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2026年6月14日主日礼拝説教要旨 伏見敏師

説教題:動揺するな、主は来られる
聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙二2章1-12節(新共同訳新約380頁)

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中心成句:「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。」(2章3節)

今日はテサロニケの信徒への手紙二の第二回目です。前回は1章から「迫害の中の希望」と題し、①神とイエスに結ばれている、②苦しみが信仰を育てる、③名前を挙げて祈り続ける、の三点を学びました。今日は2章1-12節から「動揺するな、主は来られる」と題してご一緒に学びます。

テサロニケの教会に「主の日はもう来てしまった」という偽りの声が入ってきました。すでに迫害の中にいた信者たちが大きく動揺したのは当然です。パウロはそのただ中に筆を取りました。「動揺するな、慌てふためくな」。これが今日の中心軸です。

①惑わされるな:御言葉の土台に踏みとどまる(1-5節)

パウロは1節で「主が来られること」と「そのみもとに集められること」の二つを土台に据えます。終末の核心は恐怖ではなく、主のもとへの再会です。2節の「動揺する」は嵐の中で船が揺れる様子、「慌てふためく」は衝撃を受けて我を失う状態を指します。偽りの情報源としてパウロは三つ挙げます。啓示めいた「霊」、口頭での「言葉」、そしてパウロ名義で偽装された「手紙」。三番目が最も深刻です。人を動かすのは熱気・恐怖・陶酔です。落ち着くとは冷めることではなく、自分の頭と心を自分の手に取り戻すことです。終末についての言説に接したとき、まず「聖書のどこと合うか」を問い、信頼できる仲間と話し、聖書の言葉に戻れる場所を自分の中に持つことが信仰の実践です。3-5節では「神に対する反逆」と「不法の者」の出現がまだ起きていないことを根拠に、「主の日はまだ来ていない」と示します。この二つが起きていない以上、終末はまだ来ていない。終末論は熱狂させるためではなく、耐えさせるために与えられています。

②恐れるな:歴史の主権者は神である(6-8節)

6-7節の「抑えているもの」の正体について教父の時代から論争が続いていますが、パウロの核心は一点です。不法の者は「定められた時」に現れる、つまり歴史を治めているのは神だということです。悪は野放しになっていません。御手の中にあります。嵐の中で一番危ないのはパニックになった乗組員が動き出して船のバランスを崩すことだと語った船乗りの言葉のように、パウロが言うのは「嵐に向かって飛び出すな、この船には設計がある、歴史の主がおられる」ということです。7節の「不法の秘密の力はすでに働いています」も重要です。終末に完全な姿を現す前から、真理をあいまいにし、十字架を恥ずかしいものにし、愛を冷たくさせる形でその力はすでに動いています。8節では不法の者の出現と滅びが同じ一文に収まります。主が口を開くだけで不法の者は消える。この勝利への信頼が、仕事場で不義を見るとき、社会の混乱を目にするとき、教会に失望するときにも、今日の働きと礼拝の土台となります。

③欺かれるな:真理を愛する一歩を選ぶ(9-12節)

9-10節で不法の者の欺きの実態が描かれます。「奇跡、しるし、不思議な業」という三つの言葉はイエスや使徒たちを描く言葉と同じです。外から見て本物と見分けがつかない。聖書が問うのは奇跡が起きたかどうかよりも、それが何へ導くかです。キリストへか、自分へか、刺激への渇きへか。10節の言葉は鋭いです。「彼らが滅びるのは、真理を愛そうとしなかったからです。」知らなかったのではなく、愛さなかった。その積み重なった選択が12節の裁きへ至ります。終末の日程を詳しく語る動画を毎日見て礼拝から遠ざかったある方が戻ってきたのは、終末の出来事の詳細が分かったからではなく、終末の主が確かだという信頼を取り戻したからでした。11-12節では、偽りを信じたいなら偽りを信じさせるものを送る神の裁きが語られます。しかしこの言葉の重さは脅しではありません。今、真理を愛する機会が与えられていること自体が恵みであり、悔い改めへの扉はまだ開いているという招きです。今日ここに来ていること自体が、真理を愛する選択の一つです。

今日、三つのことを学びました。惑わされるな。御言葉の土台に踏みとどまること。恐れるな。歴史の主権者は神であること。欺かれるな。真理を愛する一歩を選ぶこと。歴史はランダムではありません。定められた時の中にあります。その歴史の主は、口から吐く息で不法の者を滅ぼされる方です。その主のもとに私たちは「集められる」。これがパウロの言う終末の希望の核心です。動揺しないでください。煽られないでください。しかし目を閉じないでください。今、ここに立ってください。主は来られます。