• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年3月16日主日礼拝 伏見敏師

説教題神の国に勝るものはない~キリストが平和の基~聖書箇所:マルコによる福音書9章38-50節

 ◆逆らわない者は味方 9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 ◆罪への誘惑 9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 9:44 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 9:46 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

ハレルヤ!三月の第三主日を迎えています。レント(受難節や四旬節とも言います)の期間ではありますが、引き続き、マルコによる福音書を講解で学びます。今日はその30回目です。4月20日のイースター礼拝には復活について記されている書簡からお話しします。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。9章30-37節を通し、「十字架は誰のため~真の偉さ~」と題し、三つのことを中心にお話ししました。私たちの罪も十字架の一因 この世と神の国の価値観は異なる 謙遜と他者への愛を忘れない でした。今日は続く9章38-50節を通して「神の国に勝るものはない~キリストが平和の基~」と題しお話しします。ご一緒に学んで参りましょう。

①教派間の違いを受け入れる

38,39節から順番に見てまいりましょう。9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。この福音書の3章13-15節と6章7節で学びましたが、弟子たちは、イエスの名によって悪霊を追い出す権威を授けられていました。また、その権威が与えられていたにも関わらず、悪霊を追い出すことができなかったことを9章18節で学びました。38節から、イエスからその権威を与えられていない者が悪霊を追い出していたことがわかります。使徒言行録19章13節にも同様な記述があります。開いて見ましょう。19:13 「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。」イエスから悪霊を追い出す権威が与えられていない者が悪霊を追い出していたことを知ったヨハネは、自分たちの不信仰や無力を恥じるどころか、さも得意げに、「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」とイエスに報告したのです。弟子たちは、自分たちだけがイエスの名を使う権利を持っていると考え、他の者を排除しようとしたのです。これは、排他的な態度や「自分たちだけが正しい」という考えを示しています。それに対するイエスの答えが39-41節に記されています。見てみましょう。9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」まず、イエスは「やめさせてはならない。」と答えました。イエスは弟子たちの排他的な態度を戒め、寛容の重要性を教えます。その理由として、「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と記されている通りです。イエスは弟子たちの偏狭な党派心を戒め、広い視野で人を見ることを教えられたのです。全ての人間をありのままに見る広い心と、仲間でない者でも受け入れる大胆な精神を持つように言われたのです。この広い心こそが、虚栄心と党派心を克服する道なのです。また、イエスは、自分に直接従わなくても、善い行いをしている者を認めます。これは、善い行いそのものが神に喜ばれるからです。私は、2011年から2016年まで5年間、御茶ノ水にある超教派の宣教団体で働いていました。残念なことに、その時期には自分たちの群れだけが唯一の正統的な群れであると考え、主イエス・キリストを信じる他の群れを排除する動きがありました。はっきりと「誰々、先生が出来りしているのなら、私はここで、奉仕をしません」と告げられたことがありました。これは決して主イエスの御心ではありません。主イエスの御心はもっと寛大です。聖書において明確に啓示されていることについては一致しなければなりませんが、明確に啓示されていない事柄については、自分たちの解釈を絶対視せず、他の解釈も尊重する姿勢が大切です。教派での裁きあいが日本のクリスチャン人口が増えない一因です。今日、先ず覚えて頂きたいことは教派間の違いを受け入れるということです。41節の「一杯の水」とは、ささやかなことや小さな親切、支援を意味していますが、主イエスの弟子たちが迫害されていたことが背景にあります。キリストの名のゆえに人々から弟子たちに寄せられた親切と愛の行為には、それがどんなにささやかなものであっても、神からの素晴らしい祝福が約束されているのです。キリストの名によって行われることは、たとえ小さくとも神の前では大きな意味を持つのです。42-50節は、新共同訳聖書の小見出しが「罪への誘惑」となっていますが、話題がすっかり変わるわけではなく、38-41節の続きといえます。この箇所で、イエスは小さな者に対するキリスト者の責任がどれだけ大きいかを教えられました。一般社会では、小さな者、価値のない者、弱者とみなされている人は簡単に切り捨てられてしまいます。虚栄と党派心にあふれたこの世から見れば当然のことですが、キリストの弟子たちでさえも、このような考え方に毒されてしまう危険は常にあるのです。42節を見てみましょう。9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」「小さな者」とは、信仰が小さい者や弱い立場にある者、また子どもを指しています。もう少し広い意味で解釈すれば、求道中の方や教会に初めて来た方も含めてよいと思います。続いて「つまずかせる」とありますが、原語では「罪に誘惑する」という意味です。つまり、信仰を失わせたり、教会に来なくなったり、罪を犯させたりすることを指します。ところで、私にはこの「つまずく」という言葉に関して、絶対に忘れられない出来事があります。21年前の転落事故がきっかけで、生まれて初めて教会に行きましたが、当時は全く何も知りませんでした。聖書の章や節も知らず、教会用語も理解していませんでした。その頃、私は左ひじを三角巾でつっていたのですが、毎週のようにSさんというご婦人が「伏見さん、偉いわね。つまずいちゃだめよ」と声をかけてくれました。顔を見るたびに毎回言われるので、私はSさんが勘違いをしているのではないかと思い、ある日こう言いました。「Sさん、私は事故に遭いましたが、足は何ともなかったので、転びませんよ」と。すると、Sさんはしばらくポカンとしていましたが、やがてゲラゲラと笑い出し、「伏見さん、『つまずく』というのはね、転ぶという意味ではなく、教会や牧師に嫌なことを感じて来なくなることなのよ」と教えてくれました。その教会の方々にはとてもよくしていただき、つまずくことなく、事故から一年後に洗礼の恵みに預かることができました。Sさんとはその後も年賀状のやり取りを続けていましたが、今年、20年近くぶりにお会いする機会が与えられました。42節の後半を見てみましょう。「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」石臼は非常に重いもので、それを首にかけて海に投げ込まれたら、助かる見込みはありません。これは、当時のローマの重い刑罰の一つで、この比喩は、他人を罪に陥れることがどれほど深刻な罪であるかを示しています。他人をつまずかせる罪も重いですが、自らをつまずかせることも深刻な問題です。

②神の国に勝るものはない

43-48節を見てみましょう。9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 9:44 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 9:46 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。43-48節は、手と足と目に関して、もしそれらが自分をつまずかせる罪を犯す原因となるのであれば、人間的に満足な肉体を備えているよりも、その悪い部分を切り捨てた方が良いという非常に厳しい教えです。また、43-48節は手、足、目を主題にした対句形式です。46節と48節には44節と全く同じ文章が繰り返し記されています。「地獄」という言葉が6箇所ほど記されていますが、新改訳聖書では「ゲヘナ」と訳されています。「ゲヘナ」は元来、エルサレムの西方にある谷の名前で、ベン・ヒンノムの谷とも呼ばれていました。そこで、昔、異教であるモレク礼拝が行われ、幼児が捧げられていた場所です。モレク礼拝はカナン人や周辺の異教の民によって行われていたとされ、イスラエルの民に対して厳しく禁じられていました。レビ記18:2を開いてみましょう。「レビ18:21 自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」

他にも開きませんが、「同段落Read」列王記下23:10とエレミヤ32:35にもモレクについて記されていますので、後ほど読まれてください。その後、ユダヤ人はここを囚人の屍や家畜を焼く場所として用いていました。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」という表現は、このような背景から来ています。なぜ、イエスはこのように厳しいことを言われたのでしょうか。この箇所を誤解して、実際に手や足や目を取り除くことだと考えるのは間違いです。中心は救いです。永遠の祝福を受けることなのです。「神の国」に入り、永遠の命が与えられて生活することは、この世の何ものをもってしても代えられないほど尊いものであることを教えるためです。「神の国」とは、片手、片足、片目、その他の財産などと比較しても絶大な価値があるのです残念ながら、世の多くの人はこの真理を知らず、この世の価値に縛られています。イザヤ書55章2節を見てみましょう。55:2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。私たちはどうでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。私たちはどうでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは神の国に勝るものはないということです。

③キリストが平和の基

49,50節を見てみましょう。9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。「火」と「塩」という二つの象徴的な言葉を用いて教訓を伝えています。この節は解釈が難しく、学者の間でも議論がありますが、「人は皆、火で塩味を付けられる」の部分を直訳すると「すべての人は火で塩づけにされる」となります。聖書には火についてどのように教えているでしょうか。三つの火を見てみましょう。試練としての火: クリスチャンの信仰は試練を通して鍛えられる(1ペテロ1:7)。聖霊の火: 聖霊の働きにより清められる(マタイ3:11)。さばきの火: 最後の裁きの象徴(マタイ25:41)。49節の「火」は、試練や苦難を象徴しているという解釈が良いです。イエスは、弟子たちや信者たちが、信仰生活の中で様々な試練や苦しみを通して、神に近づき、清められ、成長することを示しています。火は、金属を精錬する際に不純物を取り除くように、信仰者を試練を通して清め、強くする役割を果たします。「塩」は、古代から食物を保存し、味を付けるために不可欠なものでした。イエスは、弟子たちが「地の塩」としての役割を果たすことを期待しています。つまり、彼らが周囲の人々に良い影響を与え、神の愛と真理を伝える存在となることを求めています。しかし、塩がその塩気を失ってしまえば、もはや何の役にも立たなくなります。同様に、弟子たちが信仰を失い、神との関係を疎かにすれば、彼らはもはや世に対して良い影響を与えることができなくなります。イエスは、「自分自身の内に塩を持ちなさい」と語ります。これは、信仰者一人ひとりが、自分自身の内に神の言葉と信仰を持ち続け、それを保つことが重要であることを示しています。「そして、互いに平和に過ごしなさい。」という言葉で結ばれています。この箇所は、先週学んだ弟子たちが「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」ことと繋がっています。誰が一番偉いかというような考え方や生き方では、平和をもたらすことは不可能です。今日学んだように、他者と自分自身に躓きを与えないような生き方から平和が始まるのです。聖書、キリスト教が教える平和は、単に争いがない状態を指すだけではありません。「単に争いがない状態を指すだけでなく、神との関係、自己との関係、他者との関係における深い調和と安らぎ」です。これを「主の平和」と言います。「主の平和」の第一の側面は、神との和解です。人間は罪によって神から離れ、神との関係が断絶していました。しかし、イエス・キリストの十字架の犠牲を通して、神との和解が可能となりました。それ故に、心の内面に与えられる平和がもたらされ、人との関係の中で平和が築けるようになり、教会の一致と調和をもたらす平和が与えられるのです。ですから、キリストが平和の基なのです。私たちは他者をつまずかせることなく、自分自身をつまずかせることなく、主イエスに従い歩み、主の平和をもたらそうではありませんか。今日、最後に覚えて頂きたいことはとキリストが平和の基ということです。

Today’s Takeaways ①教派間の違いを受け入れる ②神の国に勝るものはない ③キリストが平和の基