説教題:十字架は誰のため~真の偉さ~ 聖書箇所:マルコによる福音書9章30-37節
◆再び自分の死と復活を予告する 9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 ◆いちばん偉い者 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ハレルヤ!三月の第ニ主日を迎えています。先週の5日が灰の水曜日で、レント(受難節や四旬節とも言います)が始まりましたが、引き続き、マルコによる福音書を講解で学びます。今日はその29回目です。4月20日のイースター礼拝には復活について記されている書簡からお話しします。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。9章14-29節を通し、「栄光に包まれた主イエスを見上げる」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①条件付きの信仰はない ②栄光に包まれた主イエスを見上げる ③絶えず祈る でした。今日は続く9章30-37節を通して「十字架は誰のため~真の偉さ~」と題しお話しします。ご一緒に学んで参りましょう。
①私たちの罪も十字架の一因
30-32節から順番に見てまいりましょう。9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」とあります。ガリラヤ地方での伝道を終えた主イエスと弟子たちは、エルサレムに向かおうとしていました。このころになると、主イエスは以前とは異なる行動をとるようになっていました。それまでは、イエスが来られるところに多くの病人や悪霊に取りつかれた人々が連れて来られ、イエスは彼らを癒し、悪霊を追い出していました。続いて、「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」とありますが、これはイエスが十字架への道のりや、地上での残された時間を考慮し、弟子たちの教育に力を入れ始めていたためです。そのため、群衆から離れる必要があったのです。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」とありますが、これは主イエスがご自身の十字架上の死と復活について語られた二回目の予告です。「復活」という言葉をたまに聞くことがあります。テレビのニュース番組で「~選手が怪我から奇跡の復活を果たしました。今シーズンでの活躍が期待できます」といった表現を耳にすることがあります。この場合の「復活」は「復帰」を少し大袈裟に表現したものです。また、時々、生き返ることと復活を混同される方がいますが、生き返ることと復活は全く異なるものです。聖書にはヤイロの娘やナインのやもめの息子などの死人が生き返ったことが記されていますが、その人たちもやがて死を迎えるのです。聖書・キリスト教が教える復活は、二度と朽ちない体になることです。イエスは私たちの罪の身代わりのために十字架にかかり、死後三日目に墓から蘇り、弟子たちや多くの人々に現れました(マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章)。この死を打ち破られたイエスを救い主と信じて受け入れたキリスト者には永遠の命が与えられ、主イエスが再び来られるときに、二度と朽ちない体に変えられます。この肉体は今の肉体とは異なることが、ヨハネによる福音書20章25-27節からわかります。開いて見てみましょう。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」聖書箇所に戻り31節を見てみましょう。「人の子」とあります。イエスがご自身を指す言葉ですが、ダニエル書7:13-14には、神の権威を持つメシア的存在として描かれています。開いて見ましょう。 7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 7:14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。しかし、マルコによる福音書では、「栄光のメシア」という意味よりも、「苦しみを受ける人の子」としての意味が強調されています。続いて、「人々の手に引き渡され、殺される」とあります。ここで、初回の予告である8章31節と比較してみましょう。 8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。最初の予告では「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」とありましたが、二度目の予告では「人々の手に引き渡され、殺される」となっています。このことから、主イエスはユダヤ教の指導者たちだけによって殺されるのではなく、すべての人の手によって殺されるということが読み取れます。忘れてはいけないのは、主イエスを十字架にかけて殺したのは、今日の私たちも含まれるということです。歴史的には、イエスを十字架にかけたのはユダヤの宗教指導者たちの告発と、ローマの総督ピラトの命令、そして実際に執行したローマ兵たちでした。しかし、聖書的な視点では、イエスの十字架の死は単なる歴史的事件ではなく、人類全体の罪の贖いのためだったのです。イザヤ書53章5節前半を見てみましょう 53:5 a 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。霊的な視点では、私たちの罪もイエスの十字架の死の原因だったのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは私たちの罪も十字架の一因ということです。9章30-32節で、イエスは二回目の受難予告をしましたが、ペトロが一回目の予告を理解できなかったのと同様に、「弟子たちはこの言葉が分からなかった」のです。ユダヤ教では、終末に「すべての死者が復活する」という考え方がありましたが、特定の個人が死後すぐに復活するという概念は一般的ではありませんでした。そのため、弟子たちは「三日後に復活する」という言葉を文字通り理解できなかったのだと思われます。続いて、「怖くて尋ねられなかった」とありますが、これは以前(マルコ8:32-33)でペトロがイエスの受難予告に反対し、イエスから「サタンよ、引き下がれ」と叱責されたことが影響しているかもしれません。そのため、弟子たちは質問することをためらったのではないでしょうか。
②この世と神の国の価値観は異なる
33節から話題が変わります。新共同訳聖書の小見出しは「いちばん偉い者」です。PPT33、34節を見てみましょう。9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。ガリラヤを通過していくイエスの一行は、伝道の中心地である「カファルナウム」に到着し、「家に着きました」。おそらく、この家はこの福音書の1章29節に記されていたペトロの姑の家でしょう。弟子たちは、受難の予告を二度もしたイエスとともに旅をしながら、イエスのお言葉の意味を理解できずにいました。数々の奇跡を行ったイエスの弟子として、この世的な立身出世を望んでいたのです。彼らが考えていたことは「だれがいちばん偉いか」という議論でした。イエスが神と人のことを思い、人間の救いのため、罪の贖いのために死ななければならないことを考えていたのに対し、弟子たちが思っていたのは、自分たちの中で誰が一番偉いかということだけでした。情けない限りですが、イエスはそんな弟子たちの心情を見抜いており、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになったのです。さて、私たちはどうでしょうか。この世的な価値観に基づく序列ばかりを考えてはいないでしょうか。今一度、自分の心を探ってみようではありませんか。35節を見てみましょう。9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」イエスの受難を理解しようとせず、世俗的な成功や名誉を求めていた弟子たちに対して、イエスは真のリーダーシップについて教えようとしています。イエスは弟子たちの心を見通され、「座り、十二人を呼び寄せ」てから「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。まず、「座り」とあります。当時のユダヤ教の教師は重要な教えを伝える際に座って話すのが一般的でしたので、イエスがこれから語る内容が非常に重要であることを示しています。「いちばん先になりたい者」、つまり、一番上になりたいと思うのであれば、「すべての人の後」である一番下になり、「すべての人に仕え」なさい、ということです。このような人こそが、神の目から見たときに一番上であり、真に偉いのだとイエスはお伝えになったのです。これは、この世の考え方とは全く異なります。自分が一番偉くなるためには、他人を押さえつけ、人を出し抜かなければならないというのがこの世の考え方です。私自身もキリストと出会う前は、まったくこの考えで競争社会を全力で走っていました。しかし、イエスの教えは真逆です。このイエスの教えから三つの大切なことがわかります。まず、仕えることの重要性です。イエスは、リーダーシップや偉大さを権力や支配ではなく、他者への奉仕によって測るべきだと教えています。これは、キリスト教の根本的な教えの一つで、愛と奉仕の精神が強調されています。会社名は忘れてしまいましたが、ある有名企業の社長が、従業員たちに見せることなく、毎朝誰よりも早く出社し、社内のゴミ拾いや片付けをしている内容のTV番組を見たことがあります。従業員たちはその姿を知らず、社長の偉さは業績や権力によるものだと思っていました。しかし、ある日、清掃員が休んだとき、社員たちは社長が黙って掃除を続けている姿を見つけました。その時、彼らは本当のリーダーシップとは、仕える心であることに気づいたのです。この社長がキリスト者かどうかはわかりませんが、これはまさに、マルコの福音書9章35節の教えに基づいています。この箇所の二つ目の大切なことは、謙遜の美徳です。この教えは、謙遜の重要性を示しています。他者を尊重し、仕える姿勢を持つことが求められています。聖書は一貫して驕り高ぶりを戒め、謙遜であることを教えていますが、フィリピの信徒への手紙2章3-8節を見てみましょう。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。イエス自身が謙遜の究極の模範です。神の御子でありながら、僕の姿を取り、十字架の死に至るまで自らを低くされたのです。三つ目の大切なことは、神の国の価値観です。イエスの教えは、神の国における価値観を反映しています。神の国では、地位や権力よりも愛と奉仕が中心となります。この教えは、私たちの日常生活にも重要です。他者に仕え、謙遜であり、愛をもって行動することが求められています。職場や家庭、コミュニティでも、この教えを実践することが大切です。今日、二番目に覚えて頂きたいことはこの世と神の国の価値観は異なるということです。
③他者への愛を忘れない
36,37節を見てみましょう。9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」イエスは、今まで話されたことを弟子たちに具体的な例をもって示すため、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げ」ました。イエスが子供を呼び寄せて抱きしめる行為は、無垢さや謙遜、そして社会的地位の低い者への愛を象徴しています。子供は当時の社会において、権力や地位を持たない存在であり、イエスはそのような者を大切にすることの重要性を示しています。37節前半では、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる」と述べられています。「わたしの名のために」とありますが、主イエスの名に免じてとも言えます。イエスは、全ての弟子のため、全ての人のため、たとえどんな人であってもひとりももれることがないように十字架にかかられたのです。この主イエスの名に免じての意味です。続いて、「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる」とあります。これは、イエスの教えを受け入れることが、神の意志を受け入れることと同義であることを示しています。つまり、神の国においては、地位や権力ではなく、謙遜さや他者への愛が重視されるのです。37節後半の「わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」という部分は、イエスが神から遣わされた存在であることを強調しています。イエスを受け入れることは、神を受け入れることと同じであり、信仰の重要性を示しています。イエスは一人の子供を通して、弟子たちに対して謙遜さと他者への愛を教えています。社会的地位に関係なく、すべての人を受け入れることの大切さを強調し、信仰の本質を示しています。この教えは、現代のキリスト者にもあてはまります。今日、最後に覚えて頂きたいことは他者への愛を忘れないということです。
Today’s Takeaways
①私たちの罪も十字架の一因 ②この世と神の国の価値観は異なる ③他者への愛を忘れない