• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年9月7日主日礼拝 伏見敏師

説教題: 陰謀と裏切り、しかし光る献身 聖書箇所:マルコによる福音書14章1-11節

イエスを殺す計略 14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。 14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。 ベタニアで香油を注がれる 14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。 14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 ユダ、裏切りを企てる 14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

ハレルヤ!9月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その40回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。13章14-27節を通して、「嵐の向こうにある希望」と題し、三つのことを中心にお話ししました。すぐに従う信仰を持つ 霊的識別力を養う 神の計画の一部として受け止めるでした。今日は続く14章1-11節を通して「陰謀と裏切り、しかし光る献身」と題しお話しをします。暗闇の中に輝く一人の女性の姿を通し、ご一緒に学んで参りましょう。今日の聖書の箇所(マルコ14章1-11節)では、イエスの受難が近づいている中で、いくつかの異なる出来事が描かれています。祭司長や律法学者たちはイエスを殺そうと計画し、一方で一人の女性が高価な香油をイエスに注いで愛を示します。そして、ユダがイエスを裏切ろうとする場面もあります。この形式は「サンドイッチ構造」と呼ばれ、ある物語(A)の中に別の物語(B)が挿入され、最後に最初の物語(A’)に戻る形になっています。具体的には、祭司長たちの陰謀(A: 14:1-2)とユダの裏切り(A’: 14:10-11)の間に、ベタニアでの女性による香油注ぎ(B: 14:3-9)という「献身」の物語が挟まれています。この構造は、単なる時系列の記述以上の深い意味を持っています。外側の物語はイエスの「死」への道を示し、内側の香油注ぎも「葬りの準備」として解釈され、イエスの死を指し示しています。人間の裏切りと純粋な献身の両方が、神の計画に沿って進んでいく様子が強調されています。このことは、イエスの受難が偶然ではなく、神の壮大な計画の一部であることを示しています。

①神の主権は人間の意図を超える

では、1,2節から順番に見てまいりましょう。新共同訳聖書の小見出しは「イエスを殺す計略」です。14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。 14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。イエスの受難の始まりがユダヤの大きな祭り「過越祭と除酵祭」の二日前だと描かれています。「過越祭」は、イスラエル民族の出エジプトを記念したものであり、「除酵祭」は、過越祭の第二日から一週間、酵母菌のないパンを食する祭りです。開きませんが、出エジプト記12章、23章を読まれてください。これらの祭りは、ユダヤ人にとって最も重要な宗教行事の一つであり、エジプトからの解放を記念する祭りです。これらは、神の救いの御業を祝う時ですが、その祭りの最中に宗教指導者たちはイエスを殺す計画を立てていました。本来、神に仕えるべき人々が、神の子イエスを排除しようとしていたのです。宗教指導者たちはイエスを殺したいと考えていましたが、タイミングに悩みました。「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と考えたのです。当時、エルサレムには祭の巡礼者が大勢集まっており、イエスは人気があったため、騒ぎになるのを恐れたのでしょう。ローマの支配下では祭り中の暴動は危険だったため、指導者たちは政治的な計算をしていたのです。後日、詳しく学びますが、結果的に、イエスはまさに過越祭の期間中に十字架にかけられたのです。これは偶然ではなく、神のご計画でした。過越祭の小羊のように、イエスが人々の罪のための犠牲となるべき時だったからです。人間はあれこれ計画しますが、最終的には神の御心のみが実現するのです。今日、まず覚えて頂きたいことは神の主権は人間の意図を超えるということです。

②愛の献身は永遠に記念される

続く、3-9節の新共同訳聖書の小見出しは「ベタニアで香油を注がれる」となっています。3節を見てみましょう。14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。イエスがベタニアでシモンの家にいるとき、一人の女性が高価なナルドの香油を持ってきて壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎました。主イエスに対する愛と献身の現れです。「ベタニア」はエルサレム近くの村で、イエスの安息の場所でした。シモンは重い皮膚病を患っていましたが、イエスによって癒されたと思われます。女性の名前はマルコによる福音書では記されていませんが、ヨハネによる福音書11,12章ではマリア(ラザロの姉妹)とされています。彼女が使った「純粋で非常に高価なナルドの香油」は、とても貴重な香料でした。普通はお葬式の時に使うものです。女性は壺を壊してしまいました。これは、自分のすべてをささげるという気持ちを表しています。香油を少しずつではなく、一度に全部注いだのも、中途半端ではない、完全な献身の気持ちを示しています。そして、イエスの頭に香油を注いだことにも特別な意味があります。これは、イエスが救い主(メシア)であることを表す行為でした。つまり、この女性の行動は、ただの親切ではなく、イエスへの深い信仰と献身を表す、とても重要な出来事だったのです。4,5節を見てみましょう。14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。4節と5節には、ラザロの姉妹マリアがイエスの足に高価な香油を塗ったことに対し、弟子たちが批判する場面が描かれています。4節では、一部の弟子たちが「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」と怒りをあらわにしました。この「無駄遣い」という言葉は、彼らがこの行為を物質的な損失として捉えていたことを示しています。彼らは、マリアの献身的な行動の真の意味を理解していませんでした。5節では、彼らの批判がさらに具体化されます。「この香油は300デナリオン以上で売れて、貧しい人々に施すことができたのに」と主張し、マリアを厳しく非難しました。300デナリオンは、当時の労働者の約1年分の賃金に相当する大金でした。彼らは、貧しい人々への施しという道徳的に正しい理由を挙げましたが、並行箇所のヨハネによる福音書12章1-8節には、この批判の裏には、金庫番であったイスカリオテのユダの個人的な利己心があったことが記されています。ユダは貧しい人々を心配していたのではなく、実際にはお金を盗んでいたからです。ヨハネによる福音書12章4-6節を見てみましょう。12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。6,7節を見てみましょう。14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女性の行動には深い意味がありました。彼女が使ったナルドの香油は高価で貴重なものでしたが、壺を壊して一度に全部注ぐことで完全な献身を示し、イエスの頭に注ぐ行為はイエスがメシア(救い主)であることを表していました。批判する人たちに対してイエスは「するままにさせておきなさい」「なぜ、この人を困らせるのか」と強く女性をかばい、「わたしに良いことをしてくれたのだ」と最高の評価を与えました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」という言葉は、貧者への配慮を軽視するのではなく、イエスの地上での活動が終わりに近づく中で女性が完璧なタイミングで献身を示したこと、そして善い行為には適切な時があり、イエスへの献身が最も優先されるべきことを教えています。8,9節を見てみましょう。14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」イエスは「この人はできるかぎりのことをした」と評価しました。これは、神への献身は絶対的な量ではなく、その人ができる最大限のことが大切だということを示しています。この女性は自分の最も貴重なものを躊躇なく捧げました。「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」という言葉は、女性が意識していなくても、神の計画の中でこの行為が導かれていたことを示しています。古代では死者の体に香料を塗ることは重要な埋葬儀式でしたが、イエスの場合は十字架での死後、適切な埋葬の時間がありませんでした。この女性の行為は、神による来るべき死への完璧な準備だったのです。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」というイエスの宣言は、実際に二千年以上にわたって成就されています。マルコによる福音書では、名前も記されていないこの女性の行為が、世界中で語り継がれているという事実は、世界の目には無駄に見えた行為が、神の目には永遠の価値を持つものとして評価され、真の献身は時代と場所を超えて人々の心を動かし、信仰の模範となることを教えています。「ベタニアで香油を注がれる」という出来事は、人間の理解と神の価値観の違い、真の献身と偽りの動機を示しています。この女性の行為は、イエスへの深い愛と信仰の表れでした。彼女の惜しみない献身は、計算や効率を超えた純粋な愛の大切さを教えてくれます。しかし、そのような愛は時に「無駄」と誤解され、批判されることもありますが、神に喜ばれる奉仕は永遠に残るものなのです。18世紀のバロック時代後期に活躍した有名な作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハは膨大な作品を残し、曲の冒頭や最後に「S.D.G.」と記しました。これは「Solus Deo Gloria」、すなわち「ただ神にのみ栄光あれ」という意味です。バッハにとって作曲は神への礼拝であり、音楽が神の栄光を表し、人々の心を天へ向けることが最も大切でした。その結果、彼の音楽は数百年を超えて演奏され続け、教会やコンサートホールで人々を励まし、慰めています。イエスが言われたように、神のためにささげられた行為は消えず、バッハの音楽は永遠に残る香りを放っています。私たちも、ベタニアの女性のように、人の目には「無駄」に見えても、神に喜ばれる惜しみない愛と献身を実践することが大切です。今日、二番目に覚えて頂きたいことは愛の献身は永遠に記念されるということです。

③金銭欲が信仰を蝕む

10,11節を見てみましょう。新共同訳聖書の小見出しは「ユダ、裏切りを企てる 」となっています。14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。「十二人の一人、イスカリオテのユダ」という表現は、ユダがイエスの最も信頼できる弟子であったことを強調し、近しい人からの裏切りの痛みを際立たせています。「イスカリオテ」は「カリオテの人」を意味し、南ユダの町出身と考えられています。他の弟子たちがガリラヤ出身であるのとは異なる背景を持っています。ユダが「イエスを引き渡そうとして祭司長たちのところへ出かけた」のは、衝動的な行為ではなく、計画的な決断でした。ユダは身近な弟子の一人としてイエスの居場所や習慣を知っていたため、イエスを殺すのに必要な情報を持っていました。祭司長たちは「それを聞いて喜び」とあります。思わぬ協力者を得て、慎重に考えていた計画を実行に移す自信を得ました。金銭の約束はマタイによる福音書26章15節では「銀貨三十枚」とされ、これは奴隷一人の値段に相当します。ユダが「どうすればうまくイエスを引き渡せるかと、良い機会をうかがっていた」という記述は、彼が受動的な協力者ではなく、積極的に状況を探っていたことを示しています。この箇所は、信頼されていた弟子による計画的な裏切りを通して人間の罪の深さを描きながら、神の救済計画が進行することを示す重要な転換点となっています。ユダの裏切りは旧約聖書のゼカリヤ書11章12節の預言の成就でもありました。開きませんが、後ほど読まれてください。裏切りの動機は金銭だけでなく、イエスへの失望等の他の動機もあったと考えられますが、金銭には十分に注意が必要です。テモテへの手紙二6章6,10節を見てみましょう。6:9 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 6:10 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。お金を稼ぐこと自体は悪ではありませんが、お金への執着や偶像化が問題とされ、与えられた富は社会的責任をもって用い、物質的豊かさよりも神への信頼を優先し、困っている人々と分かち合うことが望まれるのです。ある会社で長年信頼を得て働いていた社員がいました。上司や同僚から「彼に任せておけば安心だ」と評価されていました。しかし、ライバル会社から内部情報を流すよう持ちかけられ、迷いながらも誘惑に負けてしまいました。一時的には大金を手に入れましたが、裏切りが発覚すると瞬時に信頼を失い、仕事も友人も居場所もなくなり、孤独に取り残されました。人はしばしば「利益」「損得」で動きますが、それは一時的な快楽をもたらすだけで、大切なものを失う原因となります。イスカリオテのユダがイエスをお金で引き渡したのは、この社員の選択と同じです。ユダは計算に基づいて行動しましたが、その結果は破滅を招きました。一方、香油を注いだ女性は「愛」を基準に行動し、損得の計算はありませんでした。結果として、彼女の行為は2000年以上語り継がれています。私たちは日々の選択において、ユダのように損得勘定で生きるのか、女性のように愛のために生きるのか、問われています。「ユダ、裏切りを企てる 」の出来事は金銭欲が信仰を蝕み、悲劇的な結末を招くという普遍的な警告があります。金銭への誘惑は、時代や文化を超えて信仰を揺るがす可能性があることを示しています。今日、最後に覚えて頂きたいことは金銭欲が信仰を蝕むということです。

Today’s Takeaways

①神の主権は人間の意図を超える ②愛の献身は永遠に記念される ③金銭欲が信仰を蝕む