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2025年4月20日主日礼拝(イースター記念礼拝)伏見敏師

説教題:エマオへの道—復活された主との出会い 聖書箇所:ルカによる福音書24章13節-35節

◆エマオで現れる 24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。 24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

ハレルヤ!復活された尊き主イエス・キリストの御名を賛美いたします。イースターおめでとうございます。このイースターの説教の準備をしているときに思い出したことがあります。それは、「教会とは何か」ということです。恩師の一人はこう言いました。「教会とは変化するものである」と。二千年近い歴史の中で、教会には多くの変化がありました。一つの教会の歴史においても、様々な変化があると思います。変化すること自体は悪くありません。変化は成長を意味する場合もあります。ただ、変わって良いことと、普遍的なものがあります。礼拝のスタイルなどは、時代とともに変わって良いでしょう。しかし、普遍的なものは、イエス・キリストの十字架と復活です。十字架による救いが揺るがない限り、表面がいくら変わったとしても、教会は大丈夫です。今日はまさにその主イエスの復活をお祝いするイースターです。旧約の時代には安息日である土曜日に礼拝が行われていましたが、イエス様の復活以降、多くの教会では復活を記念して「週の初めの日」、つまり日曜日に礼拝を行うようになりました。このことは開きませんが、使徒行伝20章7節に記されていますので、後で読まれてみてください。ここにはパン裂き、つまり礼拝や聖餐式が描かれています。私自身、未信者時代にはイースターは春の到来を告げる西洋のお祭りだと思っていましたが、イースターはただのお祭りではありません。復活にはとても重要な意味があります。復活は十字架と共にキリスト教の中心であり、ペアです。十字架と同様に復活は強調しても強調しきれないほど大事です。もし復活がなく、イエス様が十字架に掛けられて死んだままであれば、これは大変なことになってしまいます。無駄死にとなり、キリスト教は存在しなかったでしょう。イエスの復活によって、キリスト教会と聖書が完成したとも言えます。この復活によって、イエスは死を打ち破った勝利者となりました。暗闇を光に変え、絶望を希望に変えてくださったのです。私たちは人生の旅路の中で、「エマオへの道」を歩むことがあります。思い描いていた未来が崩れ、失意の中で歩むとき、私たちは何を頼りにすればよいのでしょうか。この物語を通して、神が私たちにどのように希望を与えてくださるのかを学びましょう。今朝は、「エマオへの道—復された主との出会い」と題してお話をします。ルカによる福音書24章13節から35節に記されているエマオ途上の弟子たちの物語は、まさにその答えを示してくれます。

①主が共におられる

13,14節を見てみましょう。24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。この二人の弟子は道々、この日の朝に起こった不思議な出来事を話し合いながら、エマオという村に向かって歩いていました。二人は、イエス様が十字架にかけられたエルサレムから60スタディオン、約11キロほど離れたエマオに向かって歩いていましたが、この前に何が起こっていたでしょうか。二人が救い主だと信じて従ってきたイエスが、エルサレムで十字架にかけられて殺されてしまったのです。エマオへ向かう二人の弟子たちは、落胆していました。彼らはイエスを信じ、彼がイスラエルを救う方だと期待していました。しかし、イエスは十字架につけられ、彼らの希望は打ち砕かれたかのように思えました。1週間前の日曜日には、エルサレム中が喜んでイエスを迎え入れたというのに、その5日後の金曜日には、イエス様が十字架にかけられてしまいました。しかも、追い打ちをかけるように、それから3日目の今日、イエス様を葬ったお墓が空になっているというニュースが入ってきました。わずか1週間の間に、めまぐるしく展開したこれらの出来事を、彼らはどう理解してよいか分かりませんでした。それどころか、今度は自分たちまで捕まるかもしれない。望みも消え失せた今、どうしてこれ以上エルサレムにとどまることができるでしょうか。彼らは、エルサレムから逃げ出すようにして、エマオへの道を歩いていたものと思われます。二人が歩きながら、今日までの出来事を話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスが近づいてこられました。復活されたイエス様が近づいてこられ、彼らと共に道を歩いておられました。しかし、この時まだ彼らには、そのいっしょに歩いている人がイエス様だとは分からなかったのです。16節に記されています。24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。私たちがこの地上の歩みを続けている中で、時には、この二人の弟子のように失望し、重い足取りで歩かなければならない時があると思います。生活のこと、信仰のこと、人間関係、将来、家族のこと、いろいろなことで悩みながら歩んでいるのではないでしょうか。あるときは、失望させられることもあるかもしれません。15節にあるように「話し合ったり、論じ合ったりして」も、事態は一向に解決せず、光が見えてこないように思えてしまう時もあると思います。けれども、復活した勝利の主イエスは、今も生きておられます。私たちの置かれている厳しい現実を知ってくださり、その中心にいてくださり、私たちの歩いている道に同行していてくださるのです。イエスは私たちの近くに寄り添い、いっしょに歩いてくださっている。このことを私たちは知りたいと思います。復活した勝利のイエスが私たちと共にいてくださる。これは大きな慰めです。それが、たとえ私たちがそれを実感できなくても、主は確かにそばにいてくださる。私たちの人生の同伴者として、いつも傍らにいて共に歩んでいてくださるのです。心の目が曇ってしまったら、まずこのことを思い起こしてください。今日、先ず覚えて頂きたいことは主が共におられるということです。

②主が聖書を解き明かしくださる 

17節を見てみましょう。24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。イエス様は見知らぬ旅人として、二人の弟子の話に入ってこられました。彼らが歩きながら話していたことは何だったでしょうか。イエスの体がなくなってしまったこと、御使いが現れて、イエスは生きておられると告げたことに戸惑っていたのでした。イエスの復活は、イエスの弟子たちにも信じられない出来事であったのです。イエスが十字架で死なれたことは、ローマの総督ピラトと、ユダヤの議会の監視のもとで行われた確かなことでした。その死を多くの人が見届け、そして十字架から遺体がおろされ、墓に葬られるのを見ていたからでした。しかも、それはわずか3日前に起こったことでした。主の復活の最初の目撃者となったのが、マグダラのマリヤなど婦人たちであったことも、信じられない理由だったかもしれません。実際、今日の箇所の前の11節に 24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。とある通りです。二人の弟子も、イエス様がなぜ十字架で死ななければならなかったのか分かりませんでした。19節から24節にありますように、彼らはこれまでの出来事の一部始終を見知らぬ旅人であるイエスに話して聞かせました。するとイエスは、25,26節にあるように、24:25 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われました。そして、一つ一つ丁寧に、聖書から解き明かしてくださったのです。イエスご自身が、これらの出来事の一つ一つの意味を「聖書全体」から解き明かされ、ご自分について書いてあることを説明してくださったのです。なぜイエスは十字架にかかって死ななければならなかったのかを教えてくださり、そして、聖書の預言どおりに、3日目によみがえられたことを解き明かされたのでした。聖書は、私たちの霊の糧です。聖書を通して、神の御心を知り、希望を持つことができ、大きな感動を受けるものなのです。21年前、左肘を複雑に骨折するという大事故に遭い、私が藁にも縋るつもりで教会に通い始めたころの出来事です。リハビリに通っていた病院の近くに教会があることに気が付きました。その教会の掲示板にはペトロの手紙一5章7節の御言葉が記されていました。開いてみましょう。5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。 5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。 5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。まるで、私のために記された御言葉だと思い、胸があつくなったことを鮮明に覚えています。復活されたイエス様は、弟子たちにご自身の十字架と復活の意味を解き明かしてくださいました。そのように今も生きておられるイエス様が、私たちにも聖書のみことばを通してご自身を表し、聖書の意味を説き明かしてくださるのです。心の目が曇り聖書の意味がわからないときは、イエスに聞きましょう。イエスが聖書を説明してくださいます。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主が聖書を解き明かしくださるということです。

③主が食卓をともにしてくださる

 その日の夕刻、一行はエマオの村に近づきました。イエス様はまだ先へ行きそうなご様子でしたが、弟子たちは、この見知らぬ旅人を引き留めました。29 節を見てみましょう。24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 イエスは「一緒にお泊まりください」という申し出に応じて、家に入られました。30,31節を見てみましょう。24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 そのとき始めて、弟子たちの目が開かれました。パンをとって祝福し、そのパンを下さった方がイエス様であることが分かりました。(31節)彼らの目が開かれたのです。食卓を囲むということは単に食事を一緒にすることではありません。食事を通してコミュニケーションを図ることです。食事を頂きながら会話し、コミニュ二ケーション図ることにより、イエス様が分かるようになるのです。イエスは、いつも私たちと一緒に食事をしようと思って、私たちの心の戸をたたいておられます。ヨハネの黙示録3:20を見て見ましょう。3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。この御言葉は伝道メッセージでも良く語られますが、元々は信仰者に語られたものです。今日、三番目に覚えて頂きたいことは主が食卓をともにしてくださるということです。

④復活の証人として生きる

弟子たちが、同行していた旅人がイエス様であることが分かった瞬間、イエス様のお姿は見えなくなりましたが、彼らはもう迷ってはいませんでした。彼らはすぐにエルサレムにとって返しました。33-35節を見てみましょう。24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。イエスと出会った弟子たちは、すぐにエルサレムへ戻り、他の弟子たちに「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」と証ししました。 私たちも、復活の主と出会ったならば、その証し人として生きる使命があります。私たちも、イエス・キリストの復活の証人として、日々の生活の中で神の愛を伝えていくことが求められています。証しの言葉は、誰かの人生を変える力を持っています。私たちが信仰を持ち、それを分かち合う時、神は働かれます。私たちは、イエスによってすくわれました。どんなに私たちの心が罪深くても、イエス様は私たちすべての罪を引き受けてくださり、私たちの代わりに十字架にかかり復活をされ、私たちの罪が赦されるという道を開いてくださいました。イエス様は死を打ち破り蘇られたのです、勝利者になったのです。私たちの最後の敵である死からも解放してくださったのです。イエス・キリストを信じる者は一人も滅びることがなく、永遠のいのちを持つという約束を与えてくださいました。そして、主の十字架と復活について知れば知るほど、ますます心燃やされ、喜びと感謝、そして大きな希望に満たされていくのではないでしょうか。私たちの信仰生活は山あり谷ありです。晴れの日ばかりではありません。雨の日、雪の日、台風の日もあるでしょう。時に霊的な目、信仰の目が曇ってしまうことがあるでしょう。けれども、主なるイエス様が私たちといつも共に歩いてくださるのです。主ご自身が聖書を説明してくだいます。主が、食卓を共にし、コミュニケーションを図ってくださるのです。霊的な目、信仰の目が曇ってしまうことはあると思います。そんなときにはこれらのことを思い起こして、私たちの心の目を開いて参りましょう!復活をされて、今も生きておられる主イエス・キリストを証して参りましょう。今日、最後に覚えて頂きたいことは復活の証人として生きるということです。

Today’s Takeaways

①主が共におられる ②主が聖書を解き明かしくださる ③主が食卓をともにしてくださる

④復活の証人として生きる

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