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。 ◆死刑の判決を受ける 15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。 15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。 15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。 15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。 15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

ハレルヤ!11月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その46回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。14章66-72節を通して、「鶏の声が聞こえたとき-真の悔い改め」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①自分の弱さを正直に認める ②失敗は終わりではない ③真の悔い改めが求められる でした。今日の聖書箇所では、イエスがピラトのもとで裁かれ、十字架につけられることになります。見た目には、イエスが負けたように思えますが、実はここに本当の王としての姿と、神の深い愛が現れています。ユダヤの指導者やローマの人々、群衆はそれぞれ自分の考えで動きましたが、その不公平でつらい出来事の中でも、神の救いの計画はちゃんと進められていました。この出来事は、人の罪や弱さ、そしてそれをすべて受け入れてくださる神の愛を教えています。今日は続く15章1-15節を通して「群衆の声or良心の声?」と題しお話しをします。ご一緒に学んで参りましょう。

①神のご計画を信頼する

1節から順番に見てまいりましょう。15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。

朝になると、イエスはユダヤの指導者たちによってローマの総督ピラトのところに連れて行かれました。そのころユダヤの国はローマに支配されていて、ユダヤの最高法院には人を死刑にする力がなかったので、イエスを処刑するにはローマの裁判が必要でした。ユダヤの指導者たちは、イエスが多くの人に支持され、奇跡を行うのを見て、ねたみと不安を感じました。自分たちの立場が危うくなるのを恐れたのです。そこで、自分で手を汚さずにイエスを排除しようと、ローマの力を利用しました。この出来事は、権力のある人が自分を守るために正しいことをねじ曲げ、他の力を使う姿を表しています。しかし、そのような不公平に見える出来事の中でも、神の救いの計画は確かに進んでいたのです。

2節を見てみましょう。15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。

ローマの総督ピラトは、イエスが「ユダヤ人の王なのか」どうかを問いただしました。ピラトの仕事は国の秩序を守ることで、もしイエスが皇帝に対して反乱を起こす王だとしたら、大きな問題になるからです。ピラトは、ユダヤ人の宗教的な訴えを政治の問題として扱おうとしました。イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答え、はっきりと「はい」や「いいえ」とは言いませんでした。この言葉には、イエスがピラトの考えるような地上の王ではなく、神の国の王であることが示されています。イエスの力は武力ではなく、真理によるものでした。この会話は、地上の力を重んじるピラトと、神の国の支配を語るイエスとの考えの違いをはっきりと表しています。ピラトは反乱を起こす人を探していましたが、イエスは愛と真理によって人を導く王でした。その姿はやがて、十字架で自分の命をささげることによって示されるのです。

3-5節を見てみましょう。15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。 15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」 15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

祭司長たちは、ねたみや自分の立場を守るために、イエスにたくさんのうその訴えをしました。しかし、イエスは何も悪いことをしていなかったのに、弁解をしませんでした。その沈黙に、ローマの総督ピラトはとても驚きました。ふつう、反逆の罪で訴えられた人は、自分を守ろうとして強く言い返すものだからです。 でも、イエスの沈黙はあきらめではなく、旧約聖書に書かれていた「苦しみを受ける僕」(イザヤ書52章13節〜53章12節)の姿を実現するものでした。その預言には、罪のない人が苦しみを受けても口を開かず、神の計画に従う姿が描かれています。イエスは、苦しみさえも神の救いの計画の一部だと信じ、真の王として従順な心を示されました。 この場面は、大きな声よりも、静かな沈黙の中に本当の強さと真理があることを教えています。祭司長たちはうそとねたみの言葉を語りましたが、イエスの沈黙は神を信じる心と真の愛を表していました。 私たちも、つらいときに自分の力だけで何とかしようとするより、神が最善の計画を持っておられることを信じて、静かに従うことが大切です。そのような信頼の歩みは、最後に神の勝利と栄光につながります。今日、まず覚えて頂きたいことは神のご計画を信頼するということです。神のご計画を信頼する

群集心理に陥らない。

6-8節を見てみましょう。15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。 15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。

過越祭のときになると、「ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放」するという習慣がありました。これは、人々の不満をやわらげ、祭りの間の平和を保つために行われていたものでした。この習慣は、神がすべてを支配しておられることを示す出来事でもありますが、同時にイエスの死を決定づけることにもつながる皮肉な出来事でした。ピラトにとっては、イエスを助け出すためのよい機会のように思えたのかもしれません。 「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男」がいました。バラバは人殺しの囚人ですが、後ほど、詳しくお話をします。 群衆が集まってきて、「いつものようにしてほしいと要求し始め」ました。群衆の登場が、この物語を大きく動かすきっかけとなります。祭りの熱気の中で、人々は感情的になり、冷静に考えることができなくなっていました。この時点では、まだイエスとバラバのどちらを釈放するかは決まっていませんでしたが、この小さな要求が、やがて歴史を変える大きな出来事へとつながっていきます。私たちのふだんの選択や行動も、思いがけず大きな結果を生むことがあるのです。

9-11節を見てみましょう。15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。

群衆が囚人の釈放を求めてきたとき、ピラトは「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」とたずねました。ピラトはこの機会を使ってイエスを助けようとしました。彼は、祭司長たちがねたみの心からイエスを差し出したことを見抜いていたのです。表向きは宗教や政治の理由のように見えても、実際にはイエスの人気への嫉妬が動機でした。外国人であるピラトが、宗教指導者たちの本当の思いを理解していたのは、なんとも皮肉なことです。しかし、祭司長たちはすぐに「バラバを釈放するように」と群衆をあおりました。バラバの名前はアラム語で「父の子」という意味で、同じく「神の子」であるイエスと対照的です。バラバは暴動と殺人をした本当の罪人で、ローマに反抗する戦士だったと考えられます。群衆は、暴力で国を救おうとするバラバか、愛と犠牲によって救いをもたらすイエスかという、二つの方向の間で選ばなければなりませんでした。 わずか五日前に「ホサナ」と叫んでイエスを迎えた人々が、今は「バラバを」という叫びに変わったのは、人間の気持ちの移ろいやすさを表しています。彼らは力ある政治的な救い主を望み、イエスの語る平和の救いを理解できませんでした。この出来事は、人が自分の力で救われようとし、神の救いの道を拒む罪の姿を映し出しています。バラバは、イエスが身代わりとなって自由にされた、私たちすべての罪人の姿でもあるのです。

12-14節を見てみましょう。15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。 15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。

この場面では、イエスに罪がないことを分かっていたピラトが、なんとか釈放しようと最後の努力をしています。彼は群衆にイエスをどうしたいか尋ねますが、「ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者」と言うことで、イエスを直接非難するのを避けようとしていました。ピラトは、群衆がイエスを助けてくれることを期待していましたが、次第にそうならないことを悟っていきます。 しかし、群衆の叫びははっきりしていました。「十字架につけろ」という言葉は、当時もっとも残酷で恥ずかしい死刑を意味します。たとえ祭司長たちのあおりがあったとしても、それは群衆自身の選択でもありました。わずか数日前にイエスを王として迎えた人々が、今はその同じ口で死刑を叫んでいるのです。この出来事は、人の心がどれほど変わりやすく、集団心理がどれほど恐ろしいかを示しています。イエスの語った愛と真理の道が退けられ、暴力と憎しみの道が選ばれたのです。 ピラトは最後に「いったいどんな悪事を働いたというのか」と問いかけ、正義に訴えます。けれども群衆は聞く耳を持たず、「ますます激しく」叫び立てました。冷静な考えが失われ、感情が正義を押しのけてしまったのです。 この場面は、正しさと感情のどちらを選ぶかという人間の姿をよく表しています。ピラトのように真実を知りながらも周囲に押されて正しい判断をためらうことは、今の時代にも通じます。SNSやメディアの影響で、人々は簡単に扇動されやすくなっています。だからこそ、キリスト者は流行や多数派に流されず、聖書の視点から冷静に考え、真実を見分ける力を持つことが大切です。昭和の時代に、ビートたけしさんは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言いました。これは、日本の社会を笑いながら批判した言葉です。この言葉の中には、群集心理という考えが隠れています。1974年のオイルショックのときと、2020年のパンデミックのときに、トイレットペーパーの買い占めが起こりました。どちらの出来事も、うわさと人々の不安な気持ちが結びついたときにどんな危険があるかを教えています。実際には、トイレットペーパーは十分にありました。それでも「みんなが買っているから、自分も買わなきゃ」と考える人が増え、うわさが本当のように見えてしまいました。一人のときは落ち着いて判断できる人も、大勢の中に入ると感情で動いてしまうのです。これが群集心理であり、同じようなことが何度も起こる理由なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは群集心理に陥らないということです。

③神の真理に生きる

15節を見てみましょう。15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

15節は、ピラトという人物の悲しい姿をよく表しています。「群衆を満足させようと思って」という言葉は、彼が自分の判断を政治的な理由で決めたことを示しています。ピラトは最後に、正しいことを行うよりも、自分の立場や評判、そして祭りのときに起きるかもしれない暴動を避けることを選びました。彼は正義よりも人々の機嫌を取る道を選んだのです。バラバの釈放とイエスの処刑は、人の価値観がどれほどゆがむかを示しています。暴力をふるった罪人が自由になり、愛と平和を語った人が死刑になるという、まったく理不尽な結果になりました。ピラトはイエスを鞭で打てば人々の怒りがおさまると思いましたが、それはかえって彼らの要求を強めることになりました。ローマの鞭打ちは非常に残酷で、死刑の前に受ける苦しい罰でした。ピラトの妥協は、さらに暴力を呼び込み、最後には自分でも「正しくない」と知りながらイエスに死刑を言い渡しました。イエスが罪のないことを三度も言いながら、圧力に負けてしまったのです。この出来事は、ペトロがイエスを三度否定したことと重なります。ペトロはあとで涙を流して悔い改めましたが、ピラトは「手を洗う」という行動で、自分の責任から逃れようとしました。このことはマタイによる福音書27章22-24節に記されています。開いてみましょう。27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」

ピラトの手を洗う行為は、昔の中東の文化では、罪やけがれを清めるしるしのようなものでした。ピラトは「この人の血について、私には責任がない」と言って、群衆の前で手を洗いました。けれども、実際に裁きを下す力を持っていたのはピラト自身でした。どんなに手を洗っても、本当の責任から逃れることはできなかったのです。15節から学べる大切な教えの一つは、「何もしないことによって悪に加わる罪」の重さです。ピラトはイエスを強く憎んでいたわけではありません。しかし、イエスが罪のないことを知りながら、自分の立場を守るために正しい判断をあきらめました。その結果、彼は人類の歴史の中で最も重い罪に関わる人物として、信仰告白の中でも名前が残ることになったのです。彼は良心の声よりも、人々の声に従ってしまいました。私たちも、正しいことをすることで人とぶつかったり、損をしたりするのを恐れて、間違った道を選んでしまうことがあります。でも、イエスが神の御心に従われたように、わたしたちも自分の利益より神様の真理を大切にすべきです。そこにこそ、本当の平安と希望があるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは神の真理に生きるということです。

Today’s Takeaways
神のご計画を信頼する ②群集心理に陥らない ③神の真理に生きる