説教題:栄光に包まれた主イエスを見上げる 聖書箇所:マルコによる福音書9章14-29節
◆汚れた霊に取りつかれた子をいやす 9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。 9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。 9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」 9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。 9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
ハレルヤ!三月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその28回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。9章2-13節を通し、「山上の変容~復活と再臨の予表~」と題し、三つのことを中心にお話をしました。①主イエスの復活と再臨の予表 ②福音を伝える方の理解度を考慮する ③救い主は十字架に掛るために遣わされた でした。
ヘブライ人への手紙12章2節の前半には、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」と記されています。つまり、信仰は私たちが生み出したものではなく、イエス・キリストによって始められ、完成されたものです。したがって、私たちの信仰のあり方もまた、イエス・キリストによって示されていると言えるでしょう。本日の聖書箇所であるマルコの福音書9章14〜29節では、霊に取りつかれた子どもの父親がイエス・キリストによって信仰を促され、子どもが癒やされる出来事が記されています。この箇所を通して、「栄光に包まれた主イエスを見上げる」と題してお話しします。信仰について、共に学んでまいりましょう。
①条件付きの信仰はない
14-16節から順番に見てまいりましょう。9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、「一同」とありますが、それはイエスと一緒に高い山に登った三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネです。「山上の変容」の出来事の後に、この一行が山から下りて、他の弟子たちのところに戻ってきたところ、彼らは大勢の群衆に囲まれ、さらに律法学者たちと議論している場面に遭遇しました。そのとき、群衆はイエスを見つけ、非常に驚きましたが、同時に、彼らは「ちょうど良いときにイエスが来られた」と思ったことでしょう。そして、群衆はイエスに駆け寄り、挨拶しました。このような騒がしい情景を見たイエスは、「何を議論しているのか」と彼らに尋ねられたのです。この14-16節は、この後に続く奇跡と対話の導入部分としての役割を果たしています。17,18節を見てみましょう。9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスが「何を議論しているのか」と尋ねると、群衆の中から一人の男が前に出てきました。彼は、悪霊に取り憑かれた息子を連れており、イエスの弟子たちに癒してほしいと懇願したのです。しかし、弟子たちはその悪霊を追い出すことができませんでした。この出来事をきっかけに、イエスの敵対者である律法学者たちが、弟子たちの能力を疑い、イエスの奇跡までも否定し始め、激しい議論に発展したと考えられます。息子が「口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまう」という症状から、現代医学では癲癇の可能性が指摘されていますが、これだけの状況では断定は困難です。この男が弟子たちに助けを求めたのは、彼らがすでに他の人々を癒しているという噂を聞きつけたためでしょう。イエスは、弟子たちに悪霊を追い出す権威を与えていました。開きませんが、マルコによる福音書3章15-16節に記されています。彼らは、イエスとともに働き、その教えを人々に伝える使命を担っていましたが、今回の出来事でその権威が疑われ、律法学者たちの攻撃目標となってしまったのです。弟子たちの失敗を聞いた群衆には、大きな動揺が広がったに違いありません。19,20節を見てみましょう。9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは、群衆が動揺している様子を見て、「なんと信仰のない時代なのか。」と嘆かれました。この言葉は、弟子たちや律法学者、そしてそこにいた群衆といった特定の人々だけでなく、イエス・キリストを信じることができない当時の世全体に対する嘆きの言葉であったと考えられます。律法学者のイエスに対する不信仰はもちろんのこと、群衆も頼りない信仰しか持っておらず、弟子たちでさえもしばしば不信仰を叱責されていました。この福音書の4章40節、6章50節を開いて見ましょう。4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。8章で学んだように、イエスはご自身の受難を予告されました。もう間もなく、この世を去られようとしていました。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」と言われた通り、弟子たちを訓練する時間はそう長くありませんでした。しかし、悲しんでいるだけではいられません。病に苦しむ人を見ると、イエスはその父親に病気の息子を「わたしのところに連れて来なさい。」と言われました。すぐに、その息子が連れて来られると、その子に取り付いていた悪霊は、神の御子であるイエスの権威の前で悪あがきをし、その子に引き付けを起こしました。その結果、子どもは「地面に倒れ、転げ回りながら泡を吹いたのです。」 21,22節を見てみましょう。9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」この子どもの状態をご覧になった主イエスは、父親に「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになりました。それに対して父親は、「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と答えました。多くの医者に診てもらったものの、病は治りませんでした。また、イエスの弟子たちにも癒しを求めましたが、それも失敗に終わりました。そこで、最終的にイエスに助けを求めましたが、その際、「おできになるなら」という不信仰な言葉を付け加えてしまいました。条件付きの信仰などあり得ないのです。この時の信仰を、重い皮膚病を患っていた人の信仰と比較すると、その違いがよくわかります。この福音書の1章40節を見てみましょう。 1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。この重い皮膚病の人の場合、主イエスに癒しができるかどうかを問題にはしていません。イエスが全能者であることを信じていたからです。また、奇跡や癒しは御心でなければ起こらないことも知っていたのです。だからこそ、「御心ならば」と付け加えたのです。ところが、「汚れた霊に取りつかれた子」の父親の場合、「おできになるなら」と言い、イエスの力を問題にしています。「御心ならば」と「おできになるなら」には、決定的な差があるのです。今日、先ず覚えて頂きたいこと条件付きの信仰はないはということです。
②栄光に包まれた主イエスを見上げる
23,24節を見てみましょう。9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」そんな不信仰な父親に対して、イエスは「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる。」と言われ、信仰の必要性とその力を示されました。イエスに対する人間の態度は、できるかできないかの問題ではなく、一切を可能にすることができる神の子であるキリストを信じるという信仰の態度です。イエスは権威のあるお方であり、力ある御業をなすお方です。この福音書の1章22節を見てみましょう。1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 信仰のあるところに奇跡が起こるのです。反対に、信仰のないところには奇跡は起こりません。人間の信仰に力があるわけではなく、信仰が御業を受け取るのです。イエスのお言葉を聞いたこの父親は、今までの疑いと不安を捨て去り、「信じます。信仰のない私をお助けください。」と言いました。立派な信仰告白です。全身全霊をもってイエスに頼りきる姿こそ、大切なのです。 15世紀に活躍したイタリアの画家ラファエルの代表作に「キリストの変容」という作品があります。上半分には光輝くキリストの変容が描かれていますが、それとは対照的に下半分には、今日の聖書箇所を伝える場面が描かれています。この絵をよく見ると、イエスが来たと言って指を指している数人を除いて、下半分に描かれている人物たちは皆、イエスに背を向けています。困惑している弟子たちも、大きな聖書を覗き込んでいる学者たちも、息子を抱えている父親も、誰もかれもイエスに背を向けているのです。まさに不信仰を表しています。ラファエルはこの二つの出来事を一つの絵の中に表現しました。私たちを取り巻く現実がどのようなものであっても、それだけを見てはいけません。栄光に包まれた主イエスとともに現実を見るべきだというメッセージを伝えているように思えます。信仰とは栄光に包まれた主イエスを見上げることなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは栄光に包まれた主イエスを見上げるということです。
③絶えず祈る
25-27節を見てみましょう。9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。律法学者たちと論じ合っていた群衆がイエスのところに押し寄せてきました。さらに混乱に陥ってしまい、癒しができなくなるといけないので、イエスは悪霊に「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」と命じました。すると、悪霊は「叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った」のです。そして、子どもは死人のようになっていましたが、「イエスが手を取って起こされると、立ち上がった」のです。これは、ちょうど会堂長のヤイロの娘が死んだ時に生き返らせた場面と非常に似ています。この子どもは死んでいたのかもしれません。他にも、イエスは悪霊を追い出すことによって病人を癒されました。開きませんが、この福音書の1章34節と5章13節を読まれてください。 28,29節を見てみましょう。9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。27節でこの出来事は終わりましたが、イエスは基本的な問題に立ち返り、弟子たちに信仰について教えられました。イエスと弟子たちだけになると、弟子たちはこっそりと自分たちの失敗について「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねました。この言葉には「以前は追い出すことができたのに」というニュアンスが見え隠れしています。この問いに対して、主イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と答えられました。弟子たちはイエスから権威を与えられ、癒しを行っていましたが、何度も経験するうちに、あたかも自分たちの力だけで癒しの御業ができるかのように錯覚してしまっていたのです。彼らは神の存在を置き去りにしてしまっていました。だからこそ、イエスは再び信仰の本質を説かれたのです。祈りとは、神への信頼と依存の表れであり、信仰の具体的な表明です。イエスへの信仰は同時に神への信仰であり、神への祈りはイエスへの信頼となるのです。さて、私たちはどうでしょうか。毎週の礼拝の中で主の祈りを捧げていますが、その祈りが形式的、慣習的なものになってはいないでしょうか。祈りとは、礼拝の中で主の祈りを唱えさえすればよいというものではありません。キリスト者とは、絶えず祈り、神と交わる者なのです。そして神は、その都度、ふさわしい答えを与えてくださるお方です。テサロニケの信徒への手紙一5章17節に記されている通りです。5:17 絶えず祈りなさい。この世に生きるキリスト者にも、さまざまな問題が起こります。そんな時、自分のつまらぬプライドを捨て、「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」と言われた主イエスの言葉に全信頼を置いて、絶えず神に祈る者でなければなりません。そうすれば、「汚れた霊に取りつかれた子」が癒されたように、最もふさわしい解決が与えられるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは絶えず祈るということです。
Today’s Takeaways
①条件付きの信仰はない ②栄光に包まれた主イエスを見上げる ③絶えず祈る