説教題:山上の変容~復活と再臨の予表~ 聖書箇所:マルコによる福音書9章2-13節
◆イエスの姿が変わる 9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
ハレルヤ!二月の第四主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその27回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。8章27節-9章1節から「初めての受難予告~主イエスと福音を誇ろう~」と題し、四つのことを中心にお話をしました。①信仰は自分自身によるもの ②受難は神のご計画の一環 ③イエスの愛に触れることで、自分を捨てることができる ④主イエスと福音を誇りとする でした。今日は続く9章2-13節を通し、「山上の変容~復活と再臨の予表~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
今日の聖書箇所は一般的に「山上の変容」あるいは「主イエスの変容」と呼ばれる出来事が描かれており、主イエスの公生涯の中でも特に重要な場面です。変容を「変貌」と呼ぶこともあります。この出来事を幻覚や象徴的に理解すべきだという意見もありますが、これは神の子の超自然的な出来事として解釈すべきものです。この出来事の中には、イエスがメシアであることが表明され、神的な姿が示されています。
①主イエスの復活と再臨の予表
2,3節から順番に見てまいりましょう。9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。「六日の後」とあります。この出来事は、イエスが自らの死と復活を初めて予告した「六日の後」に起こりました。前回学んだマルコによる福音書8:31-38節に記されている出来事です。弟子たちは、イエスが「キリスト」であることを認識し始めつつも、イエスの使命がどのように成就するのかは完全には理解していませんでした。そこで、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて高い山に登りました。以前にもお話ししましたが、この三名の弟子のみが特に重要な出来事に預かることができたのです。開きませんが、後ほどこの福音書の5章37節、14章33節を読んでください。「高い山」がどの山かは聖書に記されていませんが、8章27節前半には次のように記されていますので、ヘルモン山のことだと思われます。8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。ヘルモン山は現在のレバノンとシリアの国境にあるアンチレバノン山脈の最高峰で、最高点の標高は2,814mです。高い山に登った理由はマルコによる福音書には記されていませんが、並行箇所のルカによる福音書9章28節には「祈るために山に登られた」と記されています。そして、高い山に登ると、イエスは三人の弟子の前で栄光の姿に変容したのです。具体的には「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とある通りです。イエスは一時的ではありますが、地上の人間の姿から天上の栄光の姿に変わったのです。服が真っ白に輝いたことは、イエスの栄光の姿を象徴するものです。ペトロの信仰告白、受難の予告に続いて、イエスは栄光を表す姿に変わりました。この受難と栄光が結びついたところに、真の救い主の姿があるのです。並行箇所のマタイによる福音書17章2,3節にはイエスの顔が変わったことも記されています。開いてみましょう。17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。シナイ山で神にお会いしたモーセの顔も光を放ち輝いていました。出エジプト記34章29節を開いてみましょう。34:29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。モーセの場合は神の栄光を映して光を放ったのに過ぎませんが、イエスの輝きは神の栄光そのものでした。これはちょうど月と太陽の光り方の違いのようで、一方は光を反射しているだけなのに対して、他方は光を放つ本体なのです。イエスは、この栄光の姿によってご自身が神であることを示されたのです。4,5節を見てみましょう。9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」「エリヤ」と「モーセ」の名前が記されています。「エリヤ」は預言者を代表し、「モーセ」は律法を代表しています。この二人が現れて、イエスと語ったことは、イエスが預言者と律法の成就者であることを、弟子たちに示すためでした。さらにまた、律法と預言者と言えば旧約聖書のことでもあります。従ってこの「主イエスの変容」の出来事は、イエスが旧約聖書の完成者であることも示しています。マラキ書3章22,23節(新改訳、口語訳では4章4-5節)には次のように記されています。見てみましょう。 3:22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。 3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。ペトロはイエスとモーセとエリヤのために「仮小屋を三つ建てましょう。」と提案をしました。それは一時的なものでした。ある人が豪華なテントを買い、自然の中で快適に過ごせるようになりました。しかし、どんなに良いテントでも、嵐や時間の経過によって弱くなり、やがては撤去しなければなりません。一方で、しっかりとした家は長く持ちます。ペトロの「仮小屋を三つ建てましょう。」という提案は一時的なものです。しかし、神の計画はそれよりもはるかに大きく、永遠のものです。私たちは目の前の感動や快適さにとらわれるのではなく、神の御心を求めるべきです。「仮小屋」は幕屋であり、イスラエルの民が荒野の中を過ごした小屋ですが、同時に終末の時の永遠の住まいの意味もあります。ここには「モーセ」と「エリヤ」とが終末の日に関係し記されていますが、「主イエスの変容」の出来事は、再臨、終末の日を暗示させるだけではなく、救い主イエスが栄光の主であり、旧約聖書の完成者であることを示しているのです。ペトロは、モーセとエリヤを客として迎えることが出来た事を「すばらしいことです。」と褒めたたえています。ペトロにはそこまで理解出来ていなかったと思いますが、三者の会合は、最高の祝福の時であり、また、神が人と住まれるという永遠の祝福としての終末的な意味もあるのです。世の終わりにおけるイエスによる律法と預言の成就、そして神が人と共に住むという情景が象徴されているのです。この山上の出来事は主イエスの復活と再臨の予表なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはこの出来事は主イエスの復活と再臨の予表ということです。
ところで、予表に似た言葉に予型があります。どちらもキリスト教神学で使われる概念ですが、意味が異なりますので説明を致します。
予表(Typology)
旧約聖書の出来事や人物が、新約聖書における出来事やキリストを象徴的に指し示していること。
例:「モーセがイスラエルの民を導いたことは、キリストが人々を救うことの予表である。」
予型(Prototype)
ある概念や存在の原型となるもの。
例:「アダムはキリストの予型である。」(ローマ5:14)
簡単に言うと、予表は象徴的な先取り、予型は原型です。
②福音を伝える方の理解度を考慮する
6,7節を見てみましょう。9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」三人の弟子は「非常に恐れて」いました。想像を絶する光景を目にして、ペトロはこれ以上他に言うべき言葉がなかったのです。「すると、雲が現れて彼らを覆い」とあります。雲は栄光の神の存在を表すものとして、旧約聖書の中でしばしば重要な役割を果たしていました。出エジプト記16章10節を開いてみましょう。16:10 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。開きませんが、出エジプト記19章9節とレビ記16章2節にも雲について記されていますので、後ほど読まれてください。このように雲は神の栄光の象徴ですが、同時に終末の象徴でもあるのです。ダニエル書7章13節を見てみましょう。7:13 夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進みます。」変容というその時が、同時に終末の時も示しているのです。そして、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」との声がありました。雲のみでは明確でなかった変容の出来事が、この声によってはっきり示されたのです。イエスは実に神の子であり、救い主なのです。この宣告は8章29節に記されていたペトロの信仰告白を裏付け、確証するものでした。8節を見てみましょう。9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。弟子たちには主イエスの他には誰も見えなくなってしまいましたが、これはむしろ、自分たちと共におられる主を改めて発見したものと言えるでしょう。栄光の主は、この変貌の山に留まろうと思えば留まれたことでしょう。しかし、主は父なる神から与えられた使命を果たすために下山したのです。9,10節を見てみましょう。9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。山を下りながら、イエスは弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と命じられました。弟子たちはこの言葉を心にとめて守りましたが、主イエスの復活については理解ができていませんでした。「死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」とある通りですが、山上においてモーセとエリヤと三人で話し合っていたという出来事を、すぐに人々に話したところで理解できるはずがないので、「今見たことをだれにも話してはいけない」と言われたのです。物事にはタイミングがあります。当時、サドカイ派を除き、一般的に死人の復活は信じられていましたが、イエスが語る復活とは、人の子であるイエスが実際に復活された後に初めて真の意味がわかるものなのです。このイエスが命じられたことから適用がわかります。福音に関することであれば、何でも話して良いわけではありません。語る相手の理解度に応じて話さなければならないのです。一度に何もかも話すことは、むしろ理解を妨げることになるのです。私は牧師ですので、このことを肝に銘じています。今日、二番目に覚えて頂きたいことは福音を伝える方の理解度を考慮するということです。
③救い主は十字架に掛るために遣わされた
11-13節を見てみましょう。9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」とありますが、この箇所は先ほど、開いたマラキ書3章23節(新改訳、口語訳ではマラキ書4章5節)」の内容からの引用です。もう一度、開いてみましょう。3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。イエスの弟子たちはマラキ書に記されている預言のことを知っていたのです。エリヤがまだ来ていないので、イエスに尋ねたのです。すると、イエスは次のように答えられました。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」主イエスがここで語っておられることは、バプテスマのヨハネこそがエリヤの再来であり、ヘロデ王がヨハネを殺してしまったように、自分も「聖書に書いてあるように」殺されることになっているということです。「聖書に書いてある」とはイザヤ書53章のことです。5節と6節を見てみましょう。「53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」後ほど、53章全体を読まれてください。また、マタイによる福音書11章14節で、イエスはバプテスマのヨハネについてこう述べています。見てみましょう。マタイ 11:14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。バプテスマのヨハネがエリヤの再来であるというのは、象徴的・霊的な意味であり、物理的な再来を指しているわけではありません。イエスの道備え役であったバプテスマのヨハネは殺されました。そして、イエスもまた十字架への道を歩まれたのです。イエスは武力によってイスラエルを解放するメシアとしてこの世に遣わされたのではなく、私たちの罪を十字架で背負い、命を捧げられるメシアなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは救い主は十字架に掛るために遣わされたということです。
Today’s Takeaways
①主イエスの復活と再臨の予表 ②福音を伝える方の理解度を考慮する ③救い主は十字架に掛るために遣わされた