説教題:賛美と希望を忘れずに歩む 聖書箇所:マルコによる福音書14章12-26節
◆過越の食事をする 14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。 14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。 14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』 14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」 14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。 14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。 14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 ◆主の晩餐 14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
ハレルヤ!9月の第ニ主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その41回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。14章1—11節を通して、「陰謀と裏切り、しかし光る献身」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①神の主権は人間の意図を超えて働く ②この世と神の価値観は異なる ③金銭欲が信仰を蝕む でした。今日は続く14章12-26節を通して「賛美と希望を忘れずに歩む」と題しお話しをします。ご一緒に学んで参りましょう。
今日の聖書箇所には、イエスと弟子たちの最後の過越の食事(最後の晩餐)の場面が描かれています。この晩餐は、イエスの裏切りや彼の死による新しい契約の確立を象徴しています。イエスはパンとワインを使って自分の体と血を示し、旧約の過越祭から新約の恵みへの重要な移行を表しています。過越祭はイスラエルの民のエジプト脱出を記念するもので、イエスの死が罪からの救いをもたらすことを示しています。この晩餐は神の救いの計画における大切な転換点であり、キリスト者にとっては信仰の核心を再確認する場なのです。
①備えはすでに整えられている
12節から順番に見てまいりましょう。14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とは、ユダヤ暦のニサン月14日のことです。今日のグレゴリオ暦では3月から4月の間にあたり、具体的な日付は年によって異なります。当時、この日の午後に小羊を屠り、夕方に種なしパンと共に過越の食事を食べる習慣がありました。過越祭は、イスラエル人がエジプトから解放されたことを記念するユダヤ教の最も重要な祭りです。神がエジプトの初子を打った時、小羊の血が塗られた家を「過ぎ越した」出来事を覚えるものです。弟子たちが「どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねたのは、場所を知らなかったからです。しかし、イエスが後で与える詳細な指示は、イエスがすべてを把握し、神のご計画に従って行動していることを現しています。イエスはこの過越祭を利用して、主の晩餐を制定しました。パンを自分の体、ぶどう酒を自分の血として提示し、過越祭の意味を新しく解釈したのです。旧約の過越が物理的な救いを象徴したのに対し、イエスの晩餐は罪と死からの霊的な救いを示し、過越の小羊の真の意味がキリストにおいて完全に実現されることを表しています。 13—16節を見てみましょう。14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。 14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』14:15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」14:16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。「二人の弟子」とは並行箇所のルカによる福音書22章7節では、この二人がペトロとヨハネであったことが記されています。イエスは、二人の弟子に対して、過越の食事の場所を用意するよう命じられました。イエスは非常に具体的な指示を与えます。「水がめを運んでいる男に出会う」という場面は、当時としては非常に珍しいものです。というのも、当時のユダヤ社会では、水汲みは主に女性の仕事であり、男性が水がめを運ぶのはまれなことだったからです。そのため、これは弟子たちにとって非常に目立つサインとなりました。この特別な指示は、イエスが事前に手配していたとも考えられますし、イエスの神としての知識によるものとも考えられます。どちらにしても、イエスがこの出来事を完全にご自身の支配のもとに置いておられたことが分かります。イエスは、自らの受難へと向かう流れを、偶然や成り行きに任せていたのではなく、神のご計画に従って一つ一つ丁寧に導いておられたのです。弟子たちは指示に従い、その男のあとについて行くと、ある家に入ります。そこで家の主人に「先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と伝えるように命じられていました。すると、その主人は「席が整って用意のできた二階の広間」を見せてくれました。この広間は、イエスと弟子たちが共に過越の食事をし、「主の晩餐」が制定される、非常に重要な場面の舞台となります。この出来事を通して、イエスは自らの死をただ受け入れるのではなく、神の救いの計画を自ら進めていることがわかります。また、「水がめを運ぶ男」のような目立たない人物も、神の計画の中で重要な役割を果たしています。神は、目立たない存在も使って歴史を動かす方です。弟子たちが「先生がお尋ねです」と言うだけで、すぐに部屋が用意されたのは、家の主人がイエスのことをよく知っていたか、あらかじめ準備していたからでしょう。この「二階の広間」は、旧約の過越祭が新しい契約である主の晩餐へと変わる象徴的な場所です。ここは、神が人々と共にいることを示す聖なる場所となったのです。
私たちの人生には、神が既に完璧に準備された道があります。弟子たちがイエスの言葉通りに行動すると、すべてが整えられていたように、神は私たちの歩みを先回りして準備してくださいます。一宮で招聘が決まった時、片道で70km弱あるためアパートを借りることを考えていたのですが、マンションが家賃なしで与えられました。マンションのオーナーは信仰者ではありませんが、家族はキリスト者でした。オーナーのご厚意により、生活に必要な椅子や机など、ほとんどのものが備えられていたのです。宿泊場所も確保され、必要な物資もすべて揃っていました。後で分かったことですが、役員の方を中心に密かに準備していたのです。神は、私たちの必要を先回りして備えてくださいます。今日、まず覚えて頂きたいことは備えはすでに整えられているということです。
②信仰と態度を真摯に省みる
17—21節を見てみましょう。14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。 14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」14:19弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。 14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」夕方になり、イエスは十二人の弟子たちとともに過越の食事の席に着かれました。「夕方」は、親しい教えや交わりの時を指す言葉であり、当時の正式な食事では人々は横になって食事を共にしていました。このような親密な雰囲気の中で、イエスは衝撃的な言葉を語られます。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」「裏切る」とは、単に仲間を裏切るという意味だけでなく、「引き渡す」というニュアンスも含まれています。マルコによる福音書ではこの言葉が十回用いられており、ユダの裏切りから始まり、祭司長たち、ピラトへと続く「引き渡し」の連鎖の中で、イエスが十字架へと導かれていく過程が描かれています。弟子たちはこの言葉に深く心を痛め、一人ひとり「まさかわたしのことでは」と言い始めます。この問いかけには、単なる疑問ではなく、「自分は忠実でいたい」という思いが込められていました。イエスはさらに、「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」と語られます。鉢に食べ物を浸すのは、親しい関係の中で共に食事をする行為であり、それを共に行っている者からの裏切りは、特に深く痛ましいものです。イエスはまた、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」と語られました。この「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」という表現は、イエスの死が偶然の出来事ではなく、旧約聖書で預言されていた複数の預言をまとめたものです。開きませんが、詩編41:10(親しい者の裏切り)、 ゼカリヤ書11:12-13(30枚の銀貨)、イザヤ書53章(苦難の僕の死)に記されていますので、後ほど読まれてください。「人の子」は、イエスが好んで使用した自己言及の表現で、ダニエル書7章13-14節の預言的な人物を指しています。見てみましょう。7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 7:14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。 この「人の子」という称号は、イエスの人間性と神性、そして終末論的な使命を含意しています。「去って行く」という表現は、イエスの死を婉曲的に表現したものです。これは単なる死ではなく、父なる神のもとへの帰還を意味しており、イエスの死が敗北ではなく、使命の完成であることを示しています。一方で、「人の子を裏切るその者は不幸だ」という厳しい警告は、神の計画の中にあっても、個人の道徳的責任は免除されないことを示しています。ユダの行為は神の計画の一部でしたが、それでも彼自身の自由意志による選択であり、その結果に対する責任を負わなければなりませんでした。「生まれなかった方が、その者のためによかった」という表現は、裏切りの行為がもたらす結果の深刻さを強調しています。これは、存在しない方がましだと言えるほどの悲惨な結末を暗示しており、罪の重大さと神の正義を示しています。 イエスは最後のときまでユダに悔い改める機会を与えておられましたが、ユダはそれに応じませんでした。過越の食事という、本来は最も親しい交わりの場で裏切りが起こったことは、罪がどれほど深く、親しい関係さえも壊してしまう力を持っていることを示しています。 この場面は、神のご計画と人間の自由な意思という、大切なテーマを教えています。神はご自身の救いの計画を確実に進められますが、それと同時に、人が自分で選んで行う行動には責任があるのです。ユダの裏切りも神の計画に組み込まれていましたが、だからといってユダの責任がなくなるわけではありません。 このことは、私たち信仰者に対して、自分の選びと行いに真剣に向き合い、正直で誠実に生きるようにと教えているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは信仰と態度を真摯に省みるということです。
③賛美と希望を忘れずに歩む
22節を見てみましょう。14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」22節は、キリスト教の聖餐式(主の晩餐)の始まりを示す、とても大切な場面です。過越の食事の中で、イエスはパンを取り、神に感謝の祈りをささげ、それを裂いて弟子たちに渡し、「これはわたしの体である」と言われました。このパンは、イスラエルの民がエジプトから急いで脱出したときの「種なしパン」ですが、イエスはそれに新しい意味を与えました。裂かれたパンは、ご自身の体が十字架で裂かれることを象徴しています。「弟子たちに与えた」という行為は、イエスが自分の命を人々のために差し出すという愛を表しています。「これはわたしの体」という言葉は、イエスが弟子たちのために自分自身を捧げるという深いメッセージでした。このパンは、イエスの命そのものだけでなく、イエスが生きた目的と、私たちの救いのために果たされた使命全体を表しているのです。23-24節を見てみましょう。14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。イエスは、弟子たちと最後の食事をともにされたとき、一つの杯を取り、神に感謝の祈りをささげてから、それを弟子たちに渡された。弟子たちは皆、その杯から飲んだと聖書は記しています。これは単なる儀式ではありません。一つの杯を分かち合うという行為は、イエスと弟子たちとの深い結びつき、そして運命を共にすることを意味していました。イエスはその場で「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」語られました。血とは命そのものです。イエスは、自らの命をささげることによって、新しい契約を私たちに示されました。それは、神との和解、罪の赦し、そして新しいいのちへの道を開くものです。この杯は、イエスが私たちの救いのために流された血を象徴しています。苦しみを引き受け、いのちを与えるために、イエスは十字架へと向かわれました。そして、今も私たち一人ひとりにこう語りかけておられます――この杯から飲みなさい、私のいのちにあずかりなさい、と。25-26節を見てみましょう。14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
イエスははっきり言われました。「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどう酒を飲むことはもうない」と。この言葉には、イエスの地上での時間が限られていること、そしてこれから迎える苦しみが近いことが込められています。しかし同時に、神の国で弟子たちと再び喜びを分かち合う未来の希望も表しています。聖餐の杯は、単なる過去の記念ではありません。神の約束のしるしであり、これから来る神の国の完成を先取りするものです。だから私たちは、苦しい時もこの希望を胸に、信仰を持って歩み続けることができます。そしてイエスと弟子たちは賛美の歌を歌い終え、オリーブ山へ向かいました。これは穏やかな食事の場を離れ、イエスが受難の道へ踏み出す重要な瞬間です。オリーブ山への移動は、私的な空間から世の中に向かう決意の表れでもあります。イエスは苦しみを避けず、父なる神の計画に従って進まれました。私たちも困難な道にあって、イエスの信頼と従順を見習い、賛美と希望を忘れず歩みたいのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは賛美と希望を忘れずに歩むということです。
Today’s Takeaways
①備えはすでに整えられている ②信仰と態度を真摯に省みる ③賛美と希望を忘れずに歩む