説教代:地の塩、世の光~交わりを通して成長する~ 聖書箇所:マタイによる福音書5章13-16節
◆地の塩、世の光 5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
ハレルヤ!四月の第一主日を迎えています。新年度、2025年度が始まりました。今年度もどうぞよろしくお願いいたします。今朝は、年度聖句(5章13,14節)を含むマタイによる福音書5章13-16節から「地の塩、世の光~交わりを通して成長する~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。
①この世の防腐剤
今日の聖書箇所を含むマタイによる福音書の5-7章は一般的に「山上の垂訓」または「山上の説教」と呼ばれています。なぜそう言われるのか、その理由がこの福音書の1節からわかります。1節を見てみましょう。5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。1節に「山に登られた」とあり、2節の最後に「教えられた」とある通りです。この山の名前は聖書には記されておらず不明ですが、伝統的にガリラヤ湖の近くにある山と考えられています。主イエスが山に登って語られたことから、「山上の垂訓(または山上の説教)」と言われています。英語の聖書ではイエスが話された言葉を赤色で印刷し強調しているものもあり、「レッドレター聖書(Red Letter Bible、Red Letter Edition)」と言います。マタイによる福音書の1-4章を簡単に要約しますと、1章は系図、2章は主イエスのご降誕に関する出来事、3章は道備えのバプテスマのヨハネの働き、4章が荒野の誘惑と四人の弟子の召命で、5章からイエスの教えが記されています。ですから、「山上の垂訓」は新約聖書に記された弟子に対する最初の教えであり、重要な意味があります。聖書箇所に戻り、続く3節~10節には「幸いである」というフレーズが8回記されています。5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。いわゆる「八福の教え」です。日本正教会では11節も入れて「真福九端」」と言いますが、幸いが八つとか、九つというのは、あまり意味がありません。大切なことは、この教えでは、神の祝福を受ける人々の特徴が示されており、従来の価値観とは異なる神の国の倫理観が示されています。いつの日か必ず天国市民となるキリスト者の性格について述べられています。各説を簡単に説明すると次のようになります。5:3心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。「心の貧しい」とは、自分の無力さや弱さを認め、神に完全に依存する謙虚な姿勢を意味します。世間的には「貧しさ」は弱さと見られがちですが、ここでは「神に頼る心」が幸いの条件とされています。天の国は、自分の力ではなく、神の恵みによって与えられるものであることが教えられています。5:4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。ここでの「悲しむ」とは、罪や不正、苦しみに対する深い悲しみを意味します。このような悲しみは、神との関係を深め、最終的には神からの慰めと癒しが与えられることを約束しています。悲しみを通して、人は神の憐れみと希望を体験するのです。5:5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。「柔和」とは、力や権力を振りかざさず、他者を尊重し、平和を大切にする態度です。この教えは、世間的には「強い者」が勝つという価値観とは対照的です。柔和な人は、神の約束に信頼し、最終的には地(神の国)を受け継ぐと約束されています。5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。「義に飢え渇く」とは、神の正義や公平さを強く求める心を指します。このような人は、神の正義が実現することを切望し、その願いが神によって満たされると約束されています。ここでの「満たされる」とは、霊的な充足感や神の国における完全な正義の実現を意味します。 5:7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。「憐れみ深い」とは、他者の苦しみに共感し、助けや赦しを与える態度です。この教えは、神の憐れみを受けるためには、まず他者に憐れみを示すことが重要であることを示しています。イエスは後に、「憐れみのない者には、憐れみも示されない」とも教えています(マタイ18:33)。5:8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。「心の清い」とは、偽りや邪心がなく、神に対して純粋な心を持っている状態を意味します。このような人は、神との深い交わりを持ち、最終的には神の栄光を直に見ることができると約束されています。これは、神との関係が清さと純粋さによって築かれることを教えています。5:9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。「平和を実現する」とは、単に争いを避けるだけでなく、積極的に和解や調和をもたらすことを意味します。このような人は、神の性質(平和をもたらす者)を反映しているため、「神の子」と呼ばれるにふさわしいとされています。イエス自身が「平和の君」と呼ばれているように(イザヤ9:6)、平和を実現することは神の働きに参与することです。5:10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。ここでの「義」とは、神の正義や真理を意味します。この教えは、神の正義のために苦しむ人は、天の国を受け継ぐと約束されています。迫害は苦しいものですが、神の国における報いが約束されているため、忍耐と希望を持って進むことが勧められています。「八福の教え」は、世間的には弱さや苦しみと見られる状態が、実は神の目には価値があり、祝福されていることを教えています。イエスは、真の幸いとは物質的な豊かさや力ではなく、神との関係や霊的な価値にあると教えているのです。そして、今日の聖書箇所である13節からは、その適用が始まります。今まで、キリスト者とはどういう存在なのかということが述べられてきましたが、キリスト者は、この世に対してどうやってそのことを現すのか、キリスト者として何をなすべきかが説かれています。今日の説教の本題です。13節を見てみましょう。5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。まず、クリスチャンは塩に例えられています。塩は調味料として欠くことのできないものです。「さしすせそ(砂糖、塩、酢、胡椒、味噌)」と言いますね。塩は、体内の水分や栄養の吸収、神経や筋肉の働きを調整するなど、さまざまな効能があります。栄養的に最も大切な成分です。ですから、塩分が欠乏すると、倦怠感、疲労、嘔吐、痙攣、めまいなどの症状が現れます。塩は水と同様に、人間が生存するために絶対に必要なものです。塩が人間の生存に必要であることは、旧約聖書エズラ記7章(エズラの帰還)からもわかります。7章22節を見てみましょう。7:21 7:21 天にいます神の律法の書記官、祭司エズラの要求には、すべて怠りなくこたえるように、このアルタクセルクセス王がユーフラテス西方の全財務官に命令しておく。 7:22 銀は百キカルまで、小麦は百コルまで、ぶどう酒は百バトまで、油は百バトまで、塩は制限なく与えられる。何故、塩が無制限であるかは聖書には記されていませんが、自明の理でしょう。塩は絶対に必要なものであり、さらにその大きな働きには「防腐剤」としての役割もあります。古代から塩は用いられてきました。エジプトでは死体をミイラにするために塩漬けにしたとの記述があります。現在、馴染み深いところでは漬物や塩鮭など、保存食も防腐効果のおかげです。塩を加えることにより食品が腐りにくくなります。私たちキリスト者は「世の塩」です。この悪い時代にあって、世の防腐剤として主から召されているのです。防腐剤として働こうではありませんか。クリスチャンはこの世の悪しきものから離れていなければなりませんが、この世からは離れては生活もできませんし、そもそもこの世から離れていたら伝道ができません。塩気のなくなったようなキリスト者ではなく、この世に対する絶対必要な「防腐剤」であり続けましょう。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリスト者はこの世の防腐剤ということです。
②暗闇を照らす光
14,15節を見てみましょう。5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。ここでは、クリスチャンが光、あかりであるように記されています。塩と同様に光も私たちにとって絶対に必要なものです。2019年の9月に発生した令和元年房総半島台風の影響で停電を強いられた方もいると思いますが、自然災害にかかわらず、停電は突然起こります。時は1977年、ニューヨークのマンハッタンの高層ビルで、突然、停電が発生しました。しかも、夜遅く、一人でエレベーターに乗っていた時の出来事です。ジョン・マクレガーは、仕事を終えてオフィスビルから帰ろうとしていました。時刻は夜の11時。エレベーターホールには誰もいませんでした。彼はエレベーターに乗り、ゆっくりと閉まるドアを見ながら、「早く家に帰って寝たいな」と思っていました。しかし、エレベーターが15階から14階へと下がったとき——バチンッ!突然、エレベーターの明かりが消え、同時に動きも止まりました。停電です。ジョンは息をのんだ。エレベーターは完全に動かなくなりました。非常ボタンを押しましたが、何も起こりません。静まり返った空間に、ジョンの呼吸音だけが響きます。ジョンは焦って壁を拳で叩きました。しかし、どうしようもありません。恐怖に襲われ、背中にはじっとりと汗がにじみます。ここは14階と13階の間。外と連絡を取る手段はありません。1977年当時、スマホなんてものはなかったのです。どのくらい経ったのでしょうか。数分か、それとも何十分でしょうか。時間の感覚がなくなっていきました。停電のことを英語のスラングでBlackoutというのですが、Blackoutには失神の意味もあります。正に失神しそそうでしたが、そのとき——バチンッ!突然、エレベーターの照明が戻りました。助かった!!!この時ほど光に感謝したことはありませんでした。エレベーターが動き出し、ゆっくりと下降を始め、無事に一階に着いたのです。もし、光が付くことなく、エレベーターが急に動き出したらどうでしょうか。表現が出来ないほどの恐怖感ではないでしょうか。この話をするたびに、光への感謝の念を禁じ得ません。また、光やあかりは暗闇を照らすだけではなく、「山の上にある町」のように周りに対して目立つものであり、サインとなるものであることが記されています。今の社会では灯台や交通信号機に代表されるように、周りに対して目印となるもの、何かを示すものです。つまり、灯りや光は輝かなければ何も意味がありません。東日本大震災後の5月にボランティア活動で被災地を訪れたのですが、信号機の復旧が進まずに交通事故が頻発しているとのことを現地の方から聞きました。光やあかりは機能して初めて意味を成すものです。私たちは神様、イエス様に出会う前は暗闇の中にいましたが、私たちは今や世の光と変えられたのです。私たちも光輝くクリスチャンであり続けましょう。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリスト者は暗闇を照らす光ということです。
③交わりを通して成長をする
16節を見てみましょう。5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。16節は、次のように言い換えられると思います。『そのように、あなたがたはキリストの香りを放ち、未信者があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父の子となるように導きなさい。簡単に言えば、身を持って示し、範となり、イエス様へ導きなさい。』私が生まれて初めて行った教会の方々が正にそうでした。私をイエス様のもとに導いてくださいました。本当に良い方ばかりの教会でした。当時、その教会の説教はエレミヤ書の講解説教だったので、全く分かりませんでしたが、教会員の方と会えるのが楽しみで教会に通い続けました。初めは教会員の方と会えるのが楽しみで通い続けたのですが、だんだん考えが変わってきました。どうしたら私もこのような人になれるのだろう、このような人になりたいと。では、どのようにしたらこのように成熟した「地の塩、世の光」になれるのでしょうか。ヘブライ人への手紙10章24,25節には次のように書かれています。10:24 互いに愛と善行に励むように心がけ、 10:25 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。この箇所は、再臨を踏まえ、愛と善行に励み、信仰を共に支え合い、教会の交わりを大切にすることを勧めています。信仰は個人のものだけでなく、共同体の中で育まれ、強められるものです。信仰の仲間と共に歩むことが、キリスト者の霊的成長につながります。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリスト者は交わりを通して成長をするということです。私たちクリスチャンは、復活された主、勝利のイエス様を救い主と受け入れ、罪が許され、天国への切符が与えられています。イエス様を救い主と信じ告白するだけで、その他に必要なものは一切ありません。過去、現在、未来の罪が完全に赦され、天国で永遠の命が保障されています。これ以上に幸いなことはありません。どうかこの天国行きの切符の手に入れ方を、一人でも多くの未信者の方へ伝えようではありませんか。未信者は未来の信者の略とも言えます。そのためには聖霊に満たされ、御霊の実を結び、キリストの香りを周りに放ち続けることです。私自身の経験でもそうですが、事故がきっかけで教会の門は叩きましたが、教会に通い続けたのは、その教会に集う方に会いたい、そしてそのような人になりたいと思ったからです。クリスチャンの生き方そのものが証となり、神様、イエス様のもとへ導けるのです。聖なる神様、聖霊様が成長をさせてくださいます。最近、ニュースを見たり、新聞を読んだりすると気持ちが塞いでしまうことがあります。振り込め詐欺に代表されるような、お年寄りや弱者をターゲットにした悪質な犯罪が横行しています。私自身もクリスチャンになる前は、必ずしも品行方正に生きてきたわけではありませんが、いつからこの国はこんなふうになってしまったのだろうと時々思います。腐敗した暗黒ともいえる時代に、私たちは地の塩、世の光として召されました。絶対に欠かせない存在です。今年度から伝道を目的としたウェルカム礼拝を開始したり、フードパントリーを開催したりすることになりました。DVD鑑賞会や賛美カフェも伝道につながります。地道なトラクト配布は大切ですが、何よりも大切なことは、日常生活において塩気を保ち、光り輝き続けることです。それが証、生きた証そのものではないでしょうか。
Today’s Takeaways
①この世の防腐剤 ②暗闇を照らす光 ③交わりを通して成長をする