• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025.2.16主日礼拝 伏見美恵子師

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章22-40節 説教題:イエスは命のパン

◆イエスは命のパン 6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。 6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。 6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。 6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

おはようございます。前回は、5000人の給食の後に、主が弟子たちを向こう岸に送り嵐にあい、漕ぎ悩み恐れている彼らに、水の上を歩いて近づき、「恐れるな」と弟子たちを励ました場面でした。聖書を見渡すと、神様は多くのところで「恐れるな」と励ましてくださっています。弟子たちに、またモーセの後継者となったヨシュアに、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民に、そして現代を生きる私たちに対しても「恐れるな」と語ってくださっています。今朝はその後の出来事です。

◆イエスは命のパン 6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。 6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。 6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。二匹の魚と五つのパンで満腹した群衆は、イエス様についていけばいつでもおなか一杯食べられると思い、捜し求めてカファルナウムに来ました。彼らは弟子たちだけが先に船に乗るのを見たので、イエス様もすでにそこにおられたことを不思議に思い、いつ、どうやってここに来たのか尋ねました。 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」主はその質問には答えられず、彼らの求めの核心を突きます。主は私たちの心をご存じです。彼らの求めは食べ物でした。食べ物は肉体の命を保つためにとても大切です。そのために主を捜してやってきたのです。しかし主は彼らの求める核心がずれていることを指摘します。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい と言われました。人間にとって食べることはもっとも強い欲求の一つです。食べ物がなくなれば餓死してしまいます。働く目的はいろいろありますが、「食べるために働く」ことは前提です。給料をいただき生活していけるわけですから。しかしイエス様は朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい とおっしゃいました。これは決してこの世の食べ物を軽んじているわけではありません。私たちは食べなければ命をつなぐことはできないのですから。だからと言って私たちの物の見方や考え方がこの世のことだけにとどまらないように、注意してくださっているのです。とかく私たちは目の前のことでいっぱいになってしまい、もっと大切な永遠に目を向けることができません。マタイ 4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」この世での生活は長くても100年くらい、しかしその後に永遠の世界があること、そのための備えが必要であることに目を向けよということです。そのためにいつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい それは永遠の命に至る備えをしなさい、つまり「私を信じなさい」ということです。今日の一つ目のポイントはイエスは永遠の命に至る食べ物ということです。

 6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」群衆はユダヤ人ですから、律法を守ること、行うことによって天国に行けるという教えが土台にあります。永遠の天国に行けるよう、神様に喜んでいただくためには何をしたらよいですかと「行い」について聞きました。しかしイエス様の答えは「何かをすること」ではなく「神が遣わされた者を信じること」だと言われました。天国に入れていただくためには、神様の救い(キリストの十字架と復活による救い)を信じることなのです。 6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると彼らは、「あなたが神から遣わされたメシヤであることを信じるために、どんなしるしを行ってくださいますか」とメシヤであることのしるしを求め、更に先祖の大預言者モーセは、荒野でパンを与えてくださいましたと、出エジプトの時に食べ物に困り、民が不平を言ったときに、モーセが神様に祈ると、天からマンナが与えられたことを言っているのです。そのようなしるし、いや、それ以上のしるしを見せてくれと言い寄るのです。 6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。天からパンを与えたのはモーセではなく父なる神であると、彼らの誤りを正し、しかも神様が与えてくださるパンはこの世の命だけを支えるものでなく、永遠に生きる真の命を与えるパンであることを告げます。しかし彼らはその意味を理解できずに「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言います。ちょうどサマリヤの女が、永遠の命に至る水を理解できず「その水をください」と言ったのと同じです。人間はこの世のことばかりに心を向け、なかなか永遠の世界、霊的なことがわかりません。しかし主は彼らにがっかりして見捨てることをせず「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。と諭し続けます。

ヨハネ福音書には「私が・・・である」という言葉がたくさん出てきます。「私は命のパンです」3:35「私は世の光です」8:12「私は羊の門です」10:7「私はよい牧者です」10:11「私は復活であり、命です」11:25 「私は道であり、真理であり、命です」14:6 「私は真のぶどうの木です」15:1 これは主がどのようなお方であるかを示すためです。またサマリヤの女との対話を思い出してください。ヨハネ 4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。ギリシャ語でエゴー・エイミ 「私はある」という意味で、神がご自身をモーセに示された時の言葉(参照 出エジプト3:14)と同じで、神の自己顕現、ご自分が存在の根源であり、造り主であり救いの契約の主であることを表しています。世に命を与える神のパン、それは「私なのだ」、「私がその命のパンなのだ」と言われました。ところで、私たちはイエス様を信じ罪赦され、「永遠の命」を頂いたと信じていますが、「永遠の命」とは何でしょう。死後に、天国に入れていただき永遠に生きる命のことですがそれだけではありません。「永遠の命は」信じる者に、今既に与えられているのです。それは神との交わりの回復、神との平和をいただいていることです。キリストの購いの恵みにより、罪赦され、神のみ前に平和に安心して立てるようになったことです。ロ-マ 5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。日々の生活の中で様々なことに苦しみ悩むことが起こりますがそのたびに主のもとに行き、主との交わりの中で、心の傷や怒り悲しみ、妬みや思い煩いから解放され主の平安に満たされながら、歩める喜びです。さながら「御国のごとし」です。なんという幸いでしょうか。私達はすでに神との平和をいただいているのです。皆さんはそれを十分に味わっているでしょうか。クリスチャンになってもずっと心の傷やそこからくる怒りや悲しみ、ネガティブな感情を引きずって苦しんでいる人が多くいます。私もそうでした。なかなか手放せず内に抱えて苦しんでいるのです。それは霊的にとても不健康なことです。そこから完全に解放し癒してくれるのは神の恵みだけです。自分で抱え込むのでなく、神に明け渡し委ねることです。ネガティブな感情に支配され、心が暗くなるたびに、神の光の中に出て、それを明け渡すことです。野菜や肉を入れた鍋料理をしていると灰汁が出てきます。その灰汁をすくい取るように、心の中にわいてくる悪い感情をそのまま取り出して、告白し、神様にお任せし、十字架の血潮で清めていただくのです。否定的な感情が出てくるたびに何度も繰り返し、光の中を歩み続けていくことが神との平和を保つ秘訣です。主が癒してくださるのです。リビングバイブル 1ヨハネ1:5神は光であられ、そのうちには少しも暗い部分がありません。これが、神が私たちにゆだねられた、あなたがたへの知らせです。 1:6神と交わりがあると言いながら、暗闇の中で生活しているなら、私たちはうそをついているのです。1:7しかし、神の光の中におられるキリストにならって、私たちも光の中で生活すれば、互いにすばらしい交わりを持ち、神の子イエスの血が私たちをすべての罪からきよめるのです。1:8もし自分には罪がないと言うなら、それは、自分のほんとうの姿から目をそらしているのであって、真理を受け入れようとしない証拠です。 1:9しかし、もし自らの罪を神に告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。1: 10潔白だと言いはるなら、自分がうそつきになるばかりか、神をもうそつき呼ばわりすることになります。なぜなら神は、「すべての人は罪を犯した」とはっきり宣言しておられるからです。闇の中にあるなら自分の汚れに気付きません。光の中を歩むときに、どんなに汚れていたかがわかります。神は光です。日々のディボーションを通し神の光によって、自分の思いの内側を点検して頂き、神への不従順や罪が示されたなら、悔い改めて、聴き従っていきましょう。簡単ではないですが聖霊様の助けをいただき、日々少しずつ積み重ねていくことによって、神との平和が深められ、心の平安が保たれ、兄弟姉妹の交わりも恵まれていきます。光の中を歩む、神と共に歩む、み言葉に従っていく,皆同じことです。そのようにして、神との平和を保ちましょう。今日の二つ目のポイントは永遠の命の実質は、神との平和ということです。

6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。人間はなかなか神を信じない。光なる神に近づいて、自分の罪汚れが明らかにされることを嫌い、ほどほどの暗闇を好むのです。私たちがイエス様を信じることができたのは、父なる神様の恵みです。そしてイエス様はどんなことがあっても決して私達を追い出すことはないのです。この事に感謝し、ますます主に信頼していきましょう。 6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」イエス様がこの世に来てくださったのはみ父の御心を行うためです。それは父が与えてくださった人、救われたクリスチャンを一人も失わないで、終わりの日に復活させ、永遠の御国に迎え入れるためです。私たちがこの世の旅路に疲れ逸脱することのないように、イエス様は命のパンとなり、霊的栄養を供給してくださっています。私たちは体の健康のために良いものを食べるように、日々このパンを食べ、霊の命を頂きましょう。聖書通読は大事です。毎日聖書を読み、主と交わり祈りましょう。祈りは神との会話です。ただ機械的に読むのでなく、今の自分に、神様は何を語ろうとしてくださっているのか教えてくださいと、祈り求めながら読んでいくと、不思議なように、今の自分にまさにぴったりな御言葉が与えられ、御心を示されることがあります。できればそれをノートに書き留めておくと、振り返った時に大きな励ましになり、生きて働かれる神様を体験できます。キリストの体であるこの教会に、神様はご計画を持っており、私たちを集められました。そのビジョンを共有し、隣人として人生を分かち合いながら、共に天国に迎え入れていただく神の家族です。交わりを深め、互いに仕え愛し合っていきましょう。この暗い時代に、永遠の希望の光の中を歩み、神との平和を保ち、「何時も喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」ぶれない生き方は、私たちの幸せだけでなく、周りの人々、子や孫たちの人生にも良い影響を与えていくことでしょう。今日の三つ目のポイントは霊の健康―ディボーションの習慣化―ということです。

今日のポイント

①イエスは永遠の命に至る食べ物  ②永遠の命の実質は、神との平和 ③霊の健康―ディボーションの習慣化―