説教題:結婚は神が定められた~子どものような心で~ 聖書箇所:マルコによる福音書10章1-16節
◆離縁について教える 10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。 10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」◆子供を祝福する 10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
ハレルヤ!四月の第ニ主日を迎えています。今日から、受難週が始まりましたが、引き続きマルコによる福音書を講解で学びます。今日はその30回目です。来週はイースター礼拝ですので、ルカによる福音書24章からお話しします。それでは、いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。9章38-50節を通して、「神の国に勝るものはない~キリストが平和の基~」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①教派間の違いを受け入れる ②神の国に勝るものはない ③キリストが平和の基 でした。今日は続く9章38-50節を通して「結婚は神が定められた~子どものような心で~」と題しお話しします。結婚は神が制定された神聖な制度であり、その価値と意味を深く理解することが求められています。ご一緒に学んで参りましょう。
①結婚は神が定めたもの
1,2節から順番に見てまいりましょう。10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。「イエスはそこを立ち去って」とあります。ガリラヤ地方での伝道を終え、いよいよ救い主としての重要な使命である十字架の贖いのために、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれ」ました。すると、いつもように群衆が集まってきて、イエスが群衆に教えていたときの出来事です。この群衆の中にもファリサイ派の人々がいました。彼らは、例によってイエスを陥れようとし、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねたのです。当時のユダヤ社会では、離婚は男性の側からしか認められていませんでした。「律法」とありますが、離婚に関する律法は申命記24章1節に定められていました。開いて見ましょう。24:1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。
「恥ずべきこと」とありますが、原語を直訳すると「事柄の裸」です。離婚に関する解釈はユダヤ教の内で意見が分かれていました。特にシャンマイ派とヒルレル派の間で意見が対立していました。シャンマイ派は、「事柄の裸」の「裸」の部分を「不貞」と解釈し、妻の不貞以外の理由での離婚を認めないという厳格な立場を取っていました。一方、ヒルレル派は、「事柄」を強調し、拡大解釈して、どんなことでも離婚の理由になるとの立場を取っていました。たとえば、妻が夫のために料理を作った際に焦がしてしまった場合でも離婚ができると解釈していたのです。しかし、このイエスに対するファリサイ派の質問は、自分たちが抱えている二つの解釈の問題を解決するためのものではなく、イエスをわなにかけて陥れるための質問だったのです。イエスがシャンマイ派の解釈に従って多くのファリサイ派の人を敵に回すか、ヒルレル派の解釈に従って拡大しすぎた解釈を擁護するか、あるいは申命記24章1節の教えを否定するのかを試したのです。この悪意に満ちたファリサイ派の質問に対する主イエスのお答えが、3-12節に記されています。
3-5節を見てみましょう。10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。「モーセはあなたたちに何と命じたか」とありますが、申命記24章1節のことです。この主イエスの質問に対して、ファリサイ派の人は申命記24章1節に記されている通りに「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えたのです。ファリサイ派の人にとって、モーセ律法は金科玉条、絶対的なものでしたので、100%の自信をもって答えたのです。しかし、イエスの律法の解釈は、単なる文字上のことにとどまりません。モーセがこのように命じたことの根本精神にまでさかのぼってみると、この命令は離婚の正当性を認めたものというよりは、女性の立場を守る人権擁護の精神から来ているのです。そのことをイエスは「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と語りますが、ここでイエスが指摘しているのは、離婚の規定は神の本来の意図ではなく、人間の罪や頑なな心に対する一時的な許容策だったということです。続いて、イエスは旧約聖書を引用しながら説明をします。6-9節を見てみましょう。10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」6-9節には、創世記1章27節と2章24節の御言葉が引用されています。確認をしてみましょう。 1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」ファリサイ派の人と主イエスの間には大きな食い違いがあります。引用している聖書箇所が違うだけではありません。ファリサイ派の人は離婚についてだけ考えているのに対して、イエスは結婚について明らかにされたからです。そのうえで、離婚について語るのです。離婚について考えるのであれば、まずは結婚について考えるべきだからです。結婚について正しく理解していなければ、離婚について考えることはできないのです。ファリサイ派の人はイエスを陥れることばかり考えて、このことを見落としてしまっていたのです。イエスは、この機会をとらえて、結婚について神の御心を明らかにされたのです。離婚は人間の事情によるものです。罪人である人間の都合であるのであれば、神は離婚を望まれてはいないのです。そこで、主イエスは結婚について神がどのようにお考えになっているかを語られたのです。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。」とあるように、男と女はたまたま存在しているのではなく、神がそのように作られたのです。このことは神による創造の秩序ですので、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」のです。続いて「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とありますが、「結び合わせる」の原語の意味には「くびきを共におわせる」という意味があります。結婚とは神が男女二人にくびきをおわせたのです。この信仰に固く立つことが求められるのです。結婚や離婚は、人間が自分でしたければ自由にできるというものではありません。結婚は神が定められたものであり、人間が考え出した制度ではありません。しかし、弟子たちはこのように主イエスから告げられても、このことを理解できませんでした。結婚とは神が男女二人にくびきをおわせたものであるという信仰に立てないからです。そこで、主イエスは次のように言われました。11,12節を見てみましょう。10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」主イエスは、どういう場合に離婚ができるか、またはどういう手続きをしたら離婚ができるかということはお語りになりません。イエスは、離婚が相手に対してどのような意味を持つのかをお語りになったのです。「妻を離縁して他の女性と結婚する者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」とありますが、夫婦の結びつきが神の前で永続的なものであり、たとえ人間の法律で離婚が成立しても、神の前では結婚の契約が続いていることに他ならないのです。私たちは罪を犯すと、自分のことばかりを気にとめますが、それがどれほど神を悲しませているか、神の尊厳を傷つけてしまっているのかには気が付いていないのです。離婚もそうです。離婚がどれだけ相手の人格を傷つけることになるかを考えていないのです。また、そのことがどれほど神の栄光を傷つけることになるか、思いも及ばないのです。19世紀後半から20世紀の中旬に活躍したドイツの神学者アルベルト・シュヴァイツァーは、この箇所を註解し、ここで主イエスが離婚を禁じておられることは明らかであるとしながら、離婚や再婚が許される場合があり得ることを述べています。註解の最後には次のように記されています。そのまま引用します。「長い結婚生活の中には、この明白な言葉がきわめておおきな助けとなる時期が、何度も到来するのである。」主イエスのお言葉のおかげで結婚生活が守られるのです。大切なことは、私たちが主イエスのお言葉に従っていくことができるかどうかです。結婚は神が定められたものだからです。不貞などの例外を除くと、離婚は本来、神の御心ではないことが分かります。結婚は神によって定められたものであり、夫婦は愛と犠牲をもって関係を築いていくべきです。今日、先ず覚えて頂きたいことは「結婚は神が定めたもの」ということです。
②子どもの心のような信仰を持つ
13節から話題がかわります。新共同訳聖書の小見出しは「子供を祝福する」となっています。福音書には、イエスから祝福を受け、病が癒された子どもの例が多く記されていますが、この箇所には、もっとも端的に、子どもこそが祝福されるべきであることが記されています。13-14節を見てみましょう。10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。イエスのもとに人々が子どもたちを連れて来ました。イエスに祝福してもらいたかったからです。しかし、弟子たちはこの人々を叱ったとあるように、弟子たちは子どもたちを追い払いました。弟子たちはなぜそんなことをしたのでしょうか。当時の社会では、子どもは大人ほど価値があるとは見なされていませんでした。特に、ユダヤの文化では、教師(ラビ)のもとには大人が学びに来るのが普通であり、子どもたちは相手にされませんでした。弟子たちは「イエスは忙しいのだから、子どもたちは邪魔だ」と考えたのでしょう。しかし、イエスの反応は違いました。「これを見て憤り」とある通りです。イエスが珍しく強く怒った場面です。イエスは「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」とはっきりと命じました。その理由は、子どもたちが神の国にふさわしい存在だからです。社会的に価値が低いとされていた子どもたちも、神の目には尊い存在なのです。神の愛がどんな人にも注がれていることを示しています。15-16節を見てみましょう。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。イエスは、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われました。ここで大切なのは、「子供のように」という言葉です。このことから二つのことがわかります。先ず、純粋に信じる心です。私たちは大人になるにつれて、多くの知識や経験を身につけます。しかし、その一方で「子どもらしさ」を失ってしまうことがあります。例えば、子どもは純粋に人を信じますが、大人は疑い深くなります。子どもは素直に頼りますが、大人はプライドが邪魔をして人に頼ることが難しくなります。子どもは親の言葉を疑いません。「この道を行けばお店に着くよ」と言われれば、疑うことなく歩いていきます。しかし、大人はどうでしょうか? 何かを言われても、「本当にそうなのか?」「騙されているのではないか?」と疑うことが多くなります。子どものように純粋に信じる信仰が求められるのです。勿論、神と主イエスに対する信仰には、子どものような純粋な心が求められますが、この世のことには慎重でなければなりません。マタイによる福音書10章16節を開いて見ましょう。10:16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。この言葉は、キリスト者が賢く、慎重であることの重要性を強調しています。蛇はその知恵と慎重さからこの例えに使われており、信者が外部の危険から身を守るために必要な態度を示しています。神の国にふさわしいのは、偉い人や知識のある人ではなく、むしろ子どものような心の人なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは「子どもの心のような信仰を持つ」ということです。
③神にすべてをお委ねする
15-16節からわかる二つ目のことが、すべてを委ねる心です。子どもは自分で何もできないことを知っています。そのため、親に頼ります。お腹が空けば「ごはん」と言い、困ったら「助けて」と言います。しかし、大人になると、「自分の力で何とかしなければ」と考えてしまうものなのです。私が小さいとき、父が私を肩車して線路際に連れていってくれました。当時、私は電車が大好きだったからです。私は高い視点から電車の往来を楽しんでいたものです。しかし、私は父がどれだけ大変か、どれだけ力を使っているかは何も考えていません。ただ、父親が支えてくれることを信じ、安心しつつ電車の往来を見て楽しんでいたのです。これは、神様と私たちの関係によく似ています。私たちは時に、神様がどれだけ私たちを支えてくださっているかを忘れてしまいます。しかし、神様は変わらず私たちを愛し、祝福し、導いてくださいます。だからこそ、私たちは子どものように神様に信頼し、委ねることが大切なのです。私たちは時に、自分の努力や知識で問題を解決しようとしますが、神様は「わたしに頼りなさい」と言われます。私たちは、子どものように神様にすべてを委ねるべきなのです。最後に、「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」とあります。イエスは子どもたちを抱き、手を置いて祝福されました。これは、神様の愛と恵みが子どもたちに注がれていることを象徴しています。今日、最後に覚えて頂きたいことは「神にすべてをお委ねする」ということです。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない。」この御言葉を心に刻み、神様に信頼する歩みをしていきましょう。
Today’s Takeaways ①結婚は神が定めたもの ②子どものような信仰を持つ ③神にすべてをお委ねする