• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年6月1日主日礼拝 伏見敏師

説教題信仰の実を結ぶ~信仰、祈り、赦し~ 聖書箇所:マルコによる福音書11章12-25節

◆いちじくの木を呪う 11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。 11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。 ◆神殿から商人を追い出す 11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」 11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。 ◆枯れたいちじくの木の教訓 11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。 11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」 11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 11:26 (†底本に節が欠落 異本訳)もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

ハレルヤ!六月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその34回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。10章46節-11章11節を通して、「憐みを求めて叫び続ける」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①信仰の目を養う ②主イエスは平和の君 ③主の必要は必ず満たされる ④憐れみを求めて叫び続ける でした。今日は続く11章12-25節を通して「信仰の実を結ぶ~信仰、祈り、赦し~」と題しお話しします。

福音書には主イエスがなされた数多くの奇跡が記されています。病を癒す、嵐を静める、五千人、四千人の給食など神の祝福を表しているものですが、今日の箇所はそうではありません。新共同訳聖書の小見出しは「いちじくの木を呪う 」となっていますが、その真意をご一緒に学んで参りましょう。

①形式主義に陥らない

12,13節から順番に見てまいりましょう。11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。 11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。「翌日、一行がベタニアを出るとき」とありますが、前回学んだ直前の11章11節を確認してみましょう。同段落11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。今日の箇所は、エルサレムに着いて二日目の出来事です。有名な宮清めの行われた日でした。15節からそのことがわかります。主イエスは、弟子たちと共にベタニアを出てエルサレムへ向かう途中、「空腹を覚えられた空腹を覚えられた」のです。イエスが空腹を覚えたという事実は、神としての働きの中にあっても、彼の完全な人間性が分かります。遠くから葉が生い茂ったいちじくの木を見つけ、何か実がないかと期待して近づかれました。というのは、いちじくの木は、実のなる季節でなかったとしても、葉が生い茂っている時期には、小さな早生(わせ)の実をつけていることがあるからです。早生(わせ)の実とは、通常よりも早く実を結ぶ果実のことです。イエスは、その早生の実を期待されたのかもしれません。しかし、近づいてみると、「葉のほかは何もなかった。」のです。この時、主イエスはどのようなお気持ちだったでしょうか。単に空腹を満たせなかったことだけではなかったと思います。それは、旧約聖書では、いちじくの木はしばしばイスラエルの民を象徴していたからです。葉は茂っているのに実がないこの木の姿は、当時のイスラエルの宗教指導者たちの姿を映し出していたのでしょう。彼らは外面的な律法遵守に熱心でしたが、内面的な信仰の実、神を愛し隣人を愛するという愛の実を結んでいなかったのです。  14節を見てみましょう。「イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」主イエスは、実をつけていないいちじくの木に、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。これは、自然界に対するご自身の力を表すだけでなく、心の中で良い実を結ばないイスラエルの民や宗教的指導者たち人たちへの大切な警告でもあります。弟子たちはその言葉を聞いていて、後で木が本当に枯れているのを見て、とても驚くことになります。この行動は、ただの空腹による不満ではなく、外観のみを誇る形式主義、信仰の実を結んでいない人たちに向けられた、深い意味を持つしるしとしての出来事だったのです。ある方から、かつて通っていた教会での体験をうかがったことがあります。そこは立派な会堂があり、多くの人々が集まる、伝道にも熱心な教会でした。しかし時が経つうちに、その方は教会のにぎやかさの背後にある、人々の心の空しさに気づくようになったといいます。どれほど熱心に奉仕していても、互いに批判し合ったり、排他的な態度を取ったりする人々の姿が目に入るようになったのです。その様子はまるで、葉は青々と茂っていても実をつけていないいちじくの木のように見えた、と語っておられました。この体験を通してその方は、教会の活動や外面的な立派さにとらわれるのではなく、自分の心が神の愛と恵みによって本当に満たされているか、そしてその実を結んでいるかが、何よりも大切なのだと気づかされたそうです。今日、まず覚えて頂きたいことは形式主義に陥らないということです。

②神殿は神聖な場所

15-19節では話題がかわります。新共同訳聖書の小見出しは「神殿から商人を追い出す」ですが、一般的には「宮清めの事件」或いは「神殿聖別」と呼ばれています。この出来事は、四福音書の全てに記されているほどの重大な出来後です。 15節から17節を見てみましょう。11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」主イエスと一行がエルサレムに入られたとき、まっすぐに神殿の境内へと向かわれました。そこで目にされたのは、神を礼拝するべき神殿が、商売の場と化している光景でした。祭りの時に、地方から来た巡礼者たちは、宮に捧げるための鳩など(レビ記5:7、12:6)をここで求めるためにローマやギリシャのお金をユダヤのお金に両替をしていたのです。従って両替自体は悪いことではありませんが、この「両替人」は、不当な手数料を取ることもしばしばありました。また、犠牲として鳩を捧げようとする貧しい人々のための鳩も、高値で売られていたのです。このような神殿のありさまに、イエスは深い悲しみと憤りを覚えられたのです。「そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」とある通りです。「また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」とありますが、神殿の境内を単なる通り道のようにして物を運ぶことさえ禁じられました。これは、神殿を商業の場や便宜のための通路として扱うことに対する、厳しい戒めだったのです。そして、主イエスは「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』と語られましたが、これは旧約聖書のイザヤ書56章7節とエレミヤ書7章11節からの引用です。それぞれ開いて見ましょう。イザヤ56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。エレミヤ 7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。祭りの時に、両替人も、鳩を売る者も、これらの店を許可しているエルサレム神殿の祭司たちも、不当で莫大な利益を得ていたのです。彼らは、宗教を利用して金儲けをしていたのです。宗教が不道徳の道具となってしまっていたのです。神殿は、ユダヤ人だけでなく異邦人を含むすべての人々が、心から神に祈るための神聖な場所であるはずでした。しかし、その実態は、不正な利益をむさぼる「強盗の巣」に成り下がってしまっていたのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは神殿は神聖な場所ということです。

③悔い改め、聖霊に満たされる

18,19節を見てみましょう。11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。「彼らはイエスを恐れたからである。」とあります。宗教的権威であった祭司長や律法学者たちは、イエスの行動と教えに深く動揺し、彼を殺す方法を模索し始めました。イエスが、彼らの権威や既存の秩序に対する深刻な脅威であると感じたからです。彼らが恐れたのは、群衆がイエスの教えに心を打たれ、その影響力が広がっていたためでした。このことは、イエスと宗教指導者たちとの対立を決定的なものとし、最終的にイエスの十字架刑へとつながっていく重要な転換点となったのです。「夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。」とあります。日が暮れるころ、イエスは弟子たちとともにエルサレムの外へ出て行かれました。おそらく、宿泊先のベタニアへ戻られたのでしょう。この記述は、その日の神殿での出来事に一つの区切りをつけ、翌朝へと続く流れを整えています。ところで、私たち、キリスト者もまた、聖霊の宮なる神殿です。しかし、私たちの心の中には、神様を礼拝する妨げとなる様々なものが住み着いていることがあります。貪欲さ、自己中心的な考え、他人への恨み、世俗的な欲望などです。イエスが神殿を清められたように、私たちもまた、自分の心の神殿を常に清め、神様が喜ばれる清い場所としなければなりません。悔い悔い改め、聖霊に満たされましょう。私たちが心の中の不要なものを追い出す時、初めて神様は私たちの心に住み、私たちを通してその栄光を現してくださるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは悔い改め、聖霊に満たされということです。

④十字架によって赦されている

続く20-26節には、宮清めの事件の翌日に、イエスの一行はベタニアから再度エルサレムに向かったときの出来事が記されています。新共同訳聖書の小見出しは「枯れたいちじくの木の教訓」となっています。 20,21節を見てみましょう。11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」翌朝早く、イエスと弟子たちが通りかかると、前日にイエスが呪ったいちじくの木が、根元からすっかり枯れているのが目に入りました。この「根元から枯れている」という描写は、イエスの言葉が即座に、そして徹底的に効力を発揮したことを物語っています。前日には青々と葉を茂らせていた木が、一夜にして完全に枯れ果てた姿は、神の働きの突然さと決定的な力を際立たせています。枯れたいちじくの木は、イエスの権威を目に見えるかたちで示すものであり、信仰と祈りについて語る彼の教えへとつながる、重要なきっかけとなっています。ペトロは、前日のイエスの言葉を思い出し、その言葉の力に驚きながら「「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」とイエスに伝えたのです。ペトロがイエスを「先生」と呼んだのは、イエスの権威と教える立場を認めていたからです。ペトロの言葉から、弟子たちがイエスの言葉に大きな力があることに気づいたことがわかります。そしてこの出来事が、イエスが信仰や祈りについて教えるきっかけとなりました。ペトロが驚いたのは、イエスが木に向かって言葉をかけただけで、木が枯れてしまったことが不思議に思えたからです。その驚きが、イエスに説明を求めるようなかたちになったのです。イエスは22節以降で信仰、祈り、赦しについて教えています。22節を見てみましょう。11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。ペトロが驚いたとき、イエスはすぐに答えました。それは「神を信じなさい」という、はっきりとした命令であり、同時に励ましの言葉でもありました。この言葉は、これからのイエスの教えの土台となる大切なポイントです。神への信頼こそが、イエスの力の源であり、信じる人が神のすばらしい働きを体験できる理由なのです。この場面では、枯れたいちじくの木の奇跡が、信じる心の大切さと深く結びつけられています。続いて、イエスは、強い信仰の力がどれほど大きいかを、わかりやすく印象的な例を使って教えました。23節です。11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 「山に向かって、立ち上がって海に飛び込め」と言って、それが本当に起こるとイエスは語ります。「はっきり言っておく」という言葉は、この教えがとても大事で本当のことだという意味を強調しています。この大きな力を体験するために必要なのは、「少しも疑わないこと」と、「自分の言ったことが本当に起こると信じること」です。この教えは、強い信仰にもとづいて祈るなら、どんな大きな問題でも乗り越えることができると伝えています。「山を動かす」というのは、自分の力ではどうにもできないような大きな問題や困難のことのたとえです。信仰のある所に神の力が働くのです。そして、このような信仰は祈りと結びついていることを語られました。24節です。11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。イエスは、祈りが本当に力を持つための大切なポイントを教えました。それは、「祈るときには、すでにそれがかなえられたと信じなさい」ということです。これは、ただ願うだけでなく、「きっと神さまが聞いてくださっている」と信じる心を持つことが大切なのです。そしてイエスは、「そうすれば、そのとおりになる」と約束しています。この教えは、神さまが祈りにこたえてくださる力と意志があることを信じるようにと、私たちにすすめています。信じる人は、「神さまはちゃんと聞いてくださる」と心から信じて祈るべきだということです。注意して頂きたいことは、祈りはたんなる自分の希望の達成ではありません。信仰とは人間の勝手な信心ではなく、神の御心に沿ったものでなくてはなりません。ですから、祈りもまた神が中心でなくてはなたないのです。最高の祈りは、「主よ御心をなさせたまえ」と言えるでしょう。また、恩師の故 尾山令仁先生からは次のように習いました。「日々、主とディボーションをしていると、必然的に御心が分かるものです。ですから、祈りが応えられるです」と。最後に、25,26節をご覧ください。祈りと赦しの関係が記されています。11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 11:26 もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。「立って祈るとき」とあるのは、当時の人たちがよく立って祈っていたという習慣を表しています。イエスは、心がきよく、人との関係が正しくあることが本当の礼拝に大切だと語っています。そして、祈るときに誰かを恨んでいるなら、その人をゆるしなさいと言われました。そうすれば、神さまも私たちの罪をゆるしてくださるという約束です。ここで言う「ゆるし」とは、ただ怒りをおさえるのではなく、相手のしたことを心から手放すことを意味しています。神さまが私たちをゆるしてくださるように、私たちも他の人をゆるすことが大切なのです。聖書は一方的に相手を赦しなさいとは教えていません。先ず、自分が主イエスの十字架によって赦されていることを決して忘れてはならないのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは十字架によって赦されているということです。

Toda’s Takeaways

①形式主義に陥らない ②神殿は神聖な場所 ③悔い改め、聖霊に満たされる ④十字架によって赦されている

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