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2025年4月27日主日礼拝(ウエルカム礼拝)伏見敏師

説教題神は全ての人を愛しておられる 聖書箇所:ヨハネによる福音書3章16-21節

3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。  3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

ハレルヤ!4月の第四主日を迎えています。今年度から、偶数月の第四礼拝ではウエルカム礼拝を行います。初めて来会された方にもわかりやすいメッセージをお話しします。聖書やキリスト教を全く知らない方から、キリスト教について簡単に教えてほしいと質問を受けることがあります。私はまず、「神は愛です」と答え、次の例話をお話しします。「あるところに、大きな橋の開閉を管理する番人の父親がいました。その橋の下には、毎日多くの列車が通ります。ある日、父親が橋を操作していると、番人の小さな息子が誤って橋の歯車の中に落ちてしまいました。そのままでは、橋が閉まらず、列車が川に転落してしまいます。父親には二つの選択肢がありました。一つは、息子を助けること。しかし、それでは列車に乗っている何百人もの命が失われてしまいます。もう一つは、橋を閉じて列車を救うこと。しかし、それをすれば愛する息子を犠牲にすることになります。父親は涙を流しながら、橋を閉じました。息子は犠牲になりましたが、列車の乗客は何も知らずに安全に通過しました。」この話は、クリスチャン作家の三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」を私がアレンジしたものです。そして、聖書やキリスト教を全く知らない方には、ぜひ「塩狩峠」を読んでほしいとお伝えしています。今日は、ヨハネによる福音書3章16-21節から「神は全ての人を愛しておられる」と題しお話しします。ご一緒に学んで参りましょう。

①神は全ての人を愛しておられる

16節から見てまいりましょう。3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。昔から多くの方がこの3章16節を褒めたたえています。宗教改革を行ったマルティン・ルターは「これは聖書の縮図、また小さき福音書である」と言ったといわれています。また、同志社大学の創立者である新島襄先生はこの3章16節を「これは新約聖書の富士の山、富士山である」と言いました。そして、この3章16節の御言葉で多くの方が主イエス・キリストのもとに導かれています。明治から大正、昭和にかけて活躍された有名な巡回伝道者、牧師の木村清松先生もその一人ですが、導かれ方がユニークです。木村清松先生(1874年4月7日 – 1958年1月14日)は少年時代、教会の近くで遊んでいました。そのとき、教会の方から「ヨハネさん十六」という声が聞こえました。「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。」(文語訳・ヨハネ3:16)これは暗唱聖句の最後だったのでしょう。ところが、木村少年は「外人でヨハネという名前の十六歳の人」と勘違いしてしまったのです。ヨハネという名前の方に会いたいと思い、それがきっかけで教会に繋がり、永遠の命を得て巡回伝道者、牧師となったのです。うそのような本当の話です。さて、この16節には、神が罪なき独り子のイエスをこの世に遣わしたこと、十字架の御業についての四つのこと(動機、方法、目的、条件)が明瞭簡潔に書かれています。動機は神の愛です。この「愛された」と訳された動詞を原語のギリシャ語で見てみると、不定過去形が使われていています。不定過去形は、決定的で瞬間的な動作に使われます。つまり、神の愛が明確に果たされ、絶対的な事実として完了したことを意味します。いかなる状況、いかなる事柄にも影響されたり消失したりすることがない、絶対的な事実としての神の愛なのです。方法は独り子をお与えになったことです。これも不定過去形が使われていて、完全に果たされたことを意味しています。目的は私たちが永遠の命を得るためです。そして、その条件は私たちが独り子を信じることです。条件はこれだけです。他に必要な条件は何一つありません。愛の神は人類救済のために、罪なき独り子を罪の身代わりとして十字架刑に処せられるためにこの世に遣わされたのです。ところで、私は、教会に通い始めた頃、なぜイエスの十字架が私たちの罪の身代わりになるのかが理解できなかったので、当時、懇意にしていた方に尋ね、丁寧に教えて頂きました。イエスがこの世に遣わされる前の旧約時代では、大祭司が年に一度の「贖罪の日」に、民の罪のために動物を犠牲にしていました(レビ記16章)。そして、神が定められた時が満ちて、イエスがいけにえとなり、一度限りの十字架の死によって完全な贖いを成し遂げましたのです。(ヘブル9:11-14)。注意して頂きたいことは、イエスがこの世に遣わされた理由は、旧約の時代、ユダヤの民が何年も何年も燔祭を捧げても悔い改めなかったからではありません。永遠の昔から神は、罪なき独り子をこの世に遣わされることを決めておられたのです。そして、神の愛とは神の選民であるユダヤ人だけが救われることではありません。神が全世界の人を愛しているので、全世界の人が救われることです。旧約聖書の「旧約」とは古い契約、ユダヤの民との契約です。一方、新約聖書の「新約」とは新しい契約、全ての人類との契約です。旧約聖書が根底にあり新約聖書が成立したのです。旧新約聖書63巻が聖書なのです。十字架はアクセサリーではありません。イエス・キリストの犠牲や救いを象徴しています。また、信仰、希望、愛、そして永遠の命をも表すシンボルでもあります。神はエリートだけを愛し、エリートだけを救おうとしているのではありません。神はえこひいきをされるお方ではなく、不公平なお方でもありません。神はクリスチャンだけではなく、罪びとのままである人を含めた全人類を愛しているのです。ご自身が創られた全ての人間を決定的に愛しているのです。全被造物に対する憐みの愛です。テモテへの手紙一2:4に記されている通りです。2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。「すべての人々が救われて」とありますが、聖書やキリスト教を理解する上で、この「救い」という言葉ほど正しく理解されていない語はありません。交通事故に遭いそうになったとき、間一髪で救われたと言いますが、聖書やキリスト教の「救われる」とは一時的なものではありません。救われるとは、神の怒りから免れること、永遠の刑罰からの解放を指します。神はこのように愛とあわれみに満ちたお方であり、すべての人々が救われることを願われていますが、残念なことに全ての人間が救われるわけではありません。この問題は神の側ではなく、人間側の問題です。旧約聖書イザヤ書59:1-2を見てみましょう。◆救いを妨げるもの 59:1 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。59:2 むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。新共同訳聖書の小見出しは「救いを妨げるもの」です。人間を含めすべてのものは神によって創られています。しかし、人間はロボットではありません。神は人間に自由意志をお与えになっています。すべての人間が救われていないのは、人間が福音、この良いお知らせを信じないからです。例えば、この箱の中に一億円があるとします。これをあなたにあげると言われたとしましょう。これを信じて箱を受け取れば一億円が手に入ります。しかし、信じなければ手に入らないのと同じです。今日、先ず覚えて頂きたいことは神は全ての人を愛しているということです。

②信じて告白するだけ

17-19節を見てみましょう。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。この箇所にも、主イエスがこの世に遣わされた目的が記されています。それは、世の中の人が救われるためです。そして18節には、裁きについて記されています。確かに死後、裁きに会うことを聖書は教えています。ヘブライ人への手紙9章27節を開いてみましょう。9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、人は誰でも死後に裁きの座に着きます。キリスト者も例外ではありませんが、キリスト者は無罪が宣告され、そのまま天国に行けるのです。どうしてもキリストを救い主と受け入れなかった方の行先は異なります。19節の前半には光と闇が対比されて書かれています。光と闇、これ以上に聖さと汚れ、罪を象徴するものはありません。聖書では聖なるものを光と表し、罪のまみれた人間の生活を闇と呼んでいます。 20,21節を見てみましょう。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。  3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」20節には、光である主イエスのもとに来ない人の理由が記されています。悪いことをする者は、その行いや動機が神の光に照らし出されることを恐れるので、真の光である主イエスのもとに来ようとはしないのですが、これは自分自身に裁きを招いていることに他ならないのです。旧約聖書(創世記3章)には、最初の被造物であるアダムとエバが罪を犯したとき、神を恐れて身を隠したことが記されています。私たちも人は罪を犯すと、神を恐れ身を隠そうとします。悪魔によって善悪の判断が惑わされてしまうからです。元々、人間は神の形に似て作られていますので、良心があります。同時にすべての人間は罪びとですので、その良心が曇ってしまうのです。主のもとに来ないこと自体が神の裁きなのです。ある若者がいました。彼は暗い部屋の中で長い間過ごし、そこで自分の服が汚れていることに気づきませんでした。しかし、ある日、明るい光の下に出たとき、初めて自分の服の汚れに気づきました。同じように、神の光が私たちに照らされるとき、私たちは自分の罪に気づきます。しかし、それは私たちを責めるためではなく、清め、回復するためなのです。光に照らされると、自分の汚れや罪がはっきりと見えるものです。21節は20節との対比です。20節では回心をしない人について述べられ、21節では回心をした人について述べられています。「真理を行う者」とあります。真理を行う者とは、真に回心をした人、主イエスを自分の救い主と受け入れた人です。聖書、御言葉を受け入れた人です。このような人は、たとえその人が小さきものや弱きものであったとしても、神の目には真実で正しい人なのです。先週は、主イエスの復活を記念するイースター礼拝を行いましたが、今、イエスはどこで何をされているのでしょうか。ローマの信徒への手紙8章34節後半を見てみましょう。 8:34b 死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。復活された主イエスは、天に戻られ、父なる神様の右に座り、私たちのために執り成しの祈りをしてくださっているのです。主は、私たち一人一人を知っているのです。私たち一人一人を見てくださっているのです。私たちは肉眼で主イエスと出会ったりすることはできないでしょう。しかし、聖書、御言葉を通して主イエスとお会いすることができます。神は全人類を愛するが故に主イエスを世に遣わされたのです。主イエスは裁き主ではありません。主イエスは救い主、救いの君なのです。16節をもう一度見てみましょう。 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。まだ主イエスを受け入れていない方は光の方に来てください。主イエスに近づき、主イエスと親しくなってください。決して立ち止まらないでください。神は、実にそのひとり子をこの世に遣わしてくださいました。それは本来であれば私たちが受けなければならない裁きの身代わりになるためです。十字架上における犠牲の死です。神はそれほど私たちを愛しているのです。私たちを罪から救い出し、永遠の祝福に入れてくださるためです。では、どうすれば子の恵みを受け取ることができるのでしょうか。ローマの信徒への手紙をリビングバイブルで見てみましょう。10:9 なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、自分の心で「神はイエス・キリストを死者の中から復活させてくださった」と信じるなら、あなたは救われるのです。10:10 人は、心で信じることによって神の前に正しい者とされ、その信仰を口で告白することによって救われるのです。復活された主イエスを救い主と信じて告白するだけなのです。これだけです。ですから、このことを福音(良いお知らせ、Good news)と言うのです。どうかこの恵みを無駄にしないでください。神の恵みである光、主イエスを受け入れ、神の大きな愛に答えようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいこと信じて告白するだけはということです。

Today’s Takeaways

①神は全ての人を愛している ②信じて告白するだけ