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2025年6月22日主日礼拝(ウエルカム礼拝)伏見敏師

説教題 神のプレゼントは永遠の命 聖書箇所:ローマの信徒への手紙 3章23節、6章23節

3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

ハレルヤ!6月の第四主日を迎えました。今年度から偶数月の第四礼拝では「ウエルカム礼拝」を開催しており、本日がその第二回目となります。初めて教会に来られる方にも分かりやすいメッセージをお届けします。まず聖書についてご説明しましょう。聖書は「旧約聖書」39巻と「新約聖書」27巻、計66巻で構成されています。「巻」という単位が使われるのは、当時は製本技術がなく、すべて巻物だったからです。旧約聖書はイエス・キリスト誕生以前の時代を記録したもので、天地創造からユダヤ民族の歴史、救い主到来の預言が記されています。一方、新約聖書はイエス・キリストの生涯と教え、十字架と復活、そして初代教会の歩みを中心に記されています。ごく簡単に言いますと、旧約聖書が救い主の預言なら、新約聖書はその成就なのです。「約」は「契約」の略で、旧約がユダヤ民族との契約であるのに対し、新約は全人類への契約へと拡大されたものです。この二つが一体となって、神の完全な啓示である聖書が完成したのです。今日の聖書箇所は「ローマの信徒への手紙」からです。この書簡は新約聖書27巻の一つで、紀元57年頃、イエス・キリストの弟子であるパウロによってローマの信徒たちに書かれました。キリスト教の教理の中でも特に重要な位置を占める書簡です。著者パウロは、元々「サウロ」という名のユダヤ教律法学者で、熱心にキリスト者を迫害していました。しかし、ダマスコ途上で復活のキリストと出会い、劇的な回心を経験。その後は異邦人伝道に生涯を捧げ、数多くの教会を設立し、書簡を記しました。これらの「パウロ書簡」は新約聖書の重要な部分を占め、キリスト教神学に多大な影響を与えています。伝承によれば、パウロは最後にローマで殉教したとされています。

①すべての人は罪人である

では、3章23節をお読みします。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、前回、4月のウエルカム礼拝でもお伝えしたように、罪とは、単なる犯罪行為以上の深い意味を持っています。聖書が示す「罪」とは、外側の行動だけでなく、心に宿る悪い思い(憎しみ、傲慢、無関心など)と、そこから生まれる言動すべてを含みます。ニュースで報じられる凶悪犯罪でさえ、元をたどれば些細な心の歪みから始まっていることが多いのです。この「罪」は、原語のギリシャ語でハマルティア(的外れ)と呼ばれ、神との関係の断絶や、神の御心から外れた状態を指します。つまり、神が意図された本来の生き方から逸脱していることです。「罪」は単なる道徳的失敗ではなく、神との関係における根本的な断絶と反逆なのです。聖書は人類最初の罪を、創世記3章に記されたアダムとエバの物語で描きます。彼らが善悪の知識の木の実を食べた行為は、「神を神とせず、自分を中心にした生き方」を選んだことを象徴しています。この原罪以来、すべての人間は罪の性質を受け継いでおり、生まれたばかりの赤ちゃんでさえ「罪人」なのです。23節後半の「神の栄光を受けられなくなっていますが」という箇所について説明します。「神の栄光」とは「神の誉れ」「神の輝き」「神の威厳」とも言えるもので、神の固有の価値と完全な聖性、そして神ご自身の性質を表します。罪を犯す前の人間は、神に造られた者として、本来はこの栄光を映し出す存在だったのです。創世記1章26節を開いてみましょう。 1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。本来はこの栄光を映し出す存在だったのですが、罪によって、私たちは神とのつながりを失い、神の栄光を感じられなくなってしまいました。「神の栄光を受けられなくなっています」という言葉は、神との正しい関係が壊れてしまったことを表しています。ここで鏡を例にして考えてみましょう。きれいな鏡は光を完全に反射し、物体の姿をありのままに映し出します。しかし、鏡に汚れや傷がつくと、映る像はゆがみ、不鮮明になります。私たち人間も同じです。神に造られた時、私たちは神の栄光を完全に映し出す「鏡」でした。しかし罪によって「鏡」に傷がつき、神の栄光を正確に反射できなくなってしまったのです。自分の姿さえも正しく見えなくなっています。ここで大切なのは、罪を「自分は悪いことをしていない」「人よりはましだ」というような人間の考え方で判断してはいけないということです。聖書が教える罪の基準は、完全に聖い神様の基準なのです。今日、まず覚えていただきたいことは「すべての人は罪人」であるということです。でも、ありがたいことに、神様はこの罪の問題を解決する方法を、ご自身の愛と恵みによって用意してくださっています。

②罪とは霊的な死の状態

6章23節を見てみましょう。6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。「罪が支払う報酬は死です」と書かれています。罪と同じように、死も聖書やキリスト教を理解する上で大切な言葉です。聖書が教える死には3つの種類があります。

「肉体の死」この世での命が終わること

「霊的な死」神との関係が断たれた状態

「永遠の死」神から永遠に離れた状態

「肉体の死」は、私たちが普段考える「死」と同じで、この世での命が終わることを指しています。この世での死です。創世記 3章19節を開いて見ましょう。3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」「土に返る」というのは、私たちの体が死ぬことを表しています。肉体の死です。「霊的な死」は、神様とのつながりが切れてしまった状態のことで、罪がもたらした根本的な問題です。聖書では、この「霊的な死」と「体の死」を別ものとして説明し、永遠の命と対比させて教えています。この23節の前半が言っているのは、まさにこの「霊的な死」のことです。神様は完全に清い方なので、罪を受け入れることができません。そのため、罪によって人は神様から離れ、霊的に死んだ状態になってしまうのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは「罪とは霊的な死の状態」ということです。「永遠の死」とは、この「霊的な死」の状態のまま人生を終えることを意味します。これは永遠の刑罰と言い換えることもできます。

③神のプレゼントは永遠の命

では、6章23節の後半を見てみましょう。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。ここで言う「賜物」とは、神様からのプレゼント(贈り物)のことです。英語の聖書では”Gift”と書かれています。神様は、罪の中にいる私たちに「永遠の命」という最高のプレゼントを準備してくださったのです。しかも、私たちが何か特別なことをしなくても、ただで与えてくれるものです。このプレゼントは、イエス・キリストを通して与えられます。具体的には、イエスの十字架と復活によってです。こんなたとえ話を考えてみましょう。私たちの世界と神様の世界の間に大きな橋がかかっていたとします。でも、罪によってその橋が壊れてしまい、私たちはもう神様のところに行けなくなってしまいました。どんなに頑張っても、この壊れた橋は渡れません。イエスは、この壊れた橋を修復してくださった方です。聖書はただ罪を指摘するだけではなく、罪から救われる方法を神様が準備してくださったことを教えています。イエスは罪のない神の子として人間の姿になり、十字架で私たちの罪の代わりに罰を受けてくださいました。本来なら私たちが受けなければならなかった「死」の罰を、イエスが代わりに受けてくれたのです。そして三日後に復活し、罪と死に勝利してくださいました。この出来事によって、壊れていた橋が再びつながり、私たちはイエスを通して神様のもとに行けるようになったのです。イエスが来られる前の旧約聖書の時代には、大祭司が年に一度、人々の罪のために動物を犠牲にしていました(レビ記16章)。しかし神様は時が満ちると、イエスを一度きりの完全ないけにえとして送ってくださったのです(ヘブル9:11-14)。大切なのは、イエスが来られたのは、旧約時代の人々が何度も犠牲を捧げたのに悔い改めなかったからではありません。実は、永遠の昔から神様は、罪のない一人子をこの世に送ることを決めていらっしゃったのです。23節の最後にある「永遠の命」とは、天国のことです。天国は「神の国」とも呼ばれ、神様が完全に治めておられ、信じる者が永遠に生きる場所です。そして、天国がどんなところかは、イエスの弟子ヨハネが書いた「ヨハネの黙示録」に詳しく書かれています。見てみましょう。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)都の城壁は碧玉で築かれ、都は純金でできていた。ガラスのように透き通っていた。都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。(黙示録21:18-19)都には、これを照らす太陽も月も必要ではない。神の栄光が都を照らし、小羊(キリスト)が都の明かりだからである。」黙示録21:23)もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都の中にあり、その僕たちは神を礼拝する。(黙示録22:3)

聖書が描く天国は、この世のどんな栄華も及ばない神の栄光に満ちた世界です。涙も死も悲しみもない、完全な平安の場所-神ご自身が私たちの目からすべての涙をぬぐい取ってくださり、古い苦しみの記憶さえも過ぎ去った世界が待っています(黙示録21:4)。碧玉のように澄み渡る城壁、透き通った純金の街並み、宝石で彩られた土台-その壮麗さは人間の想像を超えています(黙示録21:18-19)。この都には太陽も月も不要です。神の栄光が燦然と輝き、キリストこそが永遠の光となられるからです(黙示録21:23)。最も驚くべきは、この都には一切の呪いが存在しないことでしょう。神とキリストの玉座が中心にあり、私たちは罪の影響から完全に解放され、純粋な礼拝へと招かれているのです(黙示録22:3)。この約束の地は、信じる者たちに与えられる、神の愛の究極の表現なのです。では、どうしたらこの神の栄光に溢れた素晴らしい天国にいけるのでしょうか。エフェソの信徒への手紙には次のように記されています。エフェソの信徒への手紙もパウロ書簡の一つです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神からの賜物です。」エフェソ2:8)この聖句はキリスト教の救いの本質を余すところなく示す核心的な宣言です。救いは人間の努力や善行によって得られるものではなく、ただ神の一方的な恵み、つまり無償の愛によって与えられるものだと明言しています。驚くべきことに、この救いを受け入れる信仰さえも神からの贈り物なのです。キリストの十字架による贖いを通して、私たちは完全な救いをいただきます。救いの全過程が神の御業であり、私たちにできることはただこの恵みを受け取ることだけです。この真理は、自己努力で救いを勝ち取ろうとする思いから私たちを解放し、神への深い感謝と謙遜な信仰生活へと導いてくれます。まさにキリスト教の救いは、恵みに満ちあふれていると言えるでしょう。今日、最後に覚えて頂きたいことは「神のプレゼントは永遠の命」ということです。今日のメッセージを聞いて、もしあなたが罪の重荷を感じていたり、神様との関係を修復したいと願っていたりするのなら、ぜひ今この時を決断の時としてください。神様はあなたを深く愛し、イエス・キリストを通して「永遠の命」という最も尊い贈り物を準備して待っておられます。この愛の贈り物を受け入れ、主イエスと共に新たな人生の一歩を踏み出しませんか? 天国を望む方、共に祈りましょう。「神様、私は罪人です。しかし、イエス様が私の罪のために十字架で死んでくださったことを信じます。どうか私の罪を赦し、永遠の命を与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

Today’s Takeaways

①すべての人は罪人 ②罪とは霊的な死の状態 ③神のプレゼントは永遠の命