• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年9月28日主日礼拝 伏見敏師

説教題神のご計画はくつがえされない 聖書箇所:マルコによる福音書14章27-42節

 ◆ペトロの離反を予告する 14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。 14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。 ◆ゲツセマネで祈る 14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

ハレルヤ!9月の第四主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その42回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。14章12-26節を通して、「賛美と希望を忘れずに歩む」と題し、三つのことを中心にお話ししました備えはすでに整えられている 自らの信仰と態度を真摯に省みる 賛美と希望を忘れずに でした。今日は続く14章27-42節を通して「神のご計画はくつがえされない」と題しお話しをします。ご一緒に学んで参りましょう。

今日の聖書箇所には、イエス・キリストの最後の夜の出来事が記されていて、イエス・キリストの受難の重要な転換点が示されています。最後の晩餐の後、イエスがゲツセマネで苦悩し、祈る様子や逮捕予告が描かれています。この箇所には、イエスの神性と人間性、神の救いの計画、弟子たちの弱さといった重要なテーマが集約されています。

①人間には弱さがある

27節から順番に見てまいりましょう。14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。『』はゼカリヤ書13章7節からの引用です。13:7 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。イエスは旧約聖書のゼカリヤ書の言葉を引用して、これから起こることを弟子たちに告げられました。「羊飼いを打つ」というのは、イエス自身のことです。イエスは私たちの良い羊飼いでありながら、神の裁きを受けることになります。そして「羊のは散ってしまう」というのは、弟子たちが恐れて逃げ散ってしまうことを表しています。これは確かに人間の弱さを示していますが、同時に、弟子たちが散り散りになってしまうことさえも、神の救いの計画の中に含まれているということです。イエスの十字架は、偶然の出来事ではありません。それは何百年も前から預言されていた、神の永遠の救いの計画の成就だったのです。28節を見てみましょう。14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」28節は、前の暗い予告に続いて、明るい希望の光を差し込んでいます。イエスは「復活した後」と言われました。これは、死が終わりではないことを示しています。十字架の苦しみの向こうに、復活による勝利が待っているのです。そして「ガリラヤへ行く」と約束されました。ガリラヤは弟子たちの故郷です。つまり、イエス逃げ散った弟子たちと、彼らの故郷で再び会うと約束されたのです。これは新しい出発を意味しています。裏切り、否認、逃亡という弟子たちの態度にもかかわらず、イエスは彼らを見捨てません。むしろ、回復と新しい使命を約束されるのです。「あなたがたより先に」という言葉も大切です。イエスは常に私たちの先を歩まれる方です。私たちが迷子になっても、イエスが先に立って道を示してくださるのです。神様のご計画では失敗が最終的な結末ではないということです。それらを通り抜けた先に、神様の新たな恵みと使命が待っているのです。私たちがどんなに失敗しても、神様は新しい始まりを用意してくださる方なのです。29節を見てみましょう。14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。29節には、ペトロの人間らしさがよく表れています。ペトロは「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。この言葉からは、イエスへの真摯な愛と忠誠心が伝わってきます。しかし同時に、自分を他の弟子たちより上に置く自信過剰さも見えてきます。ペトロの心は純粋でした。本当にイエスを愛し、最後まで従いたいと願っていたのです。しかし、問題は、自分の限界を理解していなかったことです。「つまずかない」という確信は、危険な自信でもありました。私たちも同じような経験をしませんか。「あの人は信仰から離れるかもしれないけれど、私は大丈夫」と思ってしまうことが。でも、この出来事が教えてくれるのは、私たちの意図と実際の行動の間には大きな隔たりがあるということです。30,31節を見てみましょう。14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。「はっきり言っておくが」とあります。確実な預言の宣言をもって、ペトロがその夜、鶏が二度鳴く前に三度イエスを知らないと言うことを予告し、これは受難と同時期に起こる出来事として、イエスの全知性と人間の弱さ、そして失敗を予告しても弟子を見捨てない神の愛、さらにイエスの言葉の確実性がわかります。ペトロは強く言い張って、死んでもイエスを裏切らないと約束しました。しかし皮肉なことに、この約束の言葉は、後で彼がしてしまうことをそのまま表しています。「知らない」と言わないと誓ったペトロが、実際には「あの人を知らない」と三度も言ってしまうのです。他の弟子たちも同じように約束したとあるように、これはペトロ一人の問題ではありませんでした。ここに人間の根本的な弱さが表れています。私たちは良い気持ちを持っていても、いざという時には失敗してしまう存在なのです。
 ある男性信徒は普段「私はどこでも信仰を証しします」と話していました。しかし職場で同僚から「どうして毎週日曜に休むの?」と聞かれた時、からかわれるかもしれないという不安から、とっさに「特に用事はないんです」とごまかしてしまいました。帰宅後、「どうしてあの時言えなかったんだろう」と涙がこぼれました。しかし祈っているとペトロのことが思い浮かびました。彼も大口を叩いたのに、実際には三度「知らない」と否定したが、イエスは彼を見捨てず、復活後にもう一度迎えてくださったことを思い出しました。「私の弱さも主はご存じだ。でもそれでも主は、もう一度私を証人として立ててくださる」という慰めが与えられ、次の週、勇気を出して同僚に「実は日曜は教会に行っているんです」と自然に言うことができたのです。この証が示すように、ペトロの失敗は、彼だけの問題ではありません。それは私たち全員が経験する可能性のある人間の弱さを示しています。だからこそ、自分の力ではなく、神様の恵みに依り頼むことが大切なのです。自分の力を過信することの危険性と、神様の恵みに依り頼むことが大事なのです。今日、まず覚えて頂きたいことは人間には弱さがあるということです。

②御心を求め実行する

32節を見てみましょう。◆ゲツセマネで祈る 14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。32節から場面が変わります。新共同訳聖書では「ゲツセマネで祈る」という小見出しがついています。一行が着いた「ゲツセマネ」は「油絞り所」という意味の言葉です。この地名は、イエスがここで苦しみを絞り出すように祈ったことを表しています。油が絞られるように、イエスは神様の御心に従うために、自分の人間としての気持ちや感情を限界まで押し潰されるような経験をされました。イエスは弟子たちをある場所に残して、自分だけさらに奥に進み、これから来る苦しみの重さに一人で向き合われました。「ゲツセマネ」という名前は、ただの地名以上の深い意味を持っています。イエスの苦悩は体の痛みを超えた、心の奥底での深い葛藤だったのです。33,34節を見てみましょう。14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」「ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた」のは、この三人がイエスの最も親しい弟子だったからです。困難な時に彼らの支えと理解を求めたのです。「ひどく恐れてもだえ始め」という表現は、イエスが真の人間的な感情を持っていたことを示しています。この苦悶の原因は、十字架の苦しみへの人間的な恐れと、人類の罪を背負うことの重さでした。イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」と告白し、これは死に至るほどの深い苦悶を表しています。また、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」という指示は、イエスが弟子たちの支えを求めていることを示しており、困難な時に共同体の支えを求めることの重要性を私たちに教えています。T35,36節を見てみましょう。14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエスの完全な人間性と神様への完全な従順を同時に見ることができます。「少し進んで行って」は、一人で神様と向き合う場所を求めたことを示し、「地面にひれ伏し」という姿勢は、神様への謙遜と服従を表しています。「できることなら、この時が自分から過ぎ去るように」という祈りは、イエスが十字架の苦しみを避けたいという自然な人間的願望を持っていたことを示しています。イエスは「アッバ、父よ」と親しく呼びかけ、「この杯をわたしから取りのけてください」と願いながらも、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りました。これは自分の願いより神様の意志を優先する究極の信仰の表現で、すべてのキリスト者の祈りの模範となっています。
 私にはこの箇所を読むと忘れられない思い出があります。生まれて初めて行った教会の祈祷会でのことです。ちょうど、受験シーズンで、皆が「誰々さんが〇〇高校に受かりますように。」と祈っていたのですが、Sさんは「御心でしたら〇〇高校に受かりますように」と祈っていました。今日、二番目に覚えて頂きたいことは御心を求め実行するということです。

③神のご計画はくつがえされない

37,38節を見てみましょう。14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」37節には、イエスの深い霊的な戦いと弟子たちの人間的な弱さの対比を示しています。「戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた」という記述は、彼らの人間的な弱さを表しています。これは体の疲れもありますが、より深くは霊的な戦いの重要性を理解していない状態を示しています。イエスが「ペトロ」ではなく「シモン」という元の名前で呼んだのは、ペトロが「岩」という名前にふさわしい行動を取っていないことを表しています。「たった一時間も目を覚ましていることができなかったのか」という言葉は、霊的な戦いにおける警戒の重要性を教えています。38節には、キリスト教の霊的生活における根本的な教えが含まれています。使徒パウロもテサロニケの信徒への手紙一で次のように教えています。開いてみましょう。 5:6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。「目を覚ましていなさい」という命令は、霊的な危険に気をつけることと神様との関係の大切さを教えています。「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉は、人間の根本的な二つの面を示しています。弟子たちは心からイエス様に従いたいと思っていましたが、実際には眠ってしまいました。これは、すべての人間が経験する内なる葛藤なのです。39,40節を見てみましょう。14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。39節では、イエスが再び神に祈る様子が描かれています。これは、祈りが一度だけでなく、神との続けていく対話であることを示しています。「同じ言葉で祈られた」というのは、イエスが同じ問題について一貫して祈り続けたことを意味しています。困難な時には、続けて祈ることが必要だと教えています。40節では、弟子たちの人間的な弱さが描かれています。イエスが戻ってきた時、彼らはまた眠っており、状況は良くなっていません。これは、注意や警告だけでは人間の限界は変わらないことを示しています。41,42節を見てみましょう。14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」41節では、イエスが三度目に弟子たちのもとに戻り、「まだ眠っている」と確認しますが、責めずに彼らの限界を受け入れています。「もうこれでよい」と言って、祈りの時間が終わり、行動する時が来たことを示しています。42節では、「立て、行こう」と命じ、積極的に行動する姿勢を見せています。これは恐れから勇気へ、受け身から積極的な変化を意味します。「見よ、わたしを裏切る者が来た」という言葉は、ユダの裏切りを予告し、イエスがすべてを理解していることを表しています。弟子たちの失敗や裏切りでさえ、神様はすべてご存知でした。私たちが失敗しても、神様の計画は決して狂うことがなく、その失敗さえも神様の大きな愛の計画の中で用いられるのです。最後に、ユダがイエスを裏切らなかった場合について簡単にお話したいと思います。大きくわけて二つの神学的立場があります。先ず、「神のご計画は完璧なのでユダが裏切らないことはない」という神学的見地です。次が、「ユダが裏切らなかったとしても、いずれかの方法でイエスは十字架に処せられる」という考え方です。私たちの群れは後者の神学的立場です。 今日、最後に覚えて頂きたいことは神のご計画はくつがえされないということです。

Today’s Takeaways
①人間には弱さがある ②御心を求め実行する ③神のご計画はくつがえされない