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2026年3月15日主日礼拝 説教要旨 伏見美恵子師

説教題:真理に従う勇気
聖書箇所:ヨハネによる福音書 7章40-53節(新共同訳 新約188頁)

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中心成句:「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』」(7章50-51節)

今日の箇所には、同じイエス様の言葉を聞きながら、それぞれ異なる応答をした人々が登場します。真理と向き合う時、人はどう動くのか。ニコデモという一人の人物の歩みを通して、三つのことを学びます。

①真理は人を二つに分ける(40-44節)

イエス様が「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と語られた言葉を聞いた群衆は、二つに割れました。「この人こそ預言者だ、メシアだ」と信じる者たちと、「メシアがガリラヤから出るはずがない」と退ける者たちです。イエス様をナザレ出身と思っていた人々は、ベツレヘム生まれという事実を知らないまま拒否しました。情報が不完全なままでも人は結論を出したがるものです。ある人が初めて教会に来た時、「クリスチャンって変な人たちでしょ」と言い放ちました。何年も経って洗礼を受けた後、「あの頃は何も知らなかった」と振り返りました。真理と向き合う前に退けてしまうことは、誰にでも起こりうることです。大切なのは、先入観を脇に置いて、まず聞いてみることです。

②知識は信仰の代わりにはならない(45-49節)

イエス様の逮捕に失敗して戻った下役たちは、「今まであの人のように話した人はいません」と正直に答えました。心が動かされたのです。しかし宗教指導者たちはこれを「惑わされた」と一蹴し、「律法を知らない群衆は呪われている」と見下しました。聖書を専門的に学んだ者たちが、聖書に預言されていたメシアを見抜けなかった。知識が多いほど信仰が深まるわけではありません。聖書は、神がどのようなお方であるか、神の御心は何か、自分はどう歩んでいくべきかを求めながら読む時に、初めて生きた言葉として心に届きます。知識として頭に収めることと、神に聞きながら読むこととは、全く別のことです。

③信仰は葛藤の中で少しずつ成長する(50-53節)

全員がイエス様を捕らえようと意気込む場で、ニコデモだけが「本人から事情を聞かずに判決を下してはならない」と発言しました。大声の抗議ではなかったかもしれません。しかし、その場で孤立することを覚悟した、勇気ある一言でした。ニコデモはヨハネ3章で夜こっそりとイエス様を訪ねた人です。あれから一年以上が経ち、今度は公の場で、控えめながらもイエス様をかばいました。信仰が育っています。さらに半年後、イエス様が十字架で死なれた時、弟子たちが逃げ散る中、ニコデモはアリマタヤのヨセフと共に遺体の引き取りを願い出ました。王の葬りに匹敵する大量の香料を持参して、昼間、公然と。夜の訪問から始まった信仰が、すべてを失う覚悟の行動へと成熟しました。この歩みはニコデモ一人の力ではありませんでした。ヨセフという同じ信仰を持つ仲間がいたからこそ、二人は恐れを越えることができました。信仰の友、祈りを共にする仲間は、信仰の戦いに欠かせない存在です。

今日、三つのことを学びました。真理は人を二つに分けること、聖書の知識は信仰の代わりにはならないこと、そして信仰は葛藤と祈りの中で確かに育っていくということです。日本では命を失う迫害はなくとも、空気を読むことを求める社会の圧力の中で、真理に従う一歩は容易ではありません。それでもニコデモが歩んだように、み言葉と御霊に支えられ、信仰の友と励まし合いながら、小さな一歩を踏み出し続けていきましょう。