説教題:イエスの証人となる 聖書箇所:使徒言行録1章1-8節
◆はしがき 1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。◆約束の聖霊 1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」◆イエス、天に上げられる 1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
ハレルヤ!六月の第二主日を迎え、聖霊降臨日(ペンテコステ)を祝うペンテコステ記念礼拝を捧げています。この日は、初代教会が聖霊に満たされ、福音宣教の使命を受けた記念すべき日、まさに「教会の誕生日」であります。ペンテコステは、ユダヤ教においては収穫祭である「七週の祭り(シャブオート)」として知られ、ギリシャ語で「五十番目」を意味し、その名の通り、過越祭から数えて五十日目に祝われてきました。キリスト教においては、この日がイエスの弟子たちに聖霊が降臨し、教会が誕生した日として、新たな意味を持つようになったのです。もともと、農作物の収穫を祝う祭りであったペンテコステは、キリスト教において「霊的な実り」を象徴するようになりました。この変化は、神が私たちに物質的な恵みだけでなく、霊的な成長という賜物も与えてくださるということを示しています。本日の聖書箇所、使徒言行録1章1節から8節には、復活したイエス・キリストが昇天される直前に、弟子たちに語られた重要な言葉が記されています。主イエスは四十日間、弟子たちと共に過ごし、神の国について教えられました。そして、天へと昇られるまさにその瞬間、弟子たちに最後の指示を与えられたのです。本日は、使徒言行録1章1節から8節を通して、『イエスの証人となる』と題してお話をいます。ご一緒に学んでまいりましょう。
①神の霊が心に住まわれる
1,2節はこの手紙の「はしがき」です。ルカによる福音書1章3節と共に見てみましょう。1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。ルカ1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。「テオフィロ」という名前があります。聖書の中で「テオフィロ」についての記述は、この箇所のみです。そのため、彼が具体的にどのような人物だったかははっきりしません。しかし、ルカが彼に「献呈する」と記していることから、社会的に地位の高い人物だったと考えられます。また、「テオフィロ」という名前自体が「神の友」あるいは「神を愛する者」という意味を持つため、信仰深い人物だった可能性もあります。続いて、「わたしは先に第一巻を著して」とありますが、この「第一巻」は「ルカによる福音書」を指します。したがって、使徒言行録には直接的な記述はありませんが、このことから著者がルカであるとわかります。ルカによる福音書は、イエスの降誕から復活までの出来事を記しており、使徒言行録はその続編として位置づけられます。使徒言行録には、復活したイエスと弟子たちの働きが記されており、特に、イエスが天に昇られる前に聖霊を通して弟子たちに指示を与えたことが強調されています。聖霊はイエスの教えを伝える上で重要な役割を果たし、その後の弟子たちの活動に深く関わっていくことが示されています。「聖霊を通して指図を与えた」という言葉から、主イエスの教えや指示は単なる人間の考えによるものではなく、神からの導きによるものであることがわかります。聖霊は、イエスの宣教活動を支え、弟子たちがこれからどう行動すべきかを導く上で、欠かせない存在でした。さらに、「天に上げられた日まで」という表現は、イエスの地上での働きが終わり、弟子たちの新たな働きが始まるという転換点を示しています。イエスが天に帰られたことは、地上での使命の完了を意味するだけでなく、約束された聖霊が弟子たちに与えられ、教会が誕生し、福音宣教が始まるための準備期間でもあったのです。3-5節は聖霊が与えられることの約束で、新共同訳聖書の小見出しは「約束の聖霊」となっています。3節を見てみましょう。1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。「苦難を受けた後」という表現は、主イエスの復活が作り話や想像ではなく、実際に起こった出来事であることを強く伝えています。これはイエスが十字架で苦しみ、死なれたことを意味しており、その後の復活は死を打ち破ったことを示しています。イエスは復活したことを弟子たちに確信してもらうために、いくつかの明確な証拠を示されました。具体的には、弟子たちの前に姿を現したり、一緒に食事をされたり、弟子たちが実際にイエスの体に触れることを許されたりしました。このように、誰の目にも明らかな形で復活を示されたのです。そしてイエスは、復活してからの40日間にわたり、「神の国」について語り続けられました。この40日間は、弟子たちがこれからの働きに備えるための重要な準備期間でした。「神の国」がイエスの教えの中心テーマであり、復活後もそのメッセージが変わらなかったことがわかります。つまりイエスは、神の国が単なる未来の出来事ではなく、ご自身の復活によってすでに始まっていることを弟子たちに伝えていたのです。4節を見てみましょう。 1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。「彼らと食事を共にしていたとき」という記述から、イエスが物理的な体をもって復活されたことが分かります。同時に、弟子たちとの親密な交流関係もうかがえます。この時、イエスは弟子たちに「エルサレムから離れないように」と命じられました。エルサレムは、イエスが十字架にかけられ、復活された重要な場所であり、弟子たちの宣教活動の起点でもあったからです。イエスが弟子たちに留まるよう命じられたのは、「父の約束されたもの」を待つためでした。これは次の節ではっきりと示されるように、聖霊を指しています。イエスは、弟子たちが神の助けなしには使命を果たせないことをよくご存知で、神から与えられる特別な力である聖霊を受ける必要があると教えられたのです。この聖霊の約束は、旧約聖書においても預言されており、神の救いの計画における重要な要素でした。ヨエル書2章28,29節を新改訳聖書で見てみましょう。2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。また、イエスは十字架にかかる前の夜にも、弟子たちに「別の弁護者(聖霊)を送る」と約束していました。ヨハネによる福音書14章16,17節を見てみましょう。ヨハネによる福音書14章16,17節を開いて見ましょう。 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。聖書箇所に戻り5節を見てみましょう。1:5 ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」ここでイエスは、バプテスマのヨハネが行った「水による洗礼」と、これから弟子たちが体験する「聖霊による洗礼」を対比させておられます。ヨハネの水による洗礼は、罪の悔い改めと、到来するメシアを迎えるための準備を意味していました。一方、イエスが約束された聖霊による洗礼は、単なる象徴的な儀式ではなく、神の霊が直接人々の内に宿り、内面を変革し、力を授けるという、より深遠な霊的体験を指しています。「間もなく」という言葉は、この「聖霊による洗礼」が近い将来に実現することを示しており、弟子たちの期待をかき立てました。実際、聖霊による洗礼はペンテコステの日に成就し、使徒たちに大胆に福音を伝える力を与えたのです。今日、まず覚えて頂きたいことは神の霊が心に住まわれるということです。
②キリストの弟子には宣教の使命がある
6節から8節は主イエスの昇天に関する記述であり、新共同訳聖書では「イエス、天に上げられる」という小見出しが付いています。復活の希望に胸を膨らませていた弟子たちは、まもなくイエスが天に昇られる時を迎えます。その時、彼らがイエスに尋ねたのが6節の内容です。1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスの昇天が近づく中、使徒たちの関心は依然としてイスラエルの国家的・政治的な復興に向けられていました。彼らはイエスに「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねています。これは当時の多くのユダヤ人が抱いていたメシアへの期待、つまりローマ帝国の支配からの解放と、ダビデ王のような栄光ある王国の再建という願望を反映したものでした。使徒たちはイエスの復活という驚くべき出来事を直接目撃し、まさに今こそその期待が実現する時だと考えたのでしょう。彼らは霊的な王国よりも、目に見える地上の権力の回復に関心を寄せていたのです。私たちはどうでしょうか。神の壮大な計画を見失い、目の前の状況や個人的な都合ばかりに心を奪われてはいないでしょうか。このある意味で自己中心的とも言える弟子たちの問いに対し、イエスは彼らの期待とは全く異なる道を示されたのでした。7節です。1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。使徒たちの問いに対し、イエスはイスラエルの国の再建の時期について、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期」であると明言されました。そして「それはあなたがたの知るところではない」と付け加えられました。この言葉は、神の計画とそのタイミングが人間の理解をはるかに超えているという事実を示しています。イエスは、将来の出来事の具体的な時期を知ることが弟子たちの主要な使命ではないと強調されました。むしろ彼らは、これから与えられる聖霊の力によって使命を遂行することに集中すべきだったのです。この答えには、弟子たちの関心を世俗的な国家再興という視点から、より霊的な使命へと転換させる明確な意図が込められていました。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリストの弟子には宣教の使命がある
③主が私たちを証人として立てておられる
8節を見てみましょう。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」イエスはイスラエルの国の再建の時期に関する問いには直接答えられませんでしたが、弟子たちがこれから授かる力と使命について重要な約束をされました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」という言葉は、彼らの使命遂行に必要なのは政治的な権力ではなく、神から与えられる霊的な力であることを示しています。「力」と訳された言葉は、原語のギリシャ語ではδύναμιν(dynamin)と記されており、英語の「ダイナマイト」の語源となっています。これは単なる肉体的な強さではなく、強力な影響力を意味する言葉です。この力は神の霊である聖霊を通して与えられる内面的な能力であり、神の御心を成し遂げるための霊的強さなのです。聖霊はこの世界で働かれる神の臨在そのものであり、信者が信仰生活を貫き、使命を全うするための力を授けてくださいます。聖霊による力の約束は、キリスト者としての生活において神の力がいかに重要かを鮮明に示しています。私たちは自分自身の限られた力に依存するのではなく、神の霊によって力を得て歩むよう招かれているのです。特に現代の多くのプレッシャーや課題に直面する私たちにとって、この約束は大きな慰めとなります。なぜならそれは、人生の困難を乗り越え、周囲に良い影響を与えるために、自分の能力だけでなく神からの力にも頼ることができるという確かな保証だからです。イエスのこの約束はペンテコステで起こった変革的な出来事の核心でした。そしてそれが初期教会の誕生と急速な成長につながったのです。もしこの約束がなければ、イエスの昇天後、弟子たちは失望し、途方に暮れていたかもしれません。聖霊の到来への期待が彼らを集めさせ、祈りへと導き、ついには使徒言行録2章に記されているような聖霊の奇跡的な注ぎをもたらしたのでした。イエスの約束の後半部分、使徒言行録1章8節の後半に目を向けてみましょう。「そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」ここでイエスは、弟子たちの使命の範囲を明確に示されました。それは、彼らが直接経験し、目撃し、聞いたイエスについての証言を人々に伝える「証人」となることです。この使命は、彼らの故郷であるエルサレムから始まり、ユダヤ全土、そしてサマリアへと広がっていきます。サマリアは当時、ユダヤ人から疎外され、敵対視されていた人々が住む地域でした。そして最終的には「地の果て」まで、つまり全世界の人々へと及んでいくのです。この1章8節は使徒言行録の主題であり、中心的な聖句です。証人の範囲がエルサレムから全世界へと拡大していく様子は、キリスト教の普遍性という重要なテーマを鮮明に示しています。救いのメッセージは特定の人々や地域に限定されるものではなく、すべての人類に向けられているのです。エルサレムから始まり地の果てへと至る論理的な展開は、聖霊によって力づけられた神の計画が戦略的に進行していくことを示しています。歴史はまさにその通りになりました。当時の視点からすれば「地の果て」とも言える日本にも福音は伝えられました。身近な場所での証しが、より広範な世界的影響力の土台を築くことになるのです。これは私たちがまず自分の周囲で証しを始め、聖霊の力を受けるにつれて、その影響範囲を広げていくことができることを意味しています。オランダのキリスト教徒で、コリー・テン・ブーム(Corrie ten Boom、1892-1983)という女性がいました。彼女は第二次世界大戦中のホロコースト時にユダヤ人を匿い救った勇敢なクリスチャンとして知られています。ユダヤ人を保護したためにナチスに逮捕され、姉と共に強制収容所に送られました。絶望的な状況の中でも、彼女は神の言葉を分かち合い、祈りの集会を開き続けました。後に彼女はこう証言しています。「人間の力だけでは耐えられなかった。しかし祈りの中で聖霊が私たちに平安と勇気を与えてくださったのです」戦後、コリー・テン・ブームは世界各地で講演活動を行い、「憎しみではなく愛を選ぼう」というメッセージを伝えました。著書『隠れ家』(1971年)は世界的ベストセラーとなり、映画化もされました。こうして彼女の勇気ある行動と信仰の力が世界中に広く知られることになったのです。まさに「地の果てまで」キリストの証人として生きたと言えるでしょう。皆さんの中には、コリー・テン・ブームのような立派な証人にはなれない、到底無理だと感じる方もおられるかもしれません。しかし心配はいりません。もう一度1章8節を読み返してみましょう。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」イエスは「わたしの証人となる」と宣言されました。これは「わたしの証人となれ」という命令ではなく、イエスによる確かな宣告です。イエスが宣告されたことは必ず実現するのです。私たちは身近なところから、ためらうことなく大胆に主イエスを証ししてまいりましょう。今日、最後に覚えて頂きたいことは主が私たちを証人として立てておられるということです。
Toda’s Takeaways
①神の霊が心に住まわれる ②キリストの弟子には宣教の使命がある ③主が私たちを証人として立てておられる