説教題:憐みを求めて叫び続ける 聖書箇所:マルコによる福音書10章46節-11章11節
◆盲人バルティマイをいやす 10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。 10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
◆エルサレムに迎えられる 11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。 11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
ハレルヤ!五月の第四主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその33回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。10章32-45節を通して、「人の子は仕えるためにこられた」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①イエスは使命に従われた ②キリストに在る人格者を目指す ③イエスは仕えるために来られた でした。今日は続く10章46節-11章11節を通して「憐みを求めて叫び続ける」と題しお話しします。ご一緒に学んで参りましょう。
今日の聖書箇所には、エリコでの盲人バルティマイの癒しと、イエスのエルサレムへの勝利の入城という、一見すると全く異なる二つの出来事が記されています。新共同訳聖書の小見出しは「盲人バルティマイをいやす」と「エルサレムに迎えられる」です。しかし、この二つの出来事を注意深く見ていくと、私たちは主イエスに対する二つの対照的な見方、盲人で物乞いのバルティマイと群衆の信仰の差がわかります。真の信仰の目と世俗的な期待の目があることに気づかされます。イエスがエルサレムへと向かう旅の途中で起こったこれらの出来事は、この旅の終着点である十字架とその先に待つ復活という、主イエスの使命の核心を示唆しているのです。
①信仰の目を養う
46節から順番に見てまいりましょう。10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。イエスの一行は「エリコの町」に到着しました。ルカによる福音書19章を読むと、その晩はザアカイの家に泊まったことがわかります。翌日、「弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコを出て行こうとされた」時の出来事です。そこには、「バルティマイという盲人の物乞い」が道端に座っていました。聖書にはバルティマイについての記述はこの箇所以外ありませんが、一人の「盲人の物乞い」にもかかわらず、丁寧に「ティマイの子」と紹介しているのは、バルティマイの求めと信仰が立派だったからでしょう。47,48節を見てみましょう。10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。バルティマイの信仰は、まず彼が「ナザレのイエスだ」と聞いた時に、「ダビデの子イエスよ」と叫んだことに表されています。「ダビデの子イエス」とはメシアを表す言葉です。ここにイエスの真の姿を見抜いていた盲人で物乞いであったバルティマイの信仰の深さを見ることができるのです。バルティマイの堅固な信仰にもかかわらず、人々は彼を黙らせようとしました。社会的に弱い立場にあった盲人の叫びは、多くの人にとって邪魔だったのかもしれません。それでもバルティマイは、ますます大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。彼の信仰はメシアの「憐れみ」を求めたことに表されています。彼は自分自身の境遇を良く知っていました。イエスの憐みにすがるしかないと思っていたのです。このことはイエスが憐み深いメシアであると信じていたからです。また、彼のこの叫びは、周囲の反対にも屈しない、揺るぎない信仰と決意の表れです。真の信仰は、時に周囲からの反対や困難に直面しますが、それを乗り越える力強さを持っているのです。私たちも、バルティマイのようにイエスを憐み深い「ダビデの子イエス」と告白できる信仰を見習いたいと思います。49-50節を見てみましょう。10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。憐み深い主は、このような信仰の叫びを無視なさいません。叫びは主に届いたのです。主は立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。これは、主が一人ひとりの個人的な願いに耳を傾けてくださることを示しています。人々は盲人を呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と伝えました。バルティマイはこの呼びかけを福音のように受け止めたことでしょう。彼は身につけていた上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスのところへやって来ました。この上着は彼にとって唯一の財産だったことでしょう。それを捨てるという行為は、全てを投げうってでも主イエスと共に新しい人生を歩むという、彼の決意の表れです。51-52節を見てみましょう。10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。主イエスはバルティマイに「何をしてほしいのか」と尋ねられ、彼は「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。単なる物乞いであれば、お金を求めたことでしょう。しかし、盲人でもある「バルティマイ」は視力の回復を願ったのです。これは単に肉体の視力を回復したいという願いだけでなく、霊的な目を開いてメシアである主をより深く理解したいという願いでもあったと思います。主は彼に言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」すると、盲人はすぐに見えるようになり、なおも道を進まれる主イエスに従ったのです。信仰のあるところにメシアは憐みをかけられるのです。「バルティマイ」は肉体の目が見えなかった人ですが、それ以上に「信仰の目」を持っていた人物でした。彼の信仰が、イエスとの出会いによって新しい人生への扉を開いたのです。「道を進まれるイエスに従った」とありますが、憐みを受けた「バルティマイ」は、イエスを証ししたいと思いイエスと共に歩んだのです。今日、まず覚えて頂きたいことは信仰の目を養うということです。
この物語は単なる癒しや奇跡の話ではありません。私たちがどのようにしてイエスと出会い、従っていくのか――その道筋を示してくれています。そして、この物語のすぐ後に続くのが、イエスのエルサレム入城です。「バルティマイ」の叫びと、群衆の「ホサナ」の叫び。二つの叫びを重ね合わせることで、私たちは信仰の核心に触れることができます。
②主イエスは平和の君
1-3節を見てみましょう。11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」イエスの一行は、エルサレムに近い「オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニア」に来ました。「ベタニア」はエルサレムから東に3キロのところにある小さな村で、イエスの親しい友人であるマルタ、マリア、ラザロの家がありました。ヨハネ11:1を見てみましょう。イエスにとって旧知の場所だったのです。11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。そこで、イエスは二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言われて彼らを使いに出したのです。このお言葉は、その時よりも約500年前の預言者ゼカリヤの言葉の成就です。ゼカリヤ書9章9節を開いて見ましょう。 9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。「娘シオン」、「娘エルサレム」とは、ともにエルサレムの民という意味です。イエスは、これからの行動をもって、ご自身が旧約聖書に預言されている救い主であることをイスラエルの都であるエルサレムで示されるのです。それは、軍馬にまたがり、戦の弓をとり、戦車を率いる者によって救いと平和がもたらさせるのではありません。「雌ろばの子」にまたがる平和の君によって、世界に平和と救いが訪れるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主イエスは平和の君ということです。
③主の必要は必ず満たされる
4-6節を見てみましょう。11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人の弟子は、「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』というイエスのお言葉を不思議に思いながらもベタニアに行きました。すると、イエスのお言葉通りだったのです。ろばの子は見つかりましたが、そこにいた人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言ったので、主が言われたとおり「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と伝えると、ろばを許してくれたのです。このことは、現在の私たちにも当てはまります。「主がお入り用」とされていることであるならば、それはかならず満たされるという事なのです。したがって事が成るか成らぬかを心配するよりも、それが神の御心に適っているかを考えることが大事なのです。御心に適った物事であれば、どんなにこんなに思えても必ず成就するのです。今日、三番目に覚えて頂きたいことは主の必要は必ず満たされるということです。そして、忘れていけないことは、「主がお入り用」と言われて、人々が、即座に捧げたということです。私たちには、その心構えで出来ているでしょうか。
④憐れみを求めて叫び続ける
7-10節を見てみましょう。11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。 11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」弟子たちが子ろばを連れて戻って来ると、多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また、野原から切って来た木の葉を敷きました。そして、前を行く者も後に続く者も「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。祝福あれ、我らの父ダビデの来るべき国に。ホサナ、いと高きところに。」と叫びました。「ホサナ」という言葉の意味は「救ってください」や「どうか救いをお与えください」ですが、感覚的に言えば、今日の万歳に近いと言えます。彼らはイエスをメシア、王として熱狂的に歓迎しました。 しかし、「我らの父ダビデの来るべき国」という彼らの叫びから、イエスに対する彼らの期待が、霊的な救いよりもむしろ、ダビデ王の時代のような政治的な解放と繁栄を期待していたことが読み取れます。 彼らの熱狂は、メシアとしてのイエスを歓迎するものでしたが、その理解は世俗的な支配者のイメージに留まっていたのです。彼らは、イエスをユダヤをローマの政治的支配から解放してくれると考えていたのです。自分に都合の良い考えだけでイエスを歓迎する者は、やがてイエスを捨てる者と成り得るのです。11節を見てみましょう。
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。イエスはエルサレムに入り、神殿に行きすべてを見回した後、既に夕方になっていたので、十二弟子と一緒にベタニアに戻られたのです。イエスがエルサレムで行うべきことを静かに準備する場面です。イエスの行動には深い意味があり、やがて訪れる十字架と復活への道筋が示されています。エリコでの盲人バルティマイの物語と、エルサレムへのイエスの入城の物語は、イエスに対する人々の二つの異なる視点を鮮やかに描き出しています。バルティマイは、肉体の目は見えなくても、イエスを救い主として認識し、ひたすら憐れみを求めて叫び続けました。そして、信仰によって癒され、イエスの道を従順に歩み始めました。一方、エルサレムに入城されるイエスを迎えた群衆は、熱狂的に歓迎しましたが、その期待は世俗的な王国に向けられており、イエスの真の使命、すなわち十字架の苦しみと復活による霊的な救いへの理解はまだ浅かったと言えるでしょう。もし、人生の暗闇の中にいると感じているなら、バルティマイのように、どうか勇気を出してイエスに叫び求めようではありませんか。私たちは、自分の霊的な盲目を認め、イエスに憐みを求めて叫び続ける信仰を持つべきです。今日、最後に覚えて頂きたいことは憐れみを求めて叫び続けるということです。そして、世俗的な期待や一時的な感情に流されることなく、イエスの歩まれた道、それが、時には困難な道であっても、従って参りましょう。
Today’s Takeaways
①信仰の目を養う ②主イエスは平和の君 ③主の必要は必ず満たされる ④憐れみを求めて叫び続ける