説教題:キリスト者の成長 聖書箇所:マルコによる福音書8章14-26節
◆ファリサイ派の人々とヘロデのパン種 8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。 ◆ベトサイダで盲人をいやす 8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。 8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
ハレルヤ!二月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその25回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。8章1-13節から「天からのしるしであるイエス・キリスト」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①思い煩いはやめる ②全人類の救い主であることを示すため ③主イエスの存在がしるし でした。今日は続く8章14-26節を通して「キリスト者の成長」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①問題の本質を見誤らない
14,15節から順番に見てまいりましょう。8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。イエスは「ダルマヌタの地方」を去り、舟で湖を渡って行かれました。しかし、「弟子たちは」急いでいたためか、「パンを持って来るのを忘れ」てしまっていたのです。舟に乗り込んでからそのことに気づき、「舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」ことが判明しました。たった一つのパンでは全員で食べることができず、弟子たちは困惑しながら話し合っていたことでしょう。その様子を聞いたイエスは、この出来事をきっかけとして「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。しかし、弟子たちはこの言葉の真意を理解することができませんでした。主イエスの言葉を理解するためには、「パン種」の意味を知る必要があります。「パン種」とは、イースト菌のことを指します。現代訳聖書やアライブ訳聖書などでは「イースト菌」と訳されています。「イースト菌」はパンを作る際に使用され、少量を混ぜるだけで生地全体を膨らませる働きを持つものです。この特性から、聖書では「パン種」という言葉が、善悪を問わず小さなものが大きな影響を与えることの象徴として用いられています。マタイによる福音書13章33節とコリントの信徒への手紙一5章6節を開いて見ましょう。マタイ 13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」コリント一 5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。マタイは良い意味でコリント一は悪い意味で使われています。他にも開きませんが、良い意味で使われている例えは、ルカによる福音書13章20,21節に記されています。悪い意味で使われている例えは、ガラテヤの信徒への手紙5章9節に記されています。例えの数から言うと悪い意味で使われている場合が多いです。では、この箇所では「パン種」とは具体的に何を示しているのでしょうか。ファリサイ派の誤った批判精神とヘロデの世俗主義です。イエスはファリサイ派の誤った批判精神とヘロデの世俗主義にくれぐれも気を付けるようにと警告をされたのです。より大きな意味で解釈をすればユダヤの宗教的勢力とローマ帝国の権力に対する警告と言えます。彼らの政治的野心を指しています。「パン種」、「イースト菌」と同様に彼らの批判精神や世俗主義も、少しでも人の心に入ると大きくなり宣教の働きを破壊させる危険性を含んでいたのです。16節を見てみましょう。8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスの言葉を巡って弟子たちは「論じ合っていた」ものの、彼らにはイエスの警告の真意が理解できていませんでした。それには二つの理由があります。第一に、彼らの心が食べるパンの方に奪われていたことです。弟子たちは、パンを持って来なかったことをイエスに責められていると考えていたのです。これは、すでにファリサイ派とヘロデのパン種(批判精神や世俗主義)の影響を受け始めていたといえるでしょう。第二の理由として、弟子たちが師であるイエスに迫るファリサイ派とヘロデの危険に気づいていなかったことが挙げられます。ファリサイ派は本格的にイエスを陥れようと謀り始めていましたが、弟子たちはその深刻さに全く気づいていなかったのです。物事の本質に目を向けることができずに、パンがないことを議論していたのです。ある大工が家を建てるために木材を購入しました。その木材を運ぶ途中、彼は一部に傷があるのを見つけました。「この傷をどうやって目立たなくしようか」と気にするあまり、彼はそのことばかりに集中してしまいます。やがて家が完成しましたが、しばらくして家全体が傾き、ついには倒壊してしまいました。原因を調べると、基礎がしっかりしていなかったことが判明します。そのとき大工は、自分がどれほど表面的なことに気を取られ、本当に重要な基礎の部分を見落としていたかを深く後悔しました。この失敗をきっかけに、大工は「物事の本質に目を向けること」の大切さを学び、次の仕事からは土台作りに細心の注意を払うようになったのです。さて、私たちはどうでしょうか。イエスの弟子やこの大工と同じようなことをしてはいないでしょうか。問題の本質も、差し迫る危機も見えないまま、目先の現象に心を奪われ、無意味な議論を繰り返してはいないでしょうか。今日、先ず覚えて頂きたいことは問題の本質を見誤らないということです。
②霊の目と耳を開く
17-21節を見てみましょう。8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
イエスは、問題の本質を理解できない弟子たちに警告を与え、霊的な理解の欠如を厳しく戒められました。「まだ分からないのか」、「悟らないのか」という言葉を繰り返すことで、弟子たちの霊的理解の鈍さを強調されたのです。イエスの言葉をわかりやすく言い換えると、次のようになるでしょう。「あなたたちは、五千人と四千人の給食という二度にわたるパンの奇跡を覚えていないのですか。わたしは必要であれば、いつでも、いくらでもパンを与えることができます。だから、わたしはあなたたちがパンを持ってくるのを忘れたことを問題にしているのではありません。むしろ、ファリサイ派の誤った批判精神とヘロデの世俗主義に注意しなさい。これらは、人の心に入り込むと、あっという間に大きくなってしまうものです。」弟子たちは、パンの奇跡を歴史的な出来事として記憶していましたが、その内的な意味を理解していませんでした。イエスは、弟子たちの霊的無知と視野の狭さに深い悲しみと孤独を覚えられたことでしょう。それは、やがてイエスが十字架の苦しみを受けるとき、弟子たちにその受難の意味を少しでも理解してほしいと願っていたからです。この警告は単なる非難ではなく、弟子たちの霊の目と耳を開き、彼らの成長を心から願うものでした。さて、私たちの霊の目と耳は開かれているのでしょうか。 私たちの周囲には常に問題があります。病が癒されたと思えば、経済的な問題が起こることもあります。次々に問題が押し寄せます。しかし、どのような問題も解決してくださる主イエスがおられることを忘れてはなりません。私たちは独りではないのです。主が共におられるのに、それを信じないことが問題解決を妨げているのではないでしょうか。日々のデボーションを通して、霊の目と耳を開いていきましょう。今日、二番目に覚えて頂きたいことは霊の目と耳を開くということです。
③キリストの身の丈に成長する
22-25節を見てみましょう。8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。22節から話題が変わります。この奇跡はマルコによる福音書にしか記述がありません。新共同訳聖書の小見出しは「ベトサイダで盲人をいやす」です。イエスは、ベトサイダで一人の盲人を癒されたのですが、この癒しには二つの意味が込められていました。一つ目は、先の「パン種」の問答の中でイエスが言われた8:18の「目があっても見えないのか」という言葉の一つの現実的表現です。先週お話ししましたが、マルコによる福音書には16章ありますので、8章はちょうど真ん中にあたります。この真ん中に大きな山、クライマックスがあります。分水嶺とも峠とも言えます。それは、次週に学ぶ8章27-38節に記されているペトロの信仰告白と受難のことですが、「ベトサイダで盲人をいやす」出来事はその大きな山に入る入口なのです。8章27-38節に記されているペトロの信仰告白と受難の予告の伏線としての意味があったのです。これが二つ目の意味です。この奇跡には二つの特徴があります。一つは、その盲人を「村の外に連れ出し」目を直し、「この村に入ってはいけない」と命じたことです。これは癒しが愛の業であり、見世物ではないからです。また、見えるようになった時のショックを少なくするための二重の配慮とも言えます。二つ目の特徴は、癒しが段階的に行われたことです。イエスの「何か見えるか」という問いかけに対して、最初は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答え、次は「何でもはっきり見えるようになった」とあります。これも、急激な変化に惑わされないためのイエスの配慮です。弟子たちが霊的真理に対して目が開かれるのもこれと同じです。初め彼らは霊的な盲目ですが、繰り返し語られるイエスの言葉によって次第に目が開かれていくのです。ですから、イエスは弟子たちが霊的に盲目であることを悲しんでも失望することはなかったのです。私たちの霊的成長も同じです。一気に成長するわけではありません。いろいろなことを通して段階的に成長していくのです。6年前、母校である東京神学校の50周年記念会で証をするよう頼まれました。「東京神学校で学んだことの中で、現在、一番役立っていること」について話す依頼でした。校長の尾山令仁先生から学んだことは計り知れないものでしたが、特に心に残っているのは、尾山先生がチャペルで語られた説教でした。毎週火曜日、授業前に行われるチャペルタイムで、先生はこう語られました。「皆さん、今も生きておられるイエスを体験してください。」説教題や聖書箇所は覚えていませんが、先生が語られた自身の体験、数々の試練、そしてそれを主がどのように解決されたのかという証が深く心に刻まれています。特に、地上7階・地下2階の現在の教会堂が与えられるまでの試練と恵みの証は圧巻でした。これらの体験を通じて、信仰が成長したという先生の言葉に、私は大きな励ましを受けました。私自身、キリストと出会って20年、牧師となり約12年が経ちます。この間、良いことも悪いこともたくさんありました。泣きたいときや逃げ出したいときもありました。このようにキリスト者は段階的に成長をしますが、最終的な目標は、キリストに似た者になることです。エフェソの信徒への手紙4章13節を見てみましょう。 4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」今日、三番目に覚えて頂きたいことはキリストの身の丈に成長するということです。
④配慮を忘れない
聖書箇所に戻り、26節を見てみましょう。8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。「この村に入ってはいけない」と言われた理由は民衆に対する配慮です。この福音書の7章31-37節に記されている「耳が聞こえず舌の回らない人」が癒された後、そこにいる人々に誰にも言ってはいけないと告げました。ご自身が単に癒しを行う者と思われたくなかったからです。そして、いよいよ十字架への道を歩まなくてはならず、弟子の育成に力を入れなければばらなかったのです。しかし、主の意思とは反して、「口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」ことを学びました。イエスは民衆の誤った期待が大きくなり、ファリサイ派の人たちとも対立が深まることを、決して望んではおられなかったのです。イエスが望まれていたのは、民衆が神の国の福音を信じ、弟子たちが真理に目覚めることだったのです。イエスは、いつでも人々に対する鋭い洞察と配慮に満ちておられました。さて、私たちはどうでしょうか。主イエスのように配慮に満ちているでしょうか。自分の事だけを考えていないでしょうか。配慮すべき方を忘れてはいないでしょうか。今日、最後に覚えて頂きたいことは配慮を忘れないということです。
Today’s Takeaways
①問題の本質を見誤らない ②霊の目と耳を開く ③キリストの身の丈に成長する ④配慮を忘れない