• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年9月21日主日礼拝 伏見美恵子師

聖書箇所:ヨハネによる福音書7章1–9節

説教題:神の時を待ち、臨在に生きる~焦らず、遅れず、御心に合わせて~ 

◆イエスの兄弟たちの不信仰 7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。 7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。 7:3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。 7:4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」 7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。 7:6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。 7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。 7:8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」 7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

おはようございます。ヨハネの7章に入ります。ある登山家が、初めての富士登山に挑戦しました。勢いよく出発し、予定よりもずっと早く5合目に到着。「このまま急げば頂上に着ける!」と、予定を無視して登り続けました。ところが、急ぎすぎたせいで体力を使い果たし、8合目で動けなくなってしまったのです。そのとき、後から出発した仲間が、ゆっくりとしかし確実に到着し、笑顔で頂上から景色を見ていました。人生も信仰生活も同じです。急ぎすぎても遅れすぎても、目的地には着けないことがあります。私たちは「自分のタイミング」ではなく、「神のタイミング」で歩む必要があります。そしてその歩みは、いつも神の臨在を意識することから始まります。

1. 主の臨在を意識する — 仮庵祭からの教え

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。イエス様はユダヤには行かず、ガリラヤで働きを進めておられました。理由は、ユダヤ人が命を狙っていたからです。これは5章の出来事にさかのぼります。ベトザタの池で38年も病に苦しんでいた人を、安息日に癒されたためでした。安息日とは、神が創造の働きを終え、第七の日に休まれたことにちなみ、人間も労働をやめ休むようにと定められた日です。しかし、イエスは安息日に癒しを行ったことで、宗教指導者たちの反感を買い、命を狙われるようになりました。そこでガリラヤにとどまられたのです。ユダヤ地方の中心であるエルサレムからガリラヤ地方の中心であるガリラヤ湖までは約170キロ、調べてところ、千葉から宇都宮や、水戸あたりの距離だそうです。7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。仮庵祭は、ユダヤ教の三大祭りのひとつです。

ユダヤ教の三大祭り

過越の祭り(ペサハ)3月下旬〜4月中旬 出エジプトを記念する祭り。子羊の血によって災いが過ぎ越され、奴隷から解放されたことを祝います。 キリストは「世の罪を取り除く神の子羊」として十字架にかかられ、私たちを罪と死から解放してくださいました。キリストは過ぎ越しの子羊となられました。

七週の祭り(シャブオット)5月下旬〜6月中旬 過越から50日後、モーセ、に律法が与えられたことを記念します。 キリスト教では「ペンテコステ」と呼び、聖霊降臨の日として覚えます。

仮庵祭(スコット)9月下旬〜10月中旬 出エジプト後、荒野で40年間仮住まいをしたことを記念します。 神の守りと導きを思い起こし、地上の人生も仮の宿であることを覚えます。 この祭りは「神が人と共に住まわれること」、主の臨在を感謝し、永遠の住まいを望む希望の祭りです。

ユダヤ人は今も祭りを通して民族のアイデンティティを確認しています。私たちクリスチャンにとっても、「神が共におられる」という意識は信仰生活の中心です。生活の中で臨在を意識するために、こんな祈りのリズムを持ちたいと思います。朝…「今日も共にいてくださることへの感謝」日中…小さな決断や出会いの前に「導きを求める祈り」夜…「一日の振り返り、感謝と委ねる祈り」「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)は、すぐそばにいてくださる、主の臨在を意識する土台です。こう祈りましょう。

「主よ、荒野でイスラエルを守られたように、私の人生の荒野にもあなたの臨在がありますように。私の心を仮庵として整え、あなたの霊が住まわれますように。」うちに住んでくださるキリスト、内住のキリストを意識することです。いつも主の臨在を意識しましょう。第一のポイントは 「主の臨在を意識する」 です。

2. 神のご計画と人の思いは異なる

 7:3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。 7:4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」 7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。3–5節を見ると、イエスの兄弟たちは「ガリラヤに留まっていないで、ユダヤに行って自分を示しなさい」と勧めます。ユダヤでも、神の国のことを伝え、病の癒しや悪霊追い出しの奇跡をおこなって、自分を世に示しなさい、と勧めたのです。彼らはイエスの力は見て知っていましたが、メシア、救い主として来られたことはまだ信じていませんでした(5節)。彼らの目が開かれイエス様をメシアとして信じるのは、復活後です。この時の彼らの勧める動機には、

・表面的な成功への期待 — 人々が集まっているエルサレムに行って、ガリラヤで行っているような業(神の国の教えを説いたり、病の癒し、悪霊追い出しなどの奇跡)をおこなうことで、名声や人気を得るチャンスと考えた。

・宗教的義務感 — 三大祭りに国中の男性はエルサレム巡礼に行っていましたので、ユダヤ人なら仮庵祭をエルサレムで祝うべきという考え。

・誤った焦り — 6章で、「私の肉を食べ、血を飲む者は永遠の命を得、私は終わりの日に、その人をよみがえらせる」と言ったイエスの言葉に躓いて多くの弟子が離れたので、奇跡を行えば取り戻せると思った。

私たちも同じように、「世的な価値観」に従って人間的に判断してしまうことがあります。しかしイエスは「わたしの時はまだ来ていない」と語り、神の時を待ちました。第二のポイントは 「神の計画と人の思いは異なる」 です。

「ラザロのよみがえり」のことを思い出してください。ヨハネの11章にあります。ベタニアのマルタとマリアから、弟ラザロが病気なので早く来て癒してくださいと連絡がありました。しかしイエス様は、「この病は死で終わらない、神の栄光のためである」といってあえて二日たってからベタニアに向かいます。そこに着くと既にラザロは死んで葬られ、4日もたった後でした。姉妹たちは泣いて、「あなたがここにいてくださったならラザロはしななっかったでしょう」と言いました。イエス様はなぜわざと遅らせたのでしょうか。意地悪でしょうか。いいえご存知のようにその後、イエス様はラザロをよみがえらせるのです。それはみ父が、イエスを遣わしたことを世に示すためだと語っています。イエス様が神から遣わされたメシア、救い主であることを人々が信じることができるように、あえてこの状況にして、死人をよみがえらせるという、神にしかできない奇跡を行って神の栄光を現したのです。神様に不可能はないのです。私たちは焦って人の評価や自分の都合に合わせてタイミングを決めようとしますが、目先のことしか見えないからです。しかし神は違います。永遠を見つつ一番良いタイミングでなしてくださるのです。神の御心を求めて歩みましょう。

3. 神の時を求める

7:6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。 7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。 7:8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」 7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

イエス様の目的は、十字架にかかり人類の罪の購いを成し遂げることです。そのために父なる神様のご計画、そのタイムスケジュールに従って歩んでいます。私の時(つまり人類を罪から救うために十字架にかかる時、その場所はエルサレムです)はまだ来ていない。だから今はエルサレムにはいかないということです。イエス様の時はそれから約半年後の過ぎ越しの祭り(3~4月頃)に、十字架に付けられたのです。兄弟たちはいつでもエルサレムに上ることができるが、私がエルサレムに行くのは今ではないといわれました。日々み父との交わりの中で、今何をすべき時なのかを聞いておられたのです。この世の価値観は効率主義、経済優先、良い成果を生み出す者を重んじ、そうでない者を軽んじる、ますます格差が広がっていきます。しかし神の国の価値観は違います。すべての人が平等で、一人一人が高価で貴い存在なのです。イエス様の教えは罪を暴き、世の行っている業は悪いと証ししているので、「世はわたしを憎んでいる」と言われます。兄弟たちはまだイエスを信じていなかったとあるように、イエス様の使命についてはわかりませんでしたので、このように人間的な提案をしたのですが、8あなたがたは祭りに上って行くがよい。私はこの祭りには上って行かない。私の時がまだ満ちていないからである。」と断り、ガリラヤにとどまられた。イエスは、父なる神の時と計画に従って「焦らず、遅れず、御心に合わせて」動かれました。第三のポイントは 「神の時を求める」 です。イエス様がそうであったように、日々主との交わりの中で神の時を求めましょう。私の証をさせていただきます。

7月14日叔父の告別式参列のため、夫婦で栃木に一泊しました。そこで妹から、母の入所施設が、今まで1ヶ月に1回、ガラス窓越しでしかできなかった面会を、今月から対面で二人まで直接会えるようになったので、お姉ちゃんたち、明日、母に会っていったらと言ってくれました。早速施設に電話して予約を取りました。翌朝、祈りの中で母に洗礼を授けることを示されました。母は以前信仰告白はしていたのですが、脳梗塞で入院、そのまま施設入所、コロナで4年間、直接会えませんでした。母に洗礼を授けたいという思いはありましたが、物理的に無理であり、また弟たちは未信者で、反対です。そのような状況の中、突然母と直接会える門が開いたのです。しかも私たち夫婦だけですので、反対する者はいません。ただ問題は、母に断られたら、また別の日を待とうと思いました。施設に向かう車の中で、母が受けたいと言ってくれますようにと、神様に祈りました。久しぶりの顔と顔を合わせての面会で、初めは私たちのことがわからなかったようですが、徐々に思い出しともに喜び合いました。そして「お母さん、洗礼を受けましょう」というと頷いてくれました。「イエス様の十字架は、私たちの罪を許し、天国に行くまで平安に過ごせるように守ってくださいます」と言って洗礼を授けると「アーメン」と頷いてくれました。家族の救いのために41年間祈ってきて初めての受洗者です。

本当にこの日が来た。途中何度もくじけましたが、神様は祈りを聞いてくださったのです。天にも昇るような思いで「ハレルヤ、感謝します」を繰り返しながら、千葉に戻りました。「全てのことに時がある」コヘレト3:1私たちは人間的にいつも「早く早く」と焦ります。これは肉がそうさせるのですね。神に信頼するよりも、自己中心な思いが駆り立てるわけです。深呼吸して静まり、神に信頼して神の時を待つことができるように、神に心を向けましょう。神に不可能はありません、そして「希望は失望に終わることはない」ロマ5:5と、聖書は語ります。 待たされる時間は、祝福の準備や環境が整うための時間であり、また私たちの信仰の訓練の時であったりします。

適用

あなたはいま「自分のタイミング」で急いでいることはありませんか?

それは神の時でしょうか、それとも自分の都合でしょうか?

待たされる時間には、神の訓練と祝福の準備が含まれています。

イエスのように、「神に委ね信頼し、従う心」を持ちましょう。そして「今は何をするときでしょうか」と問い、導かれていると思えることは後回しにしないで実行していきましょう。神様ご自身が私たちを用いて豊かな実を結ばせたいと願ってくださっているのですから、主に期待し、聖霊を求めながら、従っていきましょう。

私たちの教会は30周年を迎え、これからの歩みについて主に聞きながら話し合っています。30年前、創立当時はどんなビジョンがあったのでしょうか。あれから30年、日本のキリスト教全体が低迷しているように感じる今、私たちはもう一度、初心に戻り、神を畏れ、信頼し、従っていく時ではないでしょうか。クリスチャンが迫害されている国から来た方が言ったそうです。信仰を持つということは自分たちにとって命懸けだ。それだけ大変だ。しかし日本のクリスチャンはもっと大変だ。なぜなら、信仰がなくても幸せに生きていける、そしてあまりにこの世の誘惑が多い。その中で信仰を持つのは本当に大変だと。そうです。私たちを取り巻く世界は、神なしでも楽しく幸せに生きていけると思わせるものに満ちています。しかし私たちはこの世のことだけを見ているのではありません。もっと長い、もっと素晴らしい永遠の世界、神の国を求める者たちです。教会はこの曲がった暗い世に天国の希望の光を照らす使命と力があります。私たちは皆弱さや欠点を持つお互いです。完全な人はいません。イエス様だけです。しかしそれぞれに神から与えられたすばらしい賜物、才能、能力があります。一人一人は弱くてもみんなが一致していく時に100倍、1000倍の力となり神の栄光を表していくことができるのです。一致を求めましょう。お互い赦し合い、愛し合っていきましょう。私たちのうちに愛はなくても、神様は愛に満ち溢れたお方ですので、この教会を通して、また私たち一人一人を通して神の赦しと愛、希望が流れていくように求めていきましょう。

ポイント

1. 主の臨在を意識する   

2. 神のご計画と人の思いは異なる   

3、神の時を求める

祈り

主よ、あなたの時に信頼できる心を与えてください。周囲の声に流されず、あなたのご計画に従って歩む者としてください。焦るときも、先の見えないときも、あなたを信頼して待ち望めますように、聖霊の恵みによって、ますます神を愛し、互いに愛し合い仕え合っていく教会となっていけるように、私たちの信仰を成長させてください。私たちの家族、親族、友人、知人を救ってください。必ず救われると信じて祈り続けることができるように、聖霊様の助けをください。病んでる方、弱さを覚えておられる方々を癒し、お守りください。願わくは、大きな戦争も早く終わらせ、苦しみ悲しみの中にある方々をお救いください。今週も暑さが続きますが、さまざまな災いからもお守りください。主の聖名がますますほめたたえられ、神の国が拡大していきますように。感謝し、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン